暇潰しの夜 11/13

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 声もなく。
 メリィちゃんは完全に硬直した。
「あの人は、ずっとメリィちゃんのそばにいて付き纏ってたんですよ。だからメリィちゃ
んと出会った人たちが次々と殺されてしまった。しかも存在を潜めすぎてて、同族の私で
さえ手が出せなかったんです」
「そんな……一体いつから……」
「さぁね。少なくとも、僕たちがメリィちゃんに出会った時にはもう既に」
 もう、ほとんど実体化は終わっていた。
 正常な公園の空気が押し流され、焦げるような熱を帯び始める。チェーンソーがけたた
ましく声を上げる。
 僕はそいつを睨みつけながら1歩後退。
 ざ、と灰崎がメリィちゃんの前に出る。
「2人とも下がってて下さいね」
 くちもとは微笑。けど視線は張り詰めている。
「は、灰崎さん……っ!?」
「大丈夫、私に任せといて下さい。──先輩」
「うん、分かってる」
 僕はポケットの中のそれをぐっと握り締めた。返ってくる感触は、まるで眠っているよ
うに静かな金属だった。
 万が一のための最終手段。たぶん、使うことはないだろうけど。
「……ゲホッ、ごぼっ」
 ノコギリストーカーは唐突に咳き込み、唇の端から一筋血を流した。
 体の構成が上手くいってないのかも知れない。それでも彼は獰悪に笑み、チェーンを吠
えさせ、ずがんと地を蹴り姿を消した。
「え……」
 見上げた夜空に溶ける影。
 遠ざかった2ストロークエンジンの絶叫が、豪速で迫り、上から僕たちに降り注ぐ!
「っ!」
 重々しい金属の激突。
 反射的に僕とメリィちゃんは頭を伏せていた。
「……せっかちさんですねぇ」
 冷めた声と、冷めた鎖の音が鳴る。
 見上げた灰崎の横顔は無表情。揺れる髪と翳った両眼。蠢く鎖のネットの上で、ぎゃり
ぎゃりとチェーンソーが火花を散らしていた。怖ろしいエンジン音があまりにも近い。
 灰崎が強く敵を睨み据える。呼応し駆ける幾十もの蛇たち。うねる鎖が男の胴にじゃり
じゃりじゃりと絡み付き、締め上げ、唸りを上げて投げ飛ばす。
「げふっ、ごぼっ……」
 怪人はまた咳き込みながら地面を滑り、停止。
 再び決死兵のような大雑把さで突進してくる。
「────」
 しかしその胴に再度大量の鎖が絡み付き、突進の勢いを殺さず投げ飛ばす。すれ違う亡
霊たちの視線。あくまでもノコギリストーカーは薄気味悪い笑みを絶やさない。
 突進。投げ飛ばす。突進。投げ飛ばす。突進。投げ飛ばす。
 そんな繰り返し。
 受け流し続ける灰崎の鎖の前に、チェーンソーは僕たちに触れることさえ叶わなかった。
「……もういいでしょう? いい加減諦めて、帰ってもらえませんか」
 どしゃりと地に堕ちた怪人を見下ろして、灰崎の翳った瞳が突き付けた。
 力の差は歴然。
 灰崎ヒカリは強かった。
 だが、それでもノコギリストーカーは笑い続ける。咳き込みながら、血を吐きながら、
いつまでもいつまでも笑い続ける。
「……ッ!」
 もう何十回繰り返しただろう。
 それでも彼の猪突猛進は終わらない。鈍らない。機械のように同じ行程を繰り返し続け
る。
「いいかげんに……ッ!」
 また同じように投げ飛ばす。さっきよりも力強く、乱暴に。
 だが、その瞬間を狙って変化は起こった。
「げほ、ごばぐはぁッ!」
「っ!?」
 すれ違い様、血反吐の目潰しが吐きつけられた。
「灰崎!?」
「な──うあ、熱……ッ!?」
 いや、目潰しなんかじゃない。
 それは亡霊の体を溶かす酸だった。じゅううと灰崎の体の端々が焼かれ、煙を上げさせ
た。
 そして遠くで落下音、再び舞い戻ってくるチェーンソーの突進。
「灰崎、来るよ!」
「わ、わかってます──うぐッ!」
 苦鳴のような声を上げて、鎖を走らせ、投げ飛ばす。
 だが投げ飛ばされながら、怪人は吠え猛る絶叫を手放した。投擲。
「っ!?」
 まずい、首を狙われてる──!?
