名も無き花

第5話

 郵便屋さんを追って、喫茶店を飛び出した。外はお祭り騒ぎのような荒々しさで、人間が河みたく流れて一方向に逃げていくところだった。
 即ち、町の外を背にして。町の中心の方へと、みんな逃げているようなのだ。子供を抱え、荷物を抱え、焼き討ちにあったように駆けて行く。集団ヒステリー、目の前に門があったら叩き壊していくんじゃないかってくらいの暴力的な勢い。そんな流れに飲まれてしまわないよう喫茶店の壁に貼り付き、本当に逆流の川を進むように一歩一歩と進んでいく。
 次第に人の量が少なくなってきて、まばらな一般人とすれ違いながら駆けて行くことが出来るようになった。しかし、途中で呼び止められる。
「何やってる! そっちへ行ってはダメだ!」
 メガネをかけた、インテリそうな男だった。手首を掴まれて制止される。無理もない、流れに逆らって魔物がいる方へ駆けて行く女《わたし》がおかしいのだ。本当に、私は田舎から一人で出てきた時から何も変わっていない。
「あの……知り合いが、あっちに」
「気持ちは分かるが、行ってはダメだ! みんなと一緒に避難しなさい! いま、魔道士たちが食い止めている最中だ!」
「あー……うん。ですよね」
 やっぱり、魔道士が戦っているのか。衛兵はどうしたんだろう。店長の同僚は、とっとと逃げてしまうか敗北するかしたんだろうか。
「ところで、暑苦しいコート着た、金髪ロン毛の男の人見ませんでした?」
「ああ、あっちで魔道士たちと一緒に戦っていたね。知り合いか」
「ええ、ごめんなさい」
 眼鏡さんの頬にぺたりと手のひらをくっつける。まるで子犬にそうするように。な、何をするんだ、と非難された瞬間に術式を構築・魔力を通す。走る魔力の紫電。業務で毎日使用しているため、あまりに手慣れた発動。広域結界の助力も相まって、私はあっさりと“魔法”の発動を成功させた。
「な……っ!?」
 具体的には、眼鏡さんの顔に白い霧を噴出したのだ。眼鏡は曇り、凍りつく。その隙に私は手を振り払って猫のように逃げた。
「ごめんなさい。あなたは逃げてね」
「待ちなさい! キミ!」



 ガランと静まり返った無人の町角。廃墟かゴーストタウンのようだった。
 白レンガの町角に、一輪の雑草が咲いていた。その花に触れる。タイルを突き破って生え出した花。奇跡のように生きている、逞しい名も無き花。
 私と花の邂逅を脅かすように、甲高い剣の音色が遠く響いた。墓標のような周囲の白い建物を見上げる。男たちの怒号と、雷が弾けるような音も。
「……あっち……」
 もうすぐそこだ。複雑に入り組んだ町の、五段ほどある階段を上がれば、門から直通の正門通りに出るはずだ。――そこから、激しい戦闘音が聞こえている。
「大丈夫……ちょっと、覗くだけ。」
 私は何をやっているんだろう。ただ郵便屋さんを追って来た。きっと心配だったのだ。店長のように、あの郵便屋さんが死んでしまう光景が容易に想像できてしまうから。
 ――――店長が死んだ時、何も出来なかったから。
 だから私はここに立ち会う。そして、決して来てはいけなかったと後悔する。
「! ぐぁあああッ!?」
「ひっ!?」
 人間の上半身が、燃え上がる。まるで松明。コートを燃やされた魔道士が、転がりまわり、周囲の味方を振り払って噴水へと突っ込んだ。死の舞踏。重い火傷を負った魔道士は、焼かれた肉に水が染み、水の中でさらにのたうち回っていた。
 …………何だ、これは。
 私は何を見ているのだろう。どこへ来てしまったのだろう。魔道士が死んでいる。首を刈られて動かなくなっている。そんな冗談のような現実がすぐそこにある。こんな死の池で、命がけで剣を振るうなんてどんな地獄だ。
「くあああッ!」
 剣が、鈍い音を立てて突き刺さる。あの郵便屋さんだった。決死の特攻はしかし、体が液体でできた生物相手では何の意味もない。
「! 下がれッ!」
 液体生物の挙動に、魔道士が叫んだ。郵便屋さんは危機にあった。液状生物に剣を根本まで突き刺して、ゼロ距離にいたのだ。
「ぐぁッ!」
 郵便屋さんがかろうじて上半身を伏せ、死を回避する。何だろういまの鞭みたいの。郵便屋さんの上半身を刈り取ろうとしているようだった。私の動体視力では追えなかった。
「くそ……っ! おい、何か手はあるか!?」
