斬-the no-side in our life-

#終章・観測者-noside-

 そうして、“私”はすべての物語の観測を終えた。



 ...................................the no-side in our life




 目の前で世界が終わる時も、私はきっとこんな気分になるのだろう。
 ファインダーには、世にも怖ろしい怪物が映っていた。巨大な影。夜闇を這うトカゲのような質感だけれど、その圧倒的な膂力や巨体はまったく次元が違う。鉄の塔が獣の本能を持って生きて動いているような悪夢だった。
 がたがたと手が震える。これだけ離れていても、こんなにも死を予見させられる。早く立ち上がって逃げるべきだ。遠いビルの隙間で暴虐の限りを尽くす化身と、それを翻弄するように飛び回る烏のような三人組。こんなの、この世の光景じゃない。信じられない。あの怪物は異常だし、その異常を狩り殺そうとしている人間たちも尋常ではなかった。
 私は、夜の街で、決して知ってはならない現代の秘密を目撃してしまった。壊れていく自分の常識に恐怖しながら、何度も何度もシャッターを切る。取り憑かれたように、私は怪物と狩猟者の死闘をぱしゃぱしゃと撮影し続けた。……あまりに夢中になってしまって、背後の気配にさえ気付かななかったのだけれど。
「――――やぁ、こんなところで何しているんだい」
「っ!?」
 背後から声を掛けられて、危うくカメラを屋上から落としてしまうところだった。柔和な声。知らない学生服姿の少年。女性みたいに柔らか雰囲気をまとった、けれど夜の廃ビルの屋上で出会うはずがない何者かだった。それは奇抜な、銀髪と黒学ランの少年だった。
「おや、カメラかい? なるほど。ここからあの怪物を撮影していたわけだ」
 学生は、勝手に私の隣に並び、暴れる怪物を見下ろして納得したとばかりに頷いている。
「いいカメラだね。特にその宝石がすごい。どこかの骨董品? デジカメじゃないよね、それ」
 私の手の中のカメラを見て、興味深そうに言ってくる。知らない。どうしてこんなに馴れ馴れしいんだろう。誰なんだろうこの人。
「……何なんですかあなた。私に何か用?」
「…………ん?」
 少し、沈黙の間があった。よく分からない。思い出したように言ってくる。
「ああそれはそうと、撮影はよした方がいいね。ほら――――」
 声を潜め、脅すように言ってくる銀髪の少年。
「――――――あんなの、世に広まっちゃったら大変だろう?」
 言外に、脅迫されている気がした。なるほど。やっぱり、あの怪物や狩猟者たちの存在は、公になってはいけないらしい。
「――どいて」
「え――わっ!?」
 学生を押しのけ、私は屋上の出口へと駆けた。屋上の地面は硬いと思った。どうして私はこんな、踵の高いパンプスなんて履いているんだろう。
「ちょっと! どこへ行く気だ!?」
「…………」
 答えるわけがない。あんな危なそうな人に関わりあうわけにはいかない。
 それにしても、雑多な建物の群れに、毒々しい街の灯。大気は濁っていて、空さえ霞んで星が死にかけている。なんて醜悪さだろう。私は皮肉を塗りつけて、銀髪の学生に問いかける。
「――ねぇ、あなた。この街が好きですか?」
「……何……?」
 私は冷めた目で学生を見て、それきりビルの中に逃げ込み、階段を駆け下りた。暗闇の中で、カメラに付属した五つの宝石のうち一つが輝き始めたのを確認しながら。
「…………残り、四つ……」
 ビルを出た瞬間、長く哀しい、怪物の断末魔の声が聴こえた。いつまでも耳に残り続けるような、痛ましい悲鳴のような声に私は目を細めた。




 カメラを首から提げ、道端のベンチで手すりに体重を預けてぼんやりとしていた。斜めに見える目の前の雑踏。行き交う人々は河のようで、騒がしくて、自分自身はそこからはみ出したよく分からない存在だった。 
 ――――石で出来た街。
「……………………」
 ぼんやりと、高い高い高層ビルを見上げた。あの建物では、たくさんの人間が空調の整った部屋で労働しているらしい。知識と想像でしか知らない世界。垣根の取り払われたこの国を運営していく。脱藩なんて言葉は遥か昔――誰も、誰も何も知らない。
 高い鉄塔を超えるように、数羽の烏が青空を翔けていくのだけは変わらない。彼らだけが逞しい。血だらけの戦場でも、石で出来た街でも、何もない森でも山でも強く生きていける。それに引き換え――恵まれすぎた環境に、飼い殺しにされたこの街の人々ときたら。
「………………呪、い……」
 それは、何だろう。私の知る限りあの時代にはほとんど見掛けなかったもの。出会うことのない迷信めいたもの。それが何の間違いか、こんなにまであちこちに影を落としている。
 学生が、スーツを着た男性が、老人が、暗い顔をして明るい街を行く。場違いに爽やかな作りの街路だが、そのあちこちに影が差す。
 ――街は、病んでいた。泣きそうになるのを堪えて、ビルの壁面に張り付いたモニターを眺めていた。
 人が、意味もなく人を殺しているらしい。特に外国の戦争などは酷い。おぞましい威力でもって家ごと吹き飛ばす大砲。街ごと焼き尽くす爆弾。あんな世界の終わり、夢想だにしなかった。
「…………ひどい……」
 そんな地獄はどこ吹く風と、街が焼かれる光景を見ないふりして経済的な豊かさを貪る人々。学校では、イジメという名目で人を殺しながら、帰り道には甘いものを食べるのだ。この時代の人々には、情や倫理観というものが存在しない。すべてがすべて毒々しくて、私には目眩がする。
 空だけは、まだ青かった。青は好きだ。だから洋服も空色のものを買って着ている。空の青。いずれ大気が汚され失われてしまう色だとしても、いましばらくだけ私に安堵を与えてくれる。その時、不意に。
「---………」
 ようやく、目の前を目的の少女が通りかかった。二つに結び分けた金の髪。桃色のパーカー。どこか野良猫を連想させる瞳。スローモーションの世界のなかで、その少女の無表情の横顔だけを注視していた。
「………」
 少女が通りすぎ、私も立ち上がって歩き出す。カメラに手をかけ、私は 少女を尾行し始めた。