「灰崎さん!」
「灰崎っ!」
「あ……っ」
 やりすごした。怪我はない。咄嗟に僕が鎖で、メリィちゃんが両手で灰崎を引き倒した
からだ。危うく顔が削れて無くなるところだった。
「……う……あ」
「え?」
 目の前数センチをチェーンソーが駆け抜けて、灰崎は引き倒されたまま呆然としている。
「……え? 灰崎?」
「……あ……この、音……」
 カタカタと震えている。
 なんだ? 様子がおかしい。目の焦点が定まってない。青ざめた唇がよく分からない事
を呟く。
「痛、い……やめ……脚……もう千切れ……死んじゃう、よ」
 何言ってるんだ? 怪我なんかしてないはずなのに。
「来るよっ!」
 メリィちゃんの叫びに悪寒がした。
 また突進。機械のような突進。おかしい、あんなボロボロになってるのになんで。あれ
じゃまるで全然効いてないみたいじゃないか。
「つ……」
 とにかく不味い。
「ちょっと灰崎、どうしたのさ。持病のメルヘン症候群が痛むの?」
「え……?」
 反応した。
 目の焦点が戻って、ちゃんと声を返してくる。
「え、えぇ、そんな感じです。すいま、せ……ん。なんだか……気持ち悪くて」
 だけど依然、唇は青ざめてるし震えもまったく収まってない。
「チェーンソー……やだ、この音……聞きたくない……っ!」
 近付いてくるその音に、灰崎が頭を抱えて怯えるようにしゃがみ込んだ。
「────」
 それでようやく気付いた。
 さっきの吐血。灰崎の体に触れた部分から黒煙が上がり、捕らえるように渦巻いている。
 手で触れようとしたら電撃が走った。
 ──浸蝕されてる。精神に干渉する呪い。悪夢でも見せられてるのだろう。きっと、自
分が死んだ時の記憶とか。すべてを失った瞬間の苦痛とか。
「そっか……ごめんね灰崎、女の子にがんばらせちゃって。もう大丈夫だよ、怖がらなく
ていいから」
 子供のように震える少女。
 忘れてた。この子もユーレイなんだ。
 震える肩。泣いているのかも知れない。
「ッ!」
 視界が陰る。メリィちゃんが伏せる。それで、僕の頭上に死が振り上げられているのだ
と理解した。
 でもそんなのはどうでもよかった。
 そんなことより僕にとって大事なのは、あの灰崎ヒカリが泣いているっていう事実の方
だった。
 ポケットに手を突っ込む。
 ああ、どうやって笑わせればいいんだろう。どうやったらいつもの灰崎ヒカリを取り戻
してくれるんだろう。
 ポケットの手を引き抜く。死は鋭い音を立てて弾けた。
「……」
 激しい火花を撒き散らしながら。
 ぎゃりぎゃりぎゃりぎゃりと金属が悲鳴を上げ、火花を散らし、絶叫を叫び合って押し
合う。
 押し返す僕の手には、カッターナイフがあった。
 怪人は嘲った。そんな小さな金属塊で何が出来る、いますぐにでも断ち切ってやる、と。
 だが。
 その鉄塊は、ぎゃりぎゃりぎゃりとチェーンソーと正面衝突しながら、切断はおろか傷
ひとつさえ刻まれてはいなかった。
「無駄だよ。そんなんじゃこいつは壊れない」
 応えるように、黒い、濃い呪いを滲ませる凶器。溶けるような熱の浸蝕。それに触れな
いよう避けたのか、ノコギリ男は跳躍して距離を取った。
 僕は静かに立ち上がる。
 右手のカッターナイフを握り締めながら。
「灰崎、大丈夫? 動けるなら下がって。選手交代」
「あ……」
 灰崎が言葉を返してくる。
「先輩……だめですよ、先輩は平凡さんなんですから。そんな危ないことしちゃダメです、
ここは私が、」
 でも、ダメだ。違う。そんなボロボロの笑顔なんてお呼びじゃない。
「黒川ヤマト格言集、No64より抜粋──」
「え?」
 僕はふっと髪を掻き上げた。
「男なら……!」
 クールに。
「女の子のピンチにはぁぁああ……!」
 爽やかに。
「全身全霊で、命を賭けてカッコつけるべしッ!!」
 じゃきーん。人差し指を怪人に向ける。僕の声は、公園の広い空間に長く反響した。
「「……………………」」
 灰崎とメリィちゃんの半眼とかは知らない。