 力任せに剣を引き抜いた郵便屋さんが後退し、残る二人の魔道士と居合わせた埋葬士に問う。それぞれ短髪と長髪の魔道士たちが頷き合い、長髪の方が何かの術式を起動する。
 光を放ち、世界が赤く脈動する。ドクンドクンと大気が震える。長髪の魔道士が展開した魔法陣はとても複雑で、私ごときではまるで内容を追えはしない。
「それは!?」
「魔法結界――加速陣だ。発動工程を大幅に省略し、連発を可能にする」
 長髪の魔道士が低い声で述べ、それを短髪の魔道士が火炎魔法を構築しながら引き継ぐ。
「本来、こういう工程省略系の魔法結界は、逆に手順が分からなくなって滑ることもある。だがな……」
 加速陣が高速回転を始める。時計の針を早回しにするようだった。短髪の魔道士の両手に炎が吹き出し、その腕にいくつもの小さな魔法陣をまとわり付かせる。即ち――連発前の予備動作《チャージ》だ。あの魔道士は、両手の魔法を維持しながら十近くの火炎魔法を並列展開している。
「連携戦闘を訓練しきった俺たち魔道士に、そんな隙はねぇ――ッ!!」
 魔道士が、獣のように駆け出した。その両手に握られた炎の隕石が解き放たれる。
「くたばりやがれこの化け物っ!」
 疾駆する。朱の軌跡が、撒き散らされる美しい火の粉が弧を描いて魔物に立ち向かっていく。
「らぁあああああああああああああああッッ!」
 幾条《いくつ》も、幾条《いくつ》も。緋の線を描く魔法の軌跡。目に焼き付く深い色の炎は高位のものだ。悪しき魔物や犯罪者から、市民を守るために鍛えぬかれた魔道士の火炎魔法。それが、次々と着弾して溶岩のように魔物の全身を覆う。燃え上がる魔物。海を割るようなおぞましい悲鳴。
 だが――
「!? 伏せろ――ッ!」
「何!?」
 最悪だ。短髪の魔道士は、自身が放った火炎のせいで視認が遅れた。同じように火炎魔法が放たれたのだ。連続魔法の発動で隙だらけだった魔道士の顔に、全身に炎が直撃する。
 絶叫が上がった。熱い、熱いと泣くように叫ぶ。もはや戦闘どころではない。郵便屋さんが、埋葬士が魔道士を引き戻そうと前に出る。顔を掻き毟り、その様子に長髪の魔道士が加速陣を畳んで消火の魔法に切り替えようとしたその瞬間。
「  ?!」
 ――――私は、見た。見えてしまった。位置が悪い。鞭が、駆ける。ぷしゅりなんて果物のような音を立てて、何かが引きちぎられるのを見てしまった。
 血が噴出する。壁に付着し、私の顔にもあたたかい血が掛かる。私は目を閉ざすことも動かすことも出来ず、ただただ長髪の魔道士の首を刈った凶器が、液状生物の口にトンボのように帰っていくのを見送っていた。
 舌だ……
 舌が、鋼鉄のような硬度を発揮して、首を引きちぎったんだ。見えないくらいに速く動く舌は、その質量も相まって怖ろしい威力を発揮する。……何故だか、店長のことが脳裏をよぎった。
 崩れ落ちていく、首から下がまるで蝋人形のようで。首は冗談のように空へ舞い上がって、どこか遠くへ飛んでいく。埋葬士が目を見開き、郵便屋さんが呆然と手を伸ばそうとしていた。
 うそだ。何よこれ。だって魔道士なんだよ? 仮にもプロの魔道士が、市民を守る秩序の味方が、どうして、こんな――――。

 ――――どうしてよりにもよって、顔なのだろう。

 どくんと嫌な予感に胸が震える。町角に崩れ落ちた首のない死体。まるで小柄になってしまったかのようじゃないか。本当にたちの悪い冗談のようだ。よりにもよって、死者の最後の尊厳である死に顔を持って行くなんて、魔物ってやつはどこまで最低なんだろう。
 キィキィとガラスで出来た虫の大群が羽を鳴らすような、不快な耳鳴りに聴覚を覆われている。それは恐怖だ。
 まさか、まさか。そんな偶然があるものだろうか。いや偶然ってなんだろう。今朝方この町の門で人を殺した魔物が、もう一度町に押し入って来たなんてまったく偶然なんかじゃない。
 それは、やはり、話の通りに巨大な液体状の生物で。生きて動いていることが信じられないような悪夢の具現だった。全身が青みがかっていて、べちゃべちゃと波打つ液体が岩のような溶け崩れた直方体になって直立している。水を切れるわけも、燃やせるわけもない。おぞましい、束になって掛かってもどうすることも出来ない化け物だった。
 まさか、こいつが。
『メ、ル……』
 ――――――え?