+

 夜の歩道橋から空を見上げて、私は昼の光景を思い返していた。あの金髪の少女と、中年女性の悪霊との一連の光景。途中で黒セーラー服のひとが乱入して、悪霊を無慈悲に斬殺したところまで──
 薄っぺらな塀に身を隠して、私は一部始終を目撃し撮影していた。最後の最後の一瞬に、黒セーラー服のひとがこちらを鋭い視線で射たあの瞬間まで……。
「…………あの人………」
 歩道橋の錆びた手すりにもたれ、一瞬きりの視線の交差を回想する。とてもきれいな、けれどおそろしい不吉なひと。夜の闇が形になったような人。
「私に、気づいてた……?」
 私はあの瞬間、恐怖を感じてすぐに逃げ出してしまったけれど。もし私の存在に気付いているとしたら、とても危険だ。気を付けないといけない。どうしても、私は無事にこの"観測"を終えなければならないのだから。
 手元のカメラに視線を下ろす。五つの宝石のうち、二つ目が輝いていた。残り三つの宝石が沈黙している。私の使命も、もうすぐ折り返し地点に差し掛かる。
「……なるほど。どうにも、それは普通のカメラではないみたいだね」
 いきなり声を掛けられて、驚いて身を翻した。カメラをかばいながら、その人を強く睨み付ける。
「……また、あなたですか」
 そこには、灰色のパーカーを着込んだ銀髪の少年がいた。ピアスなんかつけて、だぼだぼの服装で今風だった。スーパーの袋をぶら下げているのがななんだか気が抜けているように思える。
「そんな警戒してくれなくても、こっちは休日満喫中なんだ。アイス食べるかい」
「……氷菓子なんて、好きません。どうせ科学薬品まみれなんでしょう」
 差し出された円形のカップ。まったく汚らわしい。
「……氷菓子か。なんだか古風な物言いだ」
「どうだっていいでしょう。何なんですかあなた、一体どこの誰です。私に何の用があって」
 なるほどね──と彼はなにか勝手に納得している。いちいちい癪だった。退屈そうに立て肘ついて、質問してくる。
「君こそ、一体何者なんだい。そろそろ名前くらいは教えて欲しいね」
「名前を聞くときは、」
「雨宮銀一」
 してやられた。バカみたいな誘導尋問だった。
「まぁ、いいよ。無理に人の名前を聞き出そうとは思わない。こっちは休日なわけだしね。じゃ」
 軽く手を振って、身軽そうに去っていく。なんだか負けた気がした。だけど、名乗っても負けな気がした。とてもずるい人だと思った。
「……まぁ、いいでしょう。今日の目的は果たせましたし」
 カメラの宝石は残り三つ。今日はもう、住処へ帰るだけ。