「うんうん、なんか王道って感じだよね。ありがちっていうか。普通な僕にはきっとお似
合いだ」
 ぬっふっふと肩を竦める。
 それでようやく、ほんの少しだけ元気を取り戻してくれた。
「……ふふ、そうですね。ごく普通の起死回生です。だから何も間違ってませんよ。安心
して、そのまま続けて下さい」
 そうそう、こーいうの茶飯事なんだよきっと。
 なら、仕方ないさ。
「さて……」
 チェーンソーが迫ってくる。
 再度、いや、もう何十回目になるか分からない突進。僕は手の中のカッターナイフを握
り直した。
「いくよ……文房具」
 どくん──
 起動。
 呼びかけた瞬間に脈動を始める。
 冷たいはずの刃が熱を帯び、僕の物ではない何かが全身を駆け巡り、支配し始める。
 どくん、どくん、どくんどくんどくんどくん──
 まるで手の平から輸血されているようだ。燃えるような熱が血管を通して流し込まれて
いく。
「────」
 頭上に死が振り上げられる。
 その瞬間に、声が響いた。
『ああうるさい最悪死ねばいいのに、誰が文房具よ気持ち悪い』
「っ、とぉ——!」
 突風。
 振り下ろされた死刃は空振り。怪人の視界に僕はいない。
「……あのね文房具さん。ロケットスタート過ぎるから」
『うるさいってのよ。文房具言うな』
 戦慄にも似た心地でカッターナイフを見下ろす。
 僕は怪人の背後にいた。破裂するような一足跳び。風の速度で懐をくぐり、一瞬で背後
に着地していたのだ。僕の運動限界を遥かに越えた速度で。
 ザッ、と地面を踏む。
 カッターナイフから滲み出し、僕を取り巻く黒い霧。それに手を触れながら呟く。
「……今日も頼むよ。力を貸してくれ」
『やだ。めっどっちぃ』
 答える声は鈴の幻聴。網膜に映る、誰かの背中と会話する。
 それは、このカッターナイフに封じられた少女だった。
 髪は流れるような金、黒い衣装に身を包んだ、ナイフみたいに鋭い美貌。
「そこで反抗するかな普通。無機物のクセに」
  吸血侯爵 クリケット・バキンズ の人食い鏡。
 それが、このカッターナイフ——ではなく、これに宿った呪いの名称であるらしい。詳
しくは知らない。この前襲ってきた通り魔にもらった。
『誰が無機物よ、クソ凡人の分際で。いやいや封印されてるだけだっつの。ちなみに私の
次はあんたの血が封印されるんだからね』
「それ前からよく言ってるけど、いまだに全然分かんない。つまりどういうこと?」
『あれ、何? いつもの馬鹿ユーレイどうしたの?』
 はい無視。口悪い性格悪い。
「色々あってあっちでへこんでる。分かるでしょ? 結構切羽詰まってるんだ」
『ったく……あんたいっつもそんなんじゃない。だっさい男ねー。うちの兄さんを見習え
このクズ。だいたい自称・普通人ってもうなんか生まれつき生きてる価値ないわよそれ』
「辛辣だなぁ」
『わかった。貸したげるから、さっさと終わらせてよね。こっちは眠いんだから』
「はい善処します、だから早く」
 頭上に振り上げられたチェーンソーを見上げながら、脳裏に映っていた彼女が消え、僕
の体に完全浸透したのを感じる。
 金髪の、人形みたいな残酷少女。
 この刃に記録された彼女の能力が、僕の体にコピーされ、機能する。これはそういう武
器だった。
 チェーンソーが振り下ろされる。
 豪速で迫る死が、完全浸透を終えたいまはとても緩慢に見えた。激突。受け止め、流し、
軽いステップで後退していく。普段の僕からすれば音速の世界の攻防だ。
 僕に 輸血 コピー された彼女の特性は2つ。
 1つ目はこの人間離れした超速度。恐らく何かしらの訓練を受けた人間だったのだろう。
彼女の じょうほう を輸血されている間、僕の体は自分でも怖ろしいくらいの素早さ
を発揮する。
 そしてもう一つは……
「は──っ!」
 記録された彼女自身の呪い。
 定義は“切断”、物質に影響を与える疑似現象。宙を駆ける朱のカマイタチが、高速で
怪人の背中に迫る!