 いま、幻聴が聞こえた。聞こえるはずのない声を聞いてしまった。私は錯乱しているようだ。死人の声を聞くなんて馬鹿げてる。肩の辺りを痺れるような悪寒が舐め回している。
 見るな、と私に気付いた郵便屋さんが叫ぶ。そんなこと言われたってもう遅い。私は既に見ているのだ。単に、理解が追いついていないだけに過ぎない。
 液状生物は、あんな体なのに、内臓がある。お情け程度にぷかぷか浮かんでる。それは、脈打つ肉塊と、そして人間の生首だった。
 店長だった。
「ぃ―――――――――――――」
 喉の奥がひきつって、縦に鉄パイプでも突っ込まれたように硬直する。額を殴られたような衝撃が走る。私は頭を抱えて悲鳴を上げているらしかった。視線が固定されてしまったように動かせない。しっかりと、店長と目が合ってしまっている。理解の及ばない現実に私の理性は吹き飛び、ただただ喉から金切り声を噴出させる機械になっていた。
 ああ、ああああ。吐き出す空気がなくなってもまだ声が漏れる。なんて青白いんだろう。まるで作り物の人形のようじゃないか。けれど、あんなリアルで悪趣味な生首を作る理由がどこにも見当たらない。本物だ。本物の店長が、青みがかった化け物の内部に浮かんでいるんだ。
 その瞼がかすかに震えていた。ゾッとする。動いた? なんで動いたの? もう肺も心臓もないのに、どうして眼球が動いているの?
『――――――――…………』
 何か、言ってる。口がかすかに動いてる。悲痛に捩れた双眸で、自分の身と引き換えに町から魔物を追い払った店長は、言ったのだ。
『た、す ………………け、……』
 郵便屋さんと埋葬士が、憤怒の声を上げ、斬りかかる。魔物は嗤うように身をたわませ、体内の店長を転がした。呆然と緩慢な速度で転がる店長。二人の剣は魔物を串刺しにして、しかし何の意味も果たしはしない。
「――!」
 代わりに、剣を突き立てた二人を包み込むように火炎魔法が展開される。二人は懸命に剣を引き抜こうと藻掻く。火が灯る。間に合わない。
「がッ!?」
 声を上げた郵便屋さんは間一髪だった。コートの端が煙を上げる。片や、埋葬士は逆に思い切りが良かった。間に合わないと踏ん切りをつけ、剣を手放したのだ。
「……降参だな。素手では何もできん」
「なら、もう降参だと交渉してみたらいいんじゃないか」
 地獄の底で冗談を交わし、二人は正気を確かめ合った。どちらもまるで余力は感じられない。
 郵便屋さんが片手で剣を前に構え、ナイフを取り出した埋葬士に問う。
「魔道士が死んでしまった。正直な感想を言えば絶望だ。まだ、何か策はあるか」
 郵便屋さんが持つのは、風変わりな剣。曲線的で、しかし豪奢というわけではなく、どちらかといえば紫を孕んだ暗い色合いの剣だった。
 片や埋葬士の方は、店長に浄化を施した時と変わらない。深くかぶったフードに、真っ黒いローブ。今は逆手のナイフを格闘技のように構えているが。
           ・・・・・・
「生憎、俺は埋葬士だ。ろくな魔法はない。お前は?」
 郵便屋さんが肩をすくめ、その繊細な顔で疲れたような微笑を象る。
「…………ただの郵便屋だよ」
「面白い冗談だ。どこの傭兵か私兵か知らないが、頼りにしている」
 埋葬士の声は、低い。
「しかし、はっきり言って潮時だろう。どうだ、ここいらで大人しく逃げるというのは。戦力的に考えて妥当な判断だと思うが」
「生憎だが、逃げ場なんてないさ。この街を食い荒らされれば、俺たちはそれを見過ごしたことになる。今後この街で一切の商売ができないことを覚悟するんだな」
 埋葬士が嫌な顔をする。郵便屋さんは女性みたいに線が細いのに、頑として前だけを見据えていた。
「俺一人ならそれでも逃げるが――お前、退かない気か?」
「当然だろう。被害者が増える。逃げるなんてあり得ない」
