錆びきった公衆電話の横を抜け、羽虫の死骸だらけの自販機が小銭を乞うのも無視して、掠れて見える曇り空の縁条市をたった一人で歩く。自分の感情も分からないままボンヤリと周囲を傍観しながら歩くが、言葉にするなら多分・自分は『苛立って』いた。
とにかく理不尽なことばかりだった。罪のない奴に限って割を食う。それが自分ならまだ我慢できたろう。でも、自分の目と鼻の先で、何も悪いことをしていない優しい人間が理不尽な目に遭わされるのには耐えられない。あんな辛く哀しいものばかり見せられるのなら、あいつらをあんなにも苦しめるっていうんなら、この世界そのものが地獄に思えてくる。
「………………」
死んだ魚の目で商店街を歩いていたら、地下の映画館へと続く階段が目に入った。その妙に急な階段を下りきり、映画館内に入って放映されている映画を確認すると、目的の映画は上映終了していた。あの日見たポスターに上映終了のステッカーが貼られている。もう二度と、この映画館であの怪獣映画は上映しないようだ。あの小さな劇場の安っぽい客席で、静かに映画に見入っていた上履きの少女の姿が過ぎる。銀幕の明かりに照らされた記憶が、がしゃんと照明を落としたように暗黒に染まる。放映終了なんて、どうしてそんな哀しいことをするのだろうかと、胸を刃物で抉られるような痛みを感じた。耐えられないから逃げるように映画館を後にした。
人混みに流される。胸の中の焦燥のようなものは、いっそう火がついたように切実なものになっていく。商店街は人が多いから、道を外れてもっと静かな場所を探すことにした。街の中枢から離れるように、人の気配がない方に。
そんな風に消極的な気分で街を歩いていると、不意に寂れた民家の前を通りがかった。足を止め、記憶を辿りながら貧相な一軒家を見ていた。あっさり割れてしまいそうな薄っぺらな塀は、塀というよりただの仕切りだ。区切られた四角形の中、まるで人の気配がしないのは何故なのか。
――それは、この家に住み着いていたオバサンの悪霊が消滅したからだろう。
「………………」
少し前、ここで俺の知り合いの小学生たちが危険な目に遭った。危うく取り殺されるところだったのだ。口やかましいオバサンの亡霊に目をつけられ、酷い圧迫を受けてつらい目に遭った。こんな道端にすら悲劇が転がっている。落とし穴だらけの世の中だと嫌になりながら、その家を通り過ぎた。
不快なことばかりだ。不快な気分の日には、眩しい日差しでさえも嫌がらせのように思えてくる。目を庇いながら空を呪うのだ。そして地を這う虫のように、ちっぽけである人間の俺はただ意味もなく前へ前へと進み続ける。塀に挟まれた路地でカラコロと下駄を鳴らす双子とすれ違う。どうでもよかった。すれ違いざまに砂を投げつけられたのが最高に不愉快で、無視していたら双子が無表情で言ってきた。
「つまらんやつ。あほの羽村」
「羽村のあほうはつまらんやつなのです」
それきり双子はまたはしゃぎながら駆けて行く。あんなふうに馬鹿になれれば少しは人生楽しいんだろうか?
うちひしがれた気分でふらふらと歩き続けていたら、いつの間にかジャンクフード屋の自動ドアの前に立っていた。その壁に、肉厚な期間限定バーガーのポスターが貼ってあったのは少し前までの話。不意に妖精みたいな希薄な幽霊の、絹の残照を幻視する。
もっと歩けば、見覚えのある学校の校舎が目に入る。フェンスの向こう側に広がる学生の王国。その3階の廊下で姿を消した、美しい緋の眼の少女ももういない。
気晴らしに田中さんという亡霊が住んでる廃ビルを訪れようとして、その田中さんを滅却したのは自分だったことを思い出す。気が付けば誰もいなかった。自分以外はみんな死んでしまった気がした。
街頭テレビは、ミステリーアニメの再放送をやっている。またしても今週の被害者が出て、トリックを暴くための推理劇が始まる。行く先々で死体に出会い、三桁もの人の暴力と悪意に出会いながらも正気を保っている名探偵は不思議だ。その平然と犯人の人生を狂わせ続ける非・公務員が、どれほどまでに攻撃的な人間なのかと考えると怖ろしくなった。世の中のすべてがどうでも良くなってきた頃、渦巻く紫色の夕空の下で俺は踏切に立っていた。呪いの気配。得体の知れない妄念を感じる。これから目の前を列車が通り過ぎるらしい。なら、この遮断機を超えて向こう側の線路に入れば死ねるということだ。自分が死ねるということは、他人の死を見続ける拷問から開放されるということだ。
疲労からか、羽村リョウジはほんの一瞬の気の迷いを起こす。別段、死ぬ意思などなかった。単にふらりと足が前に進んでしまっただけだ。何の覚悟もないままに、ただ数歩足が前に進んでしまったというだけで死んでしまう現実。何も見えてはいないし、心ここに在らずという状態だったから付け込まれるんだろう。――轟音が、迫る。