+

 夜の街はしんと寝静まっていて、ひんやりとした冷気に覆われていた。
 ぴたりと風が止んでいることに気付いた。けれどそんな街の殺風景に関係なく、何故だか私の気分は悪くなかった。
「………」
 何故だろう、夜はこんなにも醜悪なのに。街灯の影から誰かの妄念が囁き、たちまちに誰かを害する悪人のカタチに成ろうとしているというのに。こんなにも汚らわしい街の大気が、心地いいなんておかしい。でも……
「……」
 ひたむきな少女の姿を思い出す。こんな腐った石造りの街にも、優しい子供がいたのだ。それだけは嬉しい。どんな時代だって子供に罪はない。でも、その少女の姿は、半透明ではなかった――?
「う……」
 ざああ、と凍てつく風が吹き抜けた。街を一瞬にして凍りつかせてしまった気がした。
「……え……?」
 あり得ない。なんでもない、影ばかりの寂れた街の四つ角。そんな風景が一瞬にして、アルコール消毒されたみたいに無菌室になっていた。私はたぶん、いまこの瞬間、世界のすべてから隔離されている。
「……そう……」
 私を異空間に引きずり込んだ死神は、既にそこに立っていた。当然だ。彼が現れたのではなく、私の方が引きずり込まれたのだから。
「邪魔者、ですか」
 死そのもののような不吉。背が高く、陰気を通り越して闇を纏った何者か。それが、何の間違いか学生服を着ている。こんなのが、学舎なんかで何を学ぶというのか。
「そのようですね。いや、お互い不運だ。初めましてお嬢さん、僕は神代キョウイチロウといいます。あなたを殺す者です」
「殺す?」
 はい、と壮絶に嫌な笑みを浮かべる死神。危険を感じて体をそらした。──途端、私の背後にあった民家の庭の木が、一瞬にしてフリーズドライにされていた。
「…………」
 いま、何が起きた? 苦々しいものを感じながら、恐る恐るその木を観察する。真っ白に染まった氷の木。ひんやりとした冷気。まるでそこだけ北極になったようだった。反応が一瞬遅れたら私が氷像にされていたんだろう。震える喉を引き絞って声を出す。
「…………何故、私を殺すんですか」
 死神の手のひらの上で、冷気が踊っている。死だ。私の死を、弄んでいる。
「理由? 特には。憎悪でも嫌悪でも喜悦でもない。今回に限っては、単にそうしろと命令されたから殺すのみです」
「命令された……? 私のような一般人を殺す理由がどこに」
「一般人を名乗りたいのなら、そのカメラは捨てた方がいい。」
 カメラを庇う。すべて見抜かれているらしい。それは決して有り得ないこと。私が“観測者”だと知っている? だから私を殺そうとしている? 私がここへ来ること、ここにいることを看破されていた? そもそも私の存在を知るなんて、一体何者? 考えれば考える程混乱は加速するばかり。けど、それよりも何よりも何にも増して。
「…………これから人殺しをしようという割には、ずいぶんと楽しそうですね。名前も知らない異常者さん」
 私は震える手を見抜かれないよう自分の長い髪を撫で、皮肉な笑みを投げつけた。悲喜こもごも、この時代に対する憎悪やなんかもすべて込めて。しかし死神はすっとぼける。
「はて、名前は名乗ったはずですが――しかし異常者なんて心外だ。だってそれは違う。狂っているのは、ボクではなく、ボクを肯定しないこの世界の方なんですから」
 などと異常者は供述しており。正常な私はするするすると、優雅な所作で写真機《カメラ》のストラップを短くする。壊してしまわないように。買ったばかりの踵の低い靴のつま先をたんたんと鳴らせば、準備万端。
「――――話になりませんね。名前は、単に記録《おぼ》えたくなかったんですよ」
 あとは、兎のように逃げるだけ。さよならだ。こんな訳の分からない通り魔に殺されている場合ではない。
「っ!」
 私が駆けた途端、私の傍を舞っていた蛾が即死する。真っ白に凍りついて、地面にひらひらと墜落していったのだ。理解できないから分析が必要だ。凍って死んだ蛾の死骸に向けてシャッターを切った。まるで訳がわからないけれど。
「……あなた、怪物なんですね」
「ああ、それはいい。異常者は蔑称ですが、ホラー映画の怪物役なんてのはそんなに悪くない立ち位置だ。それでは追いかける怪物らしく、あなたを殺すとしましょうか」
 影のような死神が追ってくる。嫌だ。せめて五つ数えてからにして欲しい。
「うあっ!?」