 前だけを。魔物だけを。否、違った。さっきから郵便屋さんがまっすぐに直視していたのは魔物ではない。
「――――あの人が、命懸けで守った町だ。居合わせた俺たちにはこの町を守る義務がある」
 郵便屋さんが特攻のために剣を構える。同時に、勝機を探す埋葬士が私の方を見て、声を上げた。
「――アイス売り……!」
 郵便屋さんも、前を向いたまま言った。
「逃げるんだ。ここにいてはいけない」
 魔物が、身を震わせている。ずるずると体を引きずってこちらへやって来る。郵便屋さんが魔物を警戒して構える。
「……え?」
 その時、埋葬士がニヤリと笑った。何故だか壮絶に嫌な予感に駆られた。
「……知っているか。魔法は、俺たちの生活に火を起こす手段という根っこのレベルから完全に浸透しきっている」
「なんだ、いきなり? それがどうかしたのか」
「『アイス売り』にも魔法が必要なんだ。これが、どういう意味か分かるか」
 魔物は進んでくる。二人はジリジリと後退している。
「……だが、」
「威力強化の魔法結界を持っている。俺自身はろくな魔法は使えないが、あるいは――」
 二人が、じっと私を振り返る。私を。
「……………………え?」
「おい、そこの。魔法を使えるな?」
 埋葬士が確認してくる。何言ってるんだろう、逃げ出したい。魔物が近づいてくるこの切羽詰まった状況で、意味の分からない質問を投げないでほしい。そもそも、こっちは酷いものを見せられて顔もぐちゃぐちゃなのだ。本当に来るべきではなかった。
「……何を……」
「結論から言うと、お前の魔法が必要だ。あれを見ろ」
 埋葬士が魔物にナイフを向ける。答えるように飛来する鋼の舌を、郵便屋さんの剣が打ち落とした。
「おい、悠長に話している暇はないぞ!」
「分かっている! ……いいか、見るんだ。あの魔物の心臓、体内で脈打っているのが見えるだろう」
 そんなことを言われても、店長の顔が目に入って仕方ない。……しかし、確かに魔物の体内で何かが脈打っているようだった。
「さしもの魔物といえど、あれほど分かりやすい心臓を潰されて生きてはいられないだろう。あれが弱点だと狙いをつけ、さっきから俺たち剣持ちが串刺しを狙っているんだが――」
「! 来るぞ!」
「チィ――話の途中だ、大人しくしていろ!」
 魔物が、生きた竜のような火炎魔法を放ってくる。真昼にもかかわらず町角が赤の光に染まる。郵便屋さんが退避し、私の前に立つ埋葬士は左手を突き出す。防御の魔法陣。水を割り裂くように炎が流れている。熱波が肌を撫で、このまま死ぬのかと思った。
「いいか。心臓を狙って剣を刺しても、あの体では流動して心臓が狙いから逸れる。心臓以外への剣撃はまったくの無意味だ。あの魔物は、魔法で分解・蒸発させるか、あの心臓をなんとか串刺しにする以外にない」
 ――だから、魔道士たちは火炎魔法を行使していたのか。燃焼ではなく蒸発を狙っていたのだ。よく見れば、魔道士たちの決死の魔法によって魔物は始めより少しだけ体積を減じているように思えた。
 でも、剣だけでは倒せない。だから私の魔法が必要だというのか。残念ながら、それは不可能なオーダーだ。
「…………無理だよ。私、魔法のスキルは最低なんだ……」
「無理ではない。やれ」
「無理だよッ!」
 私は絶叫し、頭を抱えた。戦うなんて無理。私は、魔法使いとしてはあまりにも無力なのだ。
「……私の魔法は、アイスを売るだけのものだよ。それしか出来ない。それ以上のことが出来るんだったら、こんな惨めな人生送ってないよ……」
 魔物が迫ってくる。ぶじゅぶじゅと醜い音を立てて、私たちの首を刈り、血を魔力を吸い尽くすために。もう逃げなくてはならない。だけど、逃げ場所なんてあるのだろうか。追い詰められて、私は震えながら訳の分からない言葉を漏らす。