「……、は?」
 カマイタチは容易く亡霊の体を掻き消し、霧散させた。
 勝った。
 そこまではよかった。けど……
「な──っ!?」
  輸血 コピー された反射速度に任せて大きく飛び退く。
 僕がもといた場所に振り下ろされたチェーンソーは──3本。
「な、なにこれ……」
 複数のにたりという笑みが僕を見据える。
 3人に増えていた。
 怪人ノコギリストーカーが、3人になっていた。
「う……うそでしょ?」
 がささささと兎狩りのように駆け、僕を取り囲んだ怪人は6人。
 一斉にチェーンソーを振り上げ、飛び掛かってきた人数は9人。
「く──ああああああああっ!!!」
 降り注ぐ暴力の嵐を弾き、くぐり、砕いて疾走・その場から逃れた。
 振り返った時には既に、怪人は12人まで数を増やしていた。
 12本のチェーンソーが鈍く輝く。
 なんだろう。森林伐採のために集まった木こりの会みたいだ。木は1本しかないんだけ
どね、僕の首。
「……つ……なんだよ、怪人の大安売り?」
 まっずい。意味不明だけど100点だ。なにせ殺す気で追い詰められている。
「──────、」
 展開、25人。
 25人の怪人に取り囲まれ、怖ろしい何かを向けられている。
 飛び掛かってきた人数は30。地を蹴る音さえやかましかった。
「先輩!」
「くっそ……!」
 カッターナイフに眠る呪いを起動、連続発動。
 大量のカマイタチが半数ほどの怪人に突き刺さって霧散させ、灰崎の鎖が残りを足止め
しカマイタチを打ち込み、残った2人が同時にチェーンソーを振り下ろしてくる。
「──っ!」
 懐を飛び込み前転で抜ける。
 振り返り様カマイタチを振るい、殲滅。残り0人。勝った。
「うしろっ!」
「!?」
 でも安堵した瞬間にまた襲われる。
 振り返る前に飛び退いた。同時に僕の髪をチェーンソーが掠めていた。引き千切られる
痛みが頭皮の一部を痺れさせ、背中を悪寒が駆け抜けた。
「ぐ……!」
 1対1で対峙する。にたりと笑う獰悪な笑み。
 けれどげほ、ごほと咳き込んだ瞬間に怪人の背後から怪人が現れる。目の錯覚みたいに
そっくりな怪人が。
「……アンタ一体、何なんだよ。何がしたいんだ」
 僕はカッターナイフを向けて睨みつけた。増殖し続ける怪人に目を向けながら。
 怪人は一瞬喘息と聞き間違えそうな掠れ声で返してきた。
「……刻みタい。だけ。」
 飛び掛かってくる。
 数は更に増えて50。
 50人もの怪人が、全方向から、チェーンソーを伴って猪突猛進してくる。
「つ……!」
 無理だ、全滅させてたのでは間に合わない──とにかくこの一瞬を乗り切る!
「いけ──っ!」
 カマイタチを大量発動。
 ただし四方八方ではなく、すべてを右前方に集中させる。風の渦は数人の怪人を霧散さ
せ、包囲網に穴を作った。怖ろしい速さで攻防を繰り広げながらそこを抜ける。
「────え?」
 血液《コピー情報》に支配された僕の体は自動で動く。
 だから、脳には思考するだけの隙間が与えられていた。
 その空白が直感を告げる。
「……なんでこんなに静かなんだ?」
 怖ろしい量のエンジン音に耳を覆われている、というのは視覚が作る錯覚だった。
 目の前では豪速の攻防。
 チェーンソーを振り下ろされ、弾き、カマイタチが噴出し、その場から跳んで、追い縋
るチェーンソーを弾き続ける。
 防戦一方の最中で理解した。
 確かに目の前には大量の怪人がいるけれど、けたたましいエンジン音はたったひとつし
か鳴っていなかったのだ。
「……うーむ。なるほど」
 無限増殖。
 加えて怪人は残り0人になっても簡単に復活してきた。ということは。
「……本体が、逆なんだ」
 チェーンソーのカタチをしたユーレイ。
 切り刻みたい。
 恐らくそれが彼を亡霊として存在させている根幹なのだろう。
 欲求。欲望。嗜虐欲。
 歪み、行きすぎたソレは彼のカタチをチェーンソーという凶器そのものに変え、自身を
振るう怪人という幻像を作り出すことで殺人を成立させているんだ。何故ならそれがもっ
とも直接的に他者を切り刻む方法だから。
 恐らくこの中にいる、チェーンソーの姿をした1体だけの本物が、ノコギリストーカー
という怪人を無尽蔵に量産しているのだろう。
「──」
 ふと耳に入った。
 僕との攻防を無視して、1人だけ灰崎とメリィちゃんの方に駆けていく足音──あいつ
だ!