 すぐそばの電気屋のシャッターが凍りつく。ひやりと体に触れた大気は冷凍庫みたいだった。あまりの冷気に湯気が立ち上っている。腐ってしまったように鉄のシャッターがシミになっている。死神は、優雅な足取りで追ってくる。
「逃がしはしません。あなたは誰に知られることもなく、気付かれることもなく変死体として発見される筋書きだ」
「冗、談――っ!」
 私は駆ける。死神は優雅に追ってくる。私は、この孤島みたいな夜の街の真ん中で生きる道を探さないといけないらしい。必死で頭を巡らせながら、背後に迫る冷気からがむしゃらに逃げながら、とにかくただただ走るしかなかった。
「う……!」
 こんなとき、やはりこの街は嫌いだと思い直す。どこまで行っても同じ風景。どんなに駆けても、自分がどこにいるのかさえ検討もつかない。走れば走るほどに、迷宮にいるような気がしてくるだけ。
「同じ景色、ばっかり……!」
 こんなだから、あっさりと袋小路に阻まれてしまうのだろう。
「!」
 左右は壁。正面はフェンス。その向こうには川があって、不法投棄禁止の看板があった。ご親切に罰金額まで書かれている。人間の、つまり私の死体は不法投棄に含まれるんだろうかとバカなことを考えた。
「あ……」
 顔の真横を、矢のような冷気が駆け抜けていった。罰金額の部分が白く凍って塗りつぶされる。
「……短い鬼ごっこだ。まぁこんなものですか」
 夜闇の奥から、死がやってくる。逃げ場がない。抵抗しようにも方法がない。何の武器もない。一瞬で凍りづけにされることは明白だ。
「ぁ……づ」
 足が動かない。動こうにも逃げ場がない。頭を巡らせても、刃物のひとつも持ってない。よろよろとフェンスに体当りして、いっそう自分が混乱していることを自覚する。既に息すらまともに吸えていなかった。
 嘘だ、嫌だ。狩られる兎はこんな恐怖を感じているのだ。身も竦む極大の恐怖。どう足掻いても生き残ることが出来ない残酷な絶望。街灯の下に死神の顔が現れ、残酷に笑った。その時。
「はぁ――手出しはしないつもりだったのに」
「え……」
 頭上から、有り得ない幻聴が聞こえた。私の頭上、建物の上にいるのは、月を背にした何者かだった。それは私の前に着地して、王子様のように手のひらを差し出して――
「アイスが溶けた。罰金二百円」
 目が点になる。生活感漂う、だぼだぼパーカーの銀髪少年だった。
「……また、あなたですか」
「ああ、僕さ」
「どうしてここに」
「尾行《つ》けていた。いろいろ思うところあってね」
 知ってる。そういうの、この時代では確か「ストーカー」と呼ぶんだ。
「僕の名前は言えるかい」
 どくどくと恐怖や混乱で心臓が鳴っている。けれど強がりな私は、何でもないように胸に手を当てて誇ってみせる。
「雨宮・ストーカー・銀一さん。これでも記憶力には自信があるので」
「上出来だ。しかし、何やらとんでもないのに追われているね」
 銀髪氏――雨宮さんは、その真っ直ぐな目を死神に向けて言った。
「こんばんは。僕は当然この街の所属だけど、そっちはどこの誰だい」
「所属は明かせませんね。ただの通り魔ということにしておいた方がお互いのためだ。ボクの素性を聞いてしまえば、アナタとこの街の方が破滅しますよ」
 くつくつと嗤う死神。雨宮さんは声のトーンを潜めて、苦そうに呟いた。
「やっぱり……どこぞの大御所か。しかも管轄外で暗躍してるとは、相当にたちが悪い」
 どうにも、込み入った事情があるらしい。雨宮さんの目が私を射た。
「そろそろハッキリさせたい。キミは誰だ。どうしてあんなのに追われてる」
「それは……」
 言えない。簡単に言う訳にはいかないんだ。
「はぁ――強情な子だな。まぁ、いいよ」
「え……?」
 雨宮さんが、ナイフを抜いた。それきり当然のように死神に向かっていく。
「な、何を――!?」
「川は浅い。フェンスを超えて走るんだ」
 どうして。なんで。助けられる覚えなんてないのに。死神は歓喜している。きっと私みたいな無力な人間を殺すより、雨宮さんを相手にする方が楽しそうだと思ったのだろう。それを知ってなお立ち向かおうとする雨宮さんの背中は、決死兵のようだった。
「ああ、そうだ」
 逃げる? 逃げないといけない? 私は惑う。死神と殺し合う数秒前、思い出したとばかりに振り返って、雨宮さんは女の子みたいな笑顔で私に言った。
「そんな服も似合うね」
 意味、不明。
 雨宮さんと死神が争う中、私はフェンスを超え、びしょ濡れになりながら川を渡って逃げ出した。