「……私、ひどい田舎の出身なんだよ……教育なんてまったくなくて、難しい言葉だって読めない。魔法なんて誰も教えてくれなかった。畑仕事しかさせてもらえない小娘が、牛小屋の裏でこっそり練習しただけの魔法に、期待なんてしないでよ……」
 涙が溢れそうだった。私は、なんて弱い。なんて無力なんだろう。この手の小さすぎる魔法は、自分自身の食費を稼ぐことさえ重荷だった。
「…………俺はな。埋葬士になどなりたくなかった」
「え――?」
 魔物に向き合う埋葬士が、鉄のように錆びた声で言った。
「魔道士になりたかった。ああ、ガキの頃の話だがな。市民を守る騎士と魔道士に、あんな風に魔物と戦う姿にありがちな憧れなんかを抱いていたのさ」
 埋葬士の視線の先には、郵便屋さんがいた。凄まじい速さで切り結ぶ。切りつけ、回避し、無駄だと分かってもまた切りつけ、魔法の発動を察知して後退する。あの人は、騎士のような技量の持ち主だった。剣一本で町の外を行き来しているというのも頷ける。
 対して、あっさり剣を手放した埋葬士は力なく笑っていた。
「攻撃魔法が使えないんだ。才能がない。炎も水も風も氷も、生まれつき一切行使できない」
 ――――それは、
 その背中には、影があった。
「だから、俺にろくな魔法は使えない。詐欺師に一方的に攻撃魔法を打ち込まれて何も出来ない。しかしな、無才なりに努力して、なんとかカスのような魔法ばかり覚えて、こうして未練がましく埋葬士なんかをやっているわけだ」
 疲れきった笑み。思えば、私は私なりに恵まれていたのかも知れない。お爺さんの書棚に、たまたまいつのものか分からないような古い魔法の本が残されていたのだ。それを一人で熟読して、二年かかって基礎魔法をひとつだけ習得できた。畑仕事やってた小娘は声を上げて喜んだ。しかし、恐らく血を吐くように努力したであろうこの埋葬士には、小娘がたったの二年で習得した初級魔法が十年掛かっても二十年掛かっても、おそらくは死ぬまで習得できないのだ。
「お前は、“あの魔法”を使えるんだろう? ならそれでいい。お前はただ、初級魔法を打ち込むだけでいい」
 初級魔法。
 初級魔法。
 その言葉が、私たちのような才能のない人間には重くのしかかる。童話の中の魔法使いたちは指一本動かせば何だって出来るはずなのに、呪文ひとつで大樹のような火柱を生んで簡単に魔物を追い払えるはずなのに、なのに現実を生きる私たちには、蝋燭に火をつけることさえ叶わない。
 子供に笑われるような初級魔法の出来る出来ないで、職業を、就職を収入を、一生を左右されるのだ。
 ……魔法なんて、まるで夢がない。ただの能力主義社会を生んだだけだ。いつか小説の魔法使いに憧れていたはずの小娘が、今はこんな悲しくて乾いた諦念なんかを抱いている。
「俺が全力で魔法結界を敷いてやる。小娘の分際で俺には使えない攻撃魔法が使えるお前は、俺の結界を利用し、存分にその忌まわしい“初級魔法”を行使してみせろ」
 たっぷりと嫉妬や毒を塗りつけた、埋葬士の皮肉な笑いだった。私は、瞼を拭って立ち上がる。
「…………攻撃魔法なんていいものじゃないよ。あと、私、今年二十七歳だから」
「知っているさ――ふん。初めて聞いた時は絶句したがな。小娘なのは変わらんだろう」
 埋葬士が鼻で笑った。そこで、郵便屋さんが高速で後退してくる。予断なく剣を構えながら言ってきた。
「……もう大丈夫なのか」
「大丈夫か、だと? そんなことはやってみなくては分からない」
 私も頷いた。唇を歪めて、郵便屋さんが魔法のように消える。それは疾走だった。同時に、埋葬士が手を打ち鳴らして魔法結界発動の術式を組み始める。
「時間を稼げ、郵便屋!」
「分かっている!」
 郵便屋さんが声を上げ、両手で大きく剣を振りかぶって魔物に迫る。それを見送りながら、埋葬士がぽつりと言った。
「……時間が掛かるぞ」
「え?」
「才能がないんだ。仕方ないだろう」