「この踏切で死んだ子がいるそうだよ。つい数週間前の話だ」
その時、背後から両肩を叩かれた。モノクロに染まっていた世界がようやく彩度を取り戻す。まるで教師が生徒にするようだと思った。ぱん、という音で酩酊状態は溶ける。気が付けば俺の背後には、女みたいに柔和な笑みの高校生が立っていた。
「…………え?」
銀髪に黒学ランなんていう奇抜で奇っ怪な色彩、この男を置いて他には決してないだろう。
「ところで羽村君、どうして自殺しようとしていたんだい?」
「は?」
寝起きに訃報でも聞かされた気分だった。意味が分からない。
「いや、君は死のうとしていたね。僕が言うんだから間違いない」
顎に手を当てふむふむと勝手に頷いている電波。何を受信すればそんな発想になるのか謎である。
「……よく分からんが。なんで俺が死ぬ」
「君は仮にも狩人なんだからね。例えば、踏み切りで死んだ誰かの妄念とかにね。引きずられて突発的に自殺しました、なんて笑い話にもならない」
なんて、真摯な目をして説教をくれた。そういえば先輩だったか。
「はっ、そこまで馬鹿じゃねぇよ。これでも狩人だからな」
「ああ、だからこそ驚いているよ。どうしたっていうんだ羽村君。いつも死体のような真っ黒な目をして、何事にも興味無さそうな顔をしているくせに、そこらの薄っぺらな妄念に取り入られるなんてどうかしている。何があった」
何があったかと言われれば、なんでもあっただろう。いろいろ死んだし、俺は生き残ってる。列車が通りすぎたので、濃い青と雲の白色のマーブルをした空の下を潜り、つまらない街を歩き始める。地方県縁条市。ただ錆びていること以外、個性や特色なんてものを明言できる人間はきっと少ない。
「何もない。いつも通り疲れ果てて、いつも通りぼうっとしてただけだ」
「そうかい、ではひとまずあの洋食店へ行こうか」
「あん?」
銀一が、勝手に行き先を決定する。いつもならダラダラと付き合うのかも知れないが、今日に限ってはザラついた気分がそれを拒んでいた。
「なんでだよ」
「お腹が空いたからさ。君はアレかい? 空腹中枢が故障して、徹夜でネットやってても『俺は健康。食わなくても動ける。今までが健康だったんだからこれからもずっと健康』と勘違いしてるタイプかな」
「いや、それは素敵な勘違い野郎だが……」
話題を逸らされかけていることに気が付いた。銀一は笑っている。
†
その後のつまらない食事風景は、特筆すべき程でもない。
億劫な気分で料理店に入ってパスタを喰らい、くだらない話をして、くだらない顔をして食後のコーヒーを飲んだ。パスタはいい出来だったし、無料でコーヒーが付くのも悪くなかった。何より、長らく内側に溜め込んでいた最近の事件の出来事を話すことで、水風船の水が抜けるように少しだけ軽くなったらしい。
そのうちに俺もいつもの調子を取り戻し、平常運転で軽口を言い合える程度には気分を取り戻した。銀一は笑っていた。話しながら俺は、またしても人間の壊れやすさというものを実感していた。
たかだか感情を貯めこむだけのことで、俺という水風船は破裂しそうになっていたのだ。別段、刺されたわけでも骨折したわけでもないのに、思い返せば確かに俺はあの踏切で死にかけていたのかもしれない。
ここ最近の事件の内容を聞かれ、俺は思い出すのも億劫な事件の数々を銀一に聞かせた。銀一は興味深そうに聞き入っていたが、本当は聞くことではなく俺に“話させる”ことが目的だったのかもしれない。
ただ、“話す”。たったこれだけのことで人間は感情を発散し、心の敷居が取り払われたように正気を取り戻すのだ。そんな当たり前のことさえ忘却して、俺は一体何に埋没していたのだろう。
「アユミちゃんを気遣うのも、先生に強がるのもいいけど、たまには健全に愚痴くらい吐きなよ、羽村君。特にアユミちゃんは心配していると思うよ」
言われて、深く反省する。俺だってアユミが何も本心を話してくれなくなったら心配するし、一人で頑張られてしまったら淋しい。どんな過酷な日々に放り込まれようとも、誰かと対話することを忘れてしまってはいけなかったのだ。
「今日は奢るよ。では、明日からの業務もがんばってくれ」
ほんの一瞬の休憩時間。今日一日という意味のない空白はしかし、休息という強い意義を隠し持っていたことを胸に刻んでおこう。美味い飯を食い、つまらない話をして、これにて俺たちの雑談は終わる。憎らしかった青空も晴れやかに感じた。料理屋を出て解散しようとしたその瞬間に、銀一は不意に思い出したように言ってきた。
「――ところで、美空を見なかったかい?」
next =>final.