「――――それで? キミは一体、何者なんだ」
 夜、人通りの多い駅前で、柱を挟んで雨宮さんと背中合わせになっていた。私はとにかく黙秘した。否、黙りこむしかなかった。とても申し訳なくて喋れない。
「………………」
 雨宮さんの頬には絆創膏が貼られていた。昨日までの飄々とした態度とはうって変わって、色濃い疲れが見えた。
「……ケガ、しませんでしたか?」
「奇跡的にね。あの通り魔が、何のつもりか一度目は警告だけにしておくといってきたんだ。どうにも背後関係があるらしい。そのわりには──地獄のような泥仕合をさせられたけどね」
 皮肉な、暗い声。ケガはしていない。けれど、よほどの目に遭ったのだろう。私なら、あんな恐ろしい相手と平静で向き合っているなんて不可能だ。
「それで? あんなのに狙われる、キミは一体誰なんだ。到底痴話喧嘩には見えなかったけどね」
 私は、誰だろう。それは知られてはならない。言っても理解できるはずがない。負い目があるとはいえ、私は拒絶の勇気を絞り出す。
「言えま――」
「あいたたた、昨日痛めた脚が」
「……」
 非道。なんて極悪。ぐぅの音も出なくなってしまった。瞬間的に泣きそうにさえなってしまった。
「……教えてほしいな。個人的に。昨日みたいに、何か協力できることがあるかも知れないし」
 そこで優しい声を出すのも反則だ。やっぱり、この人はずるい人だ。
「どうして……私を助けたんですか」
「そりゃあ、困ってる人を見たら助けるでしょう。いまも同じだ。困った顔してるキミをまぁ、それなりに手伝えたらなぁなんて思ってる」
「どうして……?」
 助けられる覚えなんて無い。赤の他人である私を助ける理由を、雨宮さんはどこか自虐的に述べた。
「…………僕が、偽善者だからだよ」
 正義でも悪でもない。その沈んだ声にはどこか、自分への憎悪のようなものが篭っているように思えた。
 答えの内容はどうでもよかった。恐らく。ただ、彼には彼なりの理由があるんんだということが分かればそれでよかったのだろう。何かを確認できたつもりになって、私はしずしずと、怯えた小動物のように彼の前に立つ。髪を整え、手を前で組み、ピシャリと叱られないかただただ彼の様子を窺いながら。
「みずいろ――といいます。巻村、水色。それが私の名前のようなものです」
 へぇ、と彼は何故だか感心していた。怒るでも叱るでもなく、女の子のように微笑んだのだ。
「綺麗な名前だ。やっぱり、名前のとおりに水色が好きなのかい?」
「好きな……いろ?」
 それは、私が着ている服のことを言っているのだろうか。私は思い馳せる。こんな濁った駅前、街の真ん中で、遠い遠い懐かしい時代を想うのだ。
「―――そうですね。確かに、水色が好きかも知れません。特に朝の水色がかった景色が好きです」
「水色がかった景色……?」
「分かりませんか。まだ誰も起きていないような時間、村外れの森へ行けば――大気が冷たくて、青みがかっているように感じるんです。それが、私の一番好きな水色でした」
「………………」
 そして、この穢れた時代には失われてしまったもの。きっと彼には分からない。案の定、彼は私の言葉を肯定するでもなく否定するでもなく、先を促した。
「なるほど。それで? 巻村さんは、一体何者なんだ。どうしてあんな危険なのに追われてる」
 一番好きなものを理解されなかったことに、一方的な落胆を感じる。彼にそんな謂れはないけれど。やはり現代人には理解できない感覚なのだろう。不理解の断絶に目を伏せて、私は自分の役割を白状するのだった。
「何者、と問われれば……そうですね。私と普通の人の違いを挙げるなら、私には重大な使命が課せられている点だと思います」
 カメラを見下ろす。五つの宝玉と、蝶の模様が刻まれた美しい写真機。私はこの写真機なのだ。
「私に課せられた使命は――――この時代を、“記録”すること」
「この、時代……?」
 現代の出来事をフィルムに収め、克明に記録する。雨宮さんの疑念も最もだ。すべてすべては、私自身にも分からない。