 本当に、私たち才能のない人間は、いつもいつも余分な努力を強いられる。
「らあああああっ!」
 郵便屋さんが、斬りかかる。突進の威力を、剣の遠心力をすべてを斬撃に載せた、横殴りの強烈な一撃。風薙ぎの音がここまで聞こえた。
「!」
 大振りの剣は盛大に魔物の胴にめり込んだように見えたが、郵便屋さんは苦鳴を上げる。液状の体を切る。深々と突き刺さった剣を押し通そうとする姿は、まるで沼に捕まった棒を一心に振り抜こうとしているかのようだった。
 隣の埋葬士が頭を掻き毟り、声を上げる。
「くそっ!」
 埋葬士の眼前に組み上げられていく魔法陣が、パシリとショートして火花を散らす。たったの一箇所。魔法の術式は、ほんの少しの書式違いがあっただけでも、その機能の一切を失い沈黙するのだ。私は隣で、その複雑な術式を読み解こうと必死に目を走らせる。
 郵便屋さんは一人、死と隣り合わせの最前線にいた。まるで意に介さないかのように前進してくる魔物に押されながら。
「らぁッ!」
 引き、斬る。それが精一杯だった。刃は魔物を両断するに至らず、そして両断したところで意味は無いだろう。水を切ることは出来ないのだ。
「危ない!」
 魔物が、動く。郵便屋さんの目の前に問答無用で歪な魔法陣を形成し、処刑の魔法を起動する。
「がっ!?」
 炸裂、した。してしまった。確かに、間違いなく火炎魔法は発動し、郵便屋さんの上半身に熱波と威力を振りまいて後退させる。終わったと思った。郵便屋さんが顔を上げた時、そこには元の繊細さを台無しにするような酷い火傷が刻まれているのだろう。
「ふ――!」
 そんな当然の結果に反して、何故か剣を横一閃に振るい、斬りつける。平気なんだろうか? 顔を上げた彼は“何故か”まったくの無傷だった。
「生憎、魔法には嫌われていてね」
 ……気のせいか、一瞬剣から煙のようなものが上がっていた気がした。
「ここ! よく見て!」
「何……!?」
 私は、埋葬士が組み立てる術式の破綻を発見した。その部分の光を指さして強く指摘する。私の言葉を追うように、埋葬士が術式を追いながら考えを巡らせる。舌打ちとともに、ようやく埋葬士が理解した。
「ああ…………こんな簡単なことか、クソッタレ」
 皮肉な自虐と共に、術式は完成した。
「いくぞ、“魔法結界”――!」
「っ!」
 ――――青白い光が駆け回り、魔力が巡って魔法が起動する。回路を巡る魔力は加速され増幅され、真昼に落ちた少太陽のような強烈な光が網膜を焼く。肌を痺れさせるほどの命の脈動。人間の精神力に起因する魔力というものは、何よりも私たちの魂を震えさせるエネルギーなのだ。
「――っ!」
 魔力加速の破綻が取り除かれた魔法は、無理のない効率的な運用によってぐんぐん増幅されていく。掛け算の掛け算の掛け算まで、無責任に放出された魔力は人間の器では耐え切れないほどに大気中で沸騰し活性化していく。
「………………え、」
 世界が、変質する。起こり得ない魔法《きせき》が、既にこの場に顕現していた。
「…………………………………………雪……?」
 はらりと、手元に白色が降り注ぐ。いつの間にか空は冬の雲に覆われていた。大気は凍え、息は白く、町角の風景は一瞬にして様変わりしていた。
 勢いをまして降ってくる雪の中で、懸命に結界を維持しながら埋葬士が言った。
「…………魔法結界、『冬の息吹』」
 大気が、鳴ってる。魔力が満たされ、この一帯はひとつの属性を帯びていた。
 ――強化結界だ。埋葬士が張ったこの冬の結界によって、大気に魔力が満ちている。
「これにより、ある一属性の魔法のみが威力を倍加される。――いくぞ!」
 埋葬士がナイフを構え、先導する。私は埋葬士の背中に続いて駆け出した。こんな遠距離では、私のような素人の腕では到底魔物に当てられないからだ。