「つ……メリィちゃん伏せて!」
 灰崎が立ち上がり、瞬時に鎖の壁を編み上げる。
 だが。
「!?」
 惨殺解体ショー。
 鎖の壁はずたずたに切り刻まれ、怪人の猛進を許してしまう。
 怪人は笑む。
 不完全な体の構成に血を吐きながら、猪突猛進以外の機能を持たず。
 チェーンソーは吠え猛る。眼前で目を見開いた無垢な獲物に歓喜する。そのエンジン音
がいっそう膨大な呪いを振りまき、空気を黒く浸蝕し、焦げ付かせていく。
 振り上げられる死刃。
 灰崎の足が僅かに動く。
 風を裂く音。
 灰崎は振り下ろされた凶器をギリギリで躱していた。結んでいた髪が解ける。
 だが無慈悲にもチェーンソーは休みなく返される。狙うは白い処女雪のような首筋。豪
風。死刃がいっそう速度を増して振り上げられる!
 ──もう、後はなかった。
「うわあああああああぁぁぁああああああっ!!!」
 メリィちゃんがおもいきり灰崎に跳びついた。
 体を抱き締め、ぶんと2人の姿が掻き消えて、ノコギリストーカーの背後に現れる。
『──本当ですってば。
 なんでも昔は極度の人見知りっ子だったらしくて、それが原因みたいですね。メリィち
ゃんらしい、とっても可愛い呪いですよ──』
 視界外への脱出という呪い、招かれる現象は『瞬間移動』。これこそが、気が付けば音
もなく背後に立っているという都市伝説メリィの真相だった。
 距離にしてたった数メートル、何の攻撃性も持たないそれが、しかし吠え猛るチェーン
ソーを完全に空振りさせ、決定的な隙を作り出した。
「切り刻みたい……か。僕にはよく分からないけど」
 僕は駆けた。偽物の怪人たちを寸断しながら、借り物の猟犬の速度で。
 逆手握りに持ち替える。
 そして、2人を飛び越えながら呟いた。
「——僕の日常を壊さないでくれ」
 灰崎は眩しそうに目を細め、本当に安らかな笑顔で見上げてきた。
 いつか絶望に塗り潰されていた、だけどいまは幸福に溢れる瞳で。
 ざ きん——っ!