 大きな月が女王蟻だとしたら、その周囲を漂うだけだった私は、働き蟻ということになるだろう。
 実を言えば、水色という名の私自身、あまり事の全容が分かっているわけではない。働き蟻にはそんな情報は必要ないからだ。女王の正体を漏らしてしまわないためにも、働き蟻には必要最低限の情報だけを知らせておけば良い。だから私が持っている情報はただ二つ――理由と、目的だ。
「………知りたがっている人がいるんです。現代の、この街の状況を」
 昔とは打って変わってしまった風景。あるいは、その街に生きる人々。この時代を構成しているたくさんの心情やなんかを。私の言葉を聞いて、雨宮さんが、いっそう難しい顔をした。
「それは、誰なんだ」
「名前を告げても意味は無いかも知れませんが――名は、“冥鬼の扉”といいます」
「冥鬼の……扉?」
 不思議に思うのも無理はない。どう考えたって、人物の名前には聞こえないだろう。
「正式には、その名を受け継いだ人間のことです。歴史ある流派は、先代から名前を引き継ぐ慣習があるでしょう? それと同じです。ある“門”をご先祖様から引き継いだ彼女は、“冥鬼の扉”を名乗ることが義務付けられているんです」
「その人は、一体……」
 街をゆく人々を見ながら、持っているわずかな情報を整理する。
「遠い遠い時代に生きていた、昔の人、と言うしかありません。ざっくり言うと、約五百年程度前に生存していた人物になります」
 五百年。半世紀も前に生きていた、名も無き過去の人物。その少女は憂いでいた。現代の街の様相を。
「ですが、別に歴史に名を残した偉人でも著名人でもありませんので、誰も知りません。詳しい情報は私にも持たされていませんし」
 話したこともない。けれど、とても重要な人物として私の骨子に記録されている。彼女を願いを叶えなくてはいけない。情報を収集し、持ち帰らないといけない。そんな方向性が、私の魂の奥底に否応関係なく刻まれているのだ。
「その人は今どこにいるんだい」
「難しい質問です。例えるなら、穴蔵に篭っているというか、出てこれないとでも言いましょうか。そこからでは現代の様子を見ようにも目が届かないから、だから代わりの目として私が派遣された、という感じです」
 だから、私の手にはカメラがあるのだ。現代の街を記録し、“冥鬼の扉”のもとへ持ち帰るために。
「…………なんとなく、抽象的で理解しにくい話だ。そもそもそんな遠い時代の人が、いまも存命してるっていうのか」
 雨宮さんの問いにああ、と頷いて、私は当然の回答を口にする。残酷でかなしい現実を。
「当然、死んでいますよ。約五百年ほど前に。」
「亡霊か」
「はい」
 つまり私・巻村水色の正体は、死者に派遣された撮影者《カメラマン》ということになる。雨宮さんは、深く考え込み、理解に苦しんでいるようだった。無理もないが、私に話せるのはここまでだ。
「とにかくそういうわけですので、私はこれからも現代の撮影を続けないといけません。でないと帰れませんから。分かったら、私の邪魔はしないでください」
 では、と頭を下げて、私は彼の前から去ることにした。これ以上追求され、核心に触れてしまう前に。
「もうひとつだけ教えてくれないか。昨日襲ってきた奴は何なんだ。危険すぎる」
「私にもわかりません。あんな怖ろしい知り合いいるわけないでしょう。突然襲ってきたんです。本当、どうして私の記録を妨害しようとするのか……」
 理由は分からないでもないけれど、そもそも私の存在を知っていることが異常なのだ。
「…………」
 雑踏の中、振り返ると雨宮さんはにこやかに手を振っていた。本当にいい笑顔でため息が出た。どうせ尾行してくるんだろう、ストーカーめ。