 走りながら、私は術式を構築し始める。持ちうる限り最大のものを発動しなければならない。腕の中の血が熱く滾るような魔力活性化。始めの一角を構成した時点から、回路に篭められた力がとても強力なのを感じ取る。……魔法結界は、確実に効いている。私自身が恐ろしく感じるほどに強化されている。
 だが、目の前に魔物の舌が飛来する。顔を潰されて私は死んだ。
「迷うな、走れッ!」
 その寸前に、埋葬士のナイフが魔物の舌を叩き返す。ちっぽけなナイフは折れてしまうんじゃないかと思えた。
 冷たい追い風が吹き抜け、肌を撫でる。雪は、ぐんぐんと強くなる。それに合わせてぐんぐんと魔力は倍加されていく。今、この空間に満たされたすべての魔力が、私の拙い魔法に収束しようとしているのが分かる。竜巻の中心にいるようだった。
「――っ!」
 右手に集い始めた爆速の奔流は、私の腕を根っこからふっ飛ばしてしまうほどに熱を持っていた。腕が青白い光を放ち、それが規格外に強烈で圧縮されていて、私の腕の骨までもが透けて見えてしまった。
「や、ばい………!」
「いける! 突破するぞッ!」
 進行方向に魔物の火炎魔法が展開される。視界を赤に覆われる。もうダメだ。死を直感した瞬間、
「ナメる、なぁああ――ッ!」
 埋葬士が、結界を維持しながら防御魔法を展開するという荒技をやってのけた。濁流のように割られる炎。転びそうになりながら前に進んだ。もうすぐそこ。郵便屋さんの背中が、怖ろしい魔物が近づいてくる。私は止まりたいのに、もう、戦闘圏内に入ってしまっている。魔物の水のような体表が近い。失神しそうだった。右腕を振り上げる。いつの間にか術式は完成し、もう発動するしかないタイミングに差し掛かっていた。ゼロ距離なら外しようがない。埋葬士に言われるままに私は、右手を突き出していた。
 郵便屋さんの脇を抜け、目の前の液状生物の体表に、その奥の心臓に殴りつけるように手のひらを押し付ける。
 このちっぽけなアイス売りが、あの田舎村の牛小屋の裏で一生懸命覚えた魔法なんて決まっている。

 “氷魔法”だ。

「凍り、つけぇええええええええええええ――ッッ!!」
 倍加されきっていた魔力が、すべて放出される。強化されきった氷魔法は、一滴残らず、私の魂まで吸い尽くすほどに怖ろしい効率でもってこの現実に還元される。
 ずしん。
 私が押し付けた手のひらを中心に、大気まで凍りつくような質量を伴った冷気が具現化した。まるで重力。一瞬にして空まで凍ったのではないか。そう感じさせるほどの、重い重い冷気だったのだ。
 手のひらの液状の感触は、一瞬にしてシャーベットになっていた。魔物の動きが鈍る。砲弾のように一直線に突き抜けた氷魔法は、魔物の体内に一直線のシャーベットを形成していた。
 シャーベットは、鼓動の鈍った心臓も捉えている。これで、もう逃げられはしない。
「………………よくやってくれた」
 弓のように思い切り剣を引いた郵便屋さんが、矢のように真っ直ぐ剣を突き刺した。その切っ先は確実に魔物の心臓を捉え、射抜いていた。
「ひあっ!?」
 心臓を射抜かれた魔物が、藻掻く。私の首を刈ろうと舌を振り回し、しかし郵便屋さんと埋葬士がそれをしがみつくように叩き落とす。
「下がるぞ!」
 埋葬士に力ずくで腕を引かれ、暴れる魔物から距離をとる。でも、心臓を失って生き続けられる生物なんていないだろう。十秒ほどで魔物はぐったりと動かなくなり、そのまま液状の体が融解して絶命した。
「………………」
 本当に、ただの水溜りみたいになってしまった。そこまで見届けてから、いつの間にか冬の気配がまったく無くなっていたことに気づく。雪は既に止み、幻想の消滅した空も青さを取り戻している。
「……無念だな」
「馬鹿を言え。どうすることも出来ないだろう」
 二人の男が鎮痛そうな視線を向ける。首だけの店長は、とっくに息絶えていた。