 チェーンソーが弾かれ、夜に舞う。
「…………」
 派手な落下音。
 タイルの地面に落ちた途端、怪人たちは一斉に掻き消えた。残されたのは僕たちと、1
本のチェーンソーだけ。
 公園に沈黙が満たされる。
「……勝っ、た?」
「いや。まだだよ」
 メリィちゃんが呆然と呟く。
 僕は冷淡に足を進め、チェーンソーの形をした悪霊を見下ろす。
「……こっちにはまだ切り札がある。残念だけど『切り刻みたい』という君の目的は叶わ
ない」
『…………』
 チェーンソーは答えない。
「……分かるよね。ここにいても、君の目的は果たせない。だから大人しく、どっか行っ
てくれ」
『…………』
 ぴょん、とチェーンソーが跳ね起きる。
 刃を鳴らし、地面を削りながら慌ててどこかへ逃げ去った。
『……うわ、最低。なんで逃がすのよアタマ悪い』
「うるさい文房具サマだなぁ」
 確かにまずいとは思うけど。あれ以上僕にどうしろっていうんだ。
「いえいえ、先輩はあれでいいんですよ。退治するのは霊媒師さんのお仕事。ひとまず追
い払えれば上々ではないかと。お疲れ様です」
『「………誰?」』
 カッターナイフと唱和した。
 髪の解けた灰崎ヒカリ。へぇ。印象変わるもんだなぁ。
「ねぇ、それ……文房具だよね?」
 メリィちゃんが恐る恐る、灰崎の背中から顔を出す。
「ん、さわってみる? 確かに本当に文房具だよ」
『連呼すんな』
 ひょい、とタチの悪いカッターナイフを投げ渡した。
 メリィちゃんはそれを両手に置いて、眉をしかめ、中の人に問いかける。
「……おいくつ?」
『14——いや、15歳だったかしら。よく覚えてない』
「お名前は?」
『近藤神風』
「オカマ?」
『冗談よ。名前はミサキ、苗字は秘密』
「へぇ……」
 メリィちゃんが顔を上げ、真剣な顔で僕に言った。
「最近のオモチャってすごいね」
『待て。そして死ね潔く』
 なかなかいいコンビだった。
「はぁ……にしても、疲れた疲れた」
「まったくです……うぅ」
 灰崎と並んで腰を下ろす。
 とりあえずこれで解決できた。メリィちゃんに憑いてた悪霊も追い払えたし、僕らは晴
れてお役ご免というわけだ。
 静かに目を見合わせ、気怠く笑う。そんな僕らを飛び越えてメリィちゃんが、カッター
ナイフが亜音速で疾った。
 え?
『——バカね、平凡』
 目を見開く。
 背後でチェーンソーの叫びが聞こえる。それに向かって相対する狂気が聞こえる。
『殺し殺され喰らい合う——これが絶対律なの。あんたが夜の街のルールを無視するから、
こういうことになるのよ』
 や め ろ 、と僕は叫んだ。
 しかしカッターナイフが呪いを纏い、メリィちゃんの腕を介して、チェーンソーをバラ
バラに切り刻む。
 果実の弾ける音がした。
 完全な殺害。
 びちゃりと少女の頬を染め、その目の前で怪人が、今度こそ永遠に消失する。
「ぁ——」
 目を見開く。
 石のように硬直し、カッターナイフを取り落とす。虚しい音が鼓膜に届いた。
「………………」
 僕の声が、死んだ。
 何も言えない。もう遅い。何かが壊れた。いまこの瞬間、僕の目の前で崩れ落ちていく。
 虫1匹さえ殺せないはずの少女が、殺害の感触を、その右手に味わわされてしまった。
 視線を下ろす。
 肉。
 チェーンソーの中身は人肉だった。
 悪霊でさえも人間だった。
 なのに彼女は殺してしまった。血に染まった手を見下ろして、肩を震わせ、ふらついて
倒れそうになる。
「メリィちゃんっ!」
 灰崎が背中を受け止め、強く強く抱き締めた。
 震え喘いでメリィちゃんが頭を抱える。恐怖と混乱に過呼吸している。がたがたと震え
る右手を凝視している。
「灰、崎さ、ん……わた、わ、たし……いま……っ!?」
「違います! 何もしてません! メリィちゃんは何にもしてません!」
 目を閉じ、灰崎は懸命に叫んだ。
 メリィちゃんはただ呼吸するだけで精一杯らしい。
 その眼前で、人肉は黒い燐光となって消え去った。跡形もなく。この世から完全に蒸発
した。
「…………」
 僕は黙ってカッターナイフを拾い上げた。
 ひどく刺々しい気分で見下ろす。
「……言い遺すことは、ある?」
『別に。もともとただの血液よ、わたしは。ホンモノじゃない』
「そう……ならいいや、誰が死ぬわけでもないもんね」
 かちゃん、と地面に落とす。
 代わりに手頃な石を拾い上げた。
「っ! 先輩!?」
「分かってるよ文房具さん。いまのは君の判断が正しいさ、でも。だからこそ僕らは責任
を取らなくちゃいけない」
『……そうね』
「ごめんねメリィちゃん、本当にごめん。僕がぼうっとしてたばっかりに」
「…………ぇ……?」
 苦しげな声が返される。
 ついさっきまで、普通の女の子だった彼女がいまは、血の記憶を背負わされていた。
 僕と、このカッターナイフのせいで。
 迷いなんてない。
 思い留まる必要がない。
 歯を食いしばり、力のままに僕は、カッターナイフに石を振り降ろした。




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