 私は誰だろう。
「…………………………」
 夜の雑踏の真ん中で、不意に立ち止まって夜空を見上げる。月は、すべてを平等に照らしていた。街の光は明るく、今日も意味のない電力の消費に余念がない。地上で無数の星を灯し続けるということが、どれほど不自然でエネルギーを要する浪費か分かっていない。こんな無駄遣いをしていれば、いずれ地上が枯れ果ててしまうのは明白だ。
 けれど、街は生きている。貪欲に。すべてを飲み込み、おぞましくさえあるほどに。あちこちに豊かさをばら撒いた現代の景観。そこに生きる他人たちを観測している私自身。巻村水色と名乗っている、私は一体……
「う……」
 頭が痛んだ。かすかに、思い出すことが出来る。それは遠い遠い時代の田舎の村。畑仕事しかない毎日。ただ、一度だけ、家族で写真を撮ってもらったことがある。奇跡のように、家族の姿を写し取った物言わぬ箱。魔法か何かだと思った。その不思議な機械を見上げて、私はいつまでも呆けていた――。
「…………」
 手の中の、カメラを見下ろしていた。蝶の模様が刻まれた、五つの宝玉が取り付けられた記録機械。五つのうち三つが輝き、残りは二つ。優しげな、まるで生きてるような不思議な輝きが灯っている。
「私は……」
 私は現世を記録する写真機だ。それ以外に何もない。どんな記憶も感傷も、私を知る人間がただの一人もいない世界では意味を持たない。過去も未来もなく、現在だって他人ごとしか無い私はつくづく幽霊だ。それはどうしようもないから仕方がない。ただ、不満なのは――。
「……ふん」
 ぱしゃりとシャッターを切る。泣き叫ぶ子供と、その後頭部を小突き回しながらヒステリーな声を発する女性を。
 ただ不満なのは、撮影対象。こんな綺麗な写真機を携えて、あんな汚らわしい街を撮影するだけなんて、一体何の嫌がらせなのだろう。



 目的を失い、ふらふらと幽霊のように家路を歩いていた。今日の目的は達成している。あとは、安全に家にたどり着くだけ。
「………………」
 道路を自動車が幾度も行き交う。周囲はたくさんの人が歩いている。ひと気の多い道を選んで歩いていた。昨日の訳の分からない襲撃者に襲われることを防ぐためだ。
「う……」
 思い出しただけでぞっとする。あの不吉な笑み。突然物体を凍らせる力。刃物や素手ならまだしも、あんなの反則だ。そして、それにまっすぐ向き合う雨宮さんの背中――。
「………………私……」
 ひとでなしだ。勝手な自己嫌悪。びゅんびゅん車が行き交う、歩道橋の上。街の灯がたくさん灯されている場所なのに。
「…………正気、ですか」
「はい。至って正常です」
 車道の真上、歩道橋の真ん中で、私の道を塞ぐようにまたしてもそいつが立っていた。人の形をした暗黒。氷の死神。不吉な笑みがまた私を嗤っている。確か、名前は神代キョウイチロウとか言っていた。
「…………っ」
 あり得ない。真下を車が行き交っているっていうのに。その死神は、平穏な夜の街の明かりを背景に、私の前に立ち塞がっていた。その手でまた、冷気が踊っている。
「………殺すんですか。こんな目につく場所で」
 たくさんの自動車が行き交う。歩道橋の上で私が殺されれば、きっと多くの目撃者が残るはずだ。なのに、死神は一歩踏み込んできて、暗く笑うのだ。その手がサソリのように蠢いている。
「ええ、殺します。ただ心臓を止めればいいだけだ。それだけで脳に血液が届かなくなって、人間は死に至ります」
「……なぜ」
「何故殺すのか、ですか? そんなの、問われるまでもないことでしょうに」
 分からない。分からないのだ。目の前の相手は一体何者で、どうして私の存在を知っているのか。死神は銃口のように冷気を突きつけ、言ってくる。
「――あなたが悪い。“扉”だか何だか知りませんが、過去の墓石の分際で現代を記録しようなどと。石は石らしく、地中で眠っているといい」
 恐怖に後ずさりながらも、その物言いにはかちんと来た。何者でもない私にだって、思うところがある。
「……記録することの、何が悪いって言うんですか」
 死神が、疑問符を浮かべる。何故だか雨宮さんの柔和な笑みがよぎる。きっと、この瞬間に、記録者《わたし》は扉《ほんたい》と齟齬を起こしたのだろう。
「記録の何が悪いんですか。何かを残そうとすることが罪ですか。知ろうとすることの何がいけないって言うんですか」
 震える声で、まくし立てる。震える膝で、よろよろと後ずさりながら批判した。けれど死神は何様のつもりか、ふむふむと私の言葉を吟味して、勝手で横暴な結論を下すのだ。
「――――これから死ぬ被害者に、何の権利もありはしませんよ」
 死神の手が伸びてくる。死を実感する。手の中のカメラを抱きしめ、いよいよもって、“私”は口にしてはならない呪いを口にしていた。
「――――“うさぎ連弾”ッ!」
 ……その時。主人の危難を救うように、私の背後から獣のように現れたのはウサギのぬいぐるみだった。目を見開いた死神に、ウサギのぬいぐるみが生きているように突撃して、そして――爆発した。
「っ!?」
 歩道橋を、爆風が蹂躙する。一瞬にして道路の交通が乱れた。真白い爆煙の向こうに死神の姿は見えず、ただただ私は咳き込むばかりだった。
「……私、いま……何を」
「こっちだ!」
 歩道橋の橋に、雨宮さんが顔を出して叫んでくる。考えることを放棄して、雨宮さんの方に駆けた。
「あの……」
「走るよ。歩幅を合わせるつもりはないから、全力で走ってくれ」
「わっ!?」
 私の手を強く引いて、夜の街を駆け出す雨宮さん。すごい疾走。私は転ばないように必死だった。
「まったく、なんて手間が掛かるんだ。もしかしてわざとやってる?」
「…………」
 他意はないけれど――なんとなく、手を引いて駆ける雨宮さんはまるで恋人のようだと思った。



 人混みを駆ける最中、何度も人とぶつかりそうになった。誰も彼も前を向いて歩いていない。自動車が真横を、路肩を二輪車が、すぐ横を自転車が通る街なかだっていうのに、この人達は自分がレールを進む列車にでもなった気分なのだろうか。
「ああもうさっきから! なんで誰も彼も俯いて電話機触ってるんですか! 歩きながら食い入るように画面見てるんですか! なんなんですか、病気ですか!」
「ああ、否定はできないね。まったく出来ない」
 現代人はアホだ。ぜったいバカだ。電話機をカメラや文庫本に置き換えてみればいい。過去の写真を探しながら、あるいは小説読みふけりながら道を歩くなんて有り得ないことだ。
「……そういうキミも、さっきからパシャパシャと余念がないけど」
「仕事です。黙っていてください」
 どんな時でも責務を果たす。私は本当に賢い。現代人は誰も彼も電話機に夢中。
「――ぴったりついてきますね」
 そして後方約三十メートル、異常者は殺人に夢中だった。獲物としてはたまったものじゃない。どんなに駆けても影のようについてくるのだ。
「……弱ったな。僕としても、アレと二度目は避けたいんだ。さすがに死んでしまう」
 苦そうな顔をする雨宮さん。相当嫌な目にあったのだろう。
「苦手なタイプなんですか」
「苦手なんてもんじゃない。あれは災厄だ。できれば自衛隊を呼びたいくらいだね」
「……そこまで……」
「ああ。まったく冗談ではないよ。狩人だとしても、集団で掛からないといけない相手だ。向こうが遊び半分だから生かされているだけで、ほら――あんなの、即死は免れないだろう?」
 言われて、あの死神から飛んでくる即死の冷気を思い出す。氷? 液体窒素? いや、あれはそんな生易しいものじゃない。そう、言われて考えてみればどこかおかしい。道端の木を、一瞬にしてフリーズドライにしてしまうだなんて――。
「………呪い、ですか」
「だったらよかったのにね。残念だけど、アイツのは呪いなんて生易しいものじゃないよ」
 その意味は私には知れない。ただ、底知れなさに震える。背後にぴったりと冷気が張り付いている。このまま雨宮さんの横顔を見ながら、私は走りながら凍りづけになって死ぬのだろうか。広大な夜の海の真ん中に一人で捨て置かれたような気がした。
「……私、殺されるんでしょうか」
「大丈夫だ。少なくとも今夜は逃げ切れる」
「逃げ切れる……?」
 ああ、と頷いて、雨宮さんもまた現代人と化す。その手に電話機。う、と私はえづいた。
「やめてください。走りながら遊ぶものじゃないでしょう」
「まぁ見ているといい。たくさんの冒険譚を終わらせたという、現代の発明品の偉大さを教えてあげよう」
 そう言って、どこかへ通話をつなぐ雨宮さん。
「やあ羽村君、打ち合わせ通り頼むよ。――何、事情は聞かないでくれ。ただ所定の位置で待っててくれればいい。鍵は差しっぱなしで、エンジンは掛けておいて。じゃあよろしく」
 それきり、通話を終了する雨宮さん。
「いまので、伝わるんですか」
「ああ。手慣れた連絡なんてのは、こんなものさ」
 そうなのか。私には、あんなよく分からない機械を操る現代人の心情は理解できない。
「さて――それにしても、あの死神は余裕そうだ。一体どこの誰なんだか」
 それは、獲物に合わせているんだろう。私というか弱い兎。本気を出したら一瞬で終わってしまう。私は既に息は絶え絶え、脚が棒のようだった。それでも、強がって平気な振りをする。
「逃げてもいいですよ……」
「うん?」
 いずれ、逃げきれなくなるのは明白だ。私は狙われている。その時点で、あまりの力の差に命を握られている。私は死ぬだろう。でも、別に無関係の雨宮さんまで巻き込まれる必要はない。
「見捨てて、逃げてくれてもいいですよ。構いませんから。私は責めません」
「………………」
 なのに、雨宮さんは当たり前のように、呆れるように笑うのだ。
「何言ってるんだ。助けるよ。絶対にだ」
「…………」
 想像していた答えでもある。でも、本当にそれを口にできる雨宮さんは理解できない。理解できないけれど――とくん、と胸が震えた気がした。
「…………ばかな人ですね。本当に、助ける理由がわかりません」
「僕はね、コンビニの募金箱にもよくお金を入れる。困ってるおばあさんがいたら助けるし、有事の際はなるべく全員を助けたいと思うんだ」
 ――その時、水を差すように冷気を感じた。一瞬にしてショーウィンドウが真っ白に氷付き、みんなが何事かと振り向いた。ざわめく雑踏の向こうで、死神だけがこっちを向いて笑っていた。まずい。立ち止まった雑踏の間を縫って、駆け出そうとしている。
「雨宮さん――ッ!」
「大丈夫、心配ない。もう到着だ」
「え……?」
 不意に、私たちの背後を影のような少年が通った。チェーンの片ピアスが甲高い音を鳴らす。どこかで見覚えのある、夜そのもののように真っ黒な目をした少年が、フードを目深にかぶり、サングラスをしていた。
「ここでよかったか」
「ああ――悪い羽村君。絶対に顔を覚えられないように」
「言われるまでもない。何なんだ、あいつ――」
 それきり、すぅっと影のように雑踏の中へ消えていった。きっと周囲には、雨宮さんと会話したことすら気付かれないような、自然を装ったやり取りだった。そして、黒い少年と入れ替わるように、道端には主人を待つ黒い馬が待機していた。
「乗って! 早く!」
 雨宮さんが馬にまたがる。死神も、雨宮さんの意図に気付く。私は言われるがままに、雨宮さんの背中につかまるのだった。
「よし!」
 黒い鉄騎が、雄々しく吠える。一瞬、世界が飛んだかと思った。それくらいの加速。気が付けば私は、雨宮さんにつかまり、風よりも早い速度で街を疾走していた。背後を冷気が駆け抜けたような気がするけれど、早すぎて追いつけなかったようだった。夜のネオンが、風景が冗談のように飛んで行く。
「……………出張先のご縁で預かっているんだ。」
 黒い鉄騎。私の時代にはなかったもの。それは、『二輪車』とかいう現代の移動手段だった。
「……乗り心地がずいぶん違うんですね、人力車や籠とは」
「なんだ、現代の乗り物は初めてかい? どうかな、ご感想は」
 風が心地いい。感じたことのない浮遊感がして、距離という概念を忘れさせるほどに、私を前へ前へと運び去っていく。耳に聞こえる鼓動の音色は、荒々しいのにどこか心地いい。私は悔しくて、俯いたまま消え入りそうな声で呟いた。
「…………吐きそうです。最悪です。こんなのずるいです」
 かつて、私たちは自分の脚だけで歩き続けた。長い長い道のりを、山を平原を森を湖のそばを。その過程で死んだ者は一人二人ではない。大勢の追手に追われ、どうしても逃げきれなくて、自らの足の遅さを呪いながら死んだ者だって数多くいる。
 ――脳裏に、ある少女が体験した、燃え盛る村の映像がよぎる。なのに私は生き延びる。他でもない、現代の恩寵によって、死神から逃げ延びたのだ。
「なんだ、お気に召さなかったのかい?」
 私は答えない。ぱしゃ、とカメラが流線型の夜を写した。



 少しばかり、夜の街を疾走し続けた。夏を過ぎ、これからもう少しすれば冬が始まる頃合いの秋風は、逃走で汗ばんだ体に心地よかった。すべてが洗い流されていくようだと思った。例えば水色の朝焼けのように、私の心に積もり始めていたものを、風が攫って消してくれる。不覚にも私は、心地良いと感じていた。
「そうだ、晩御飯は食べたかい?」
 吹きすさぶ風の中、雨宮さんの声は聞き取りづらかった。私の長い髪も風になびき、まるで尾を引いているようだった。そして、こんな日でもお腹は空いている。
「……いえ」
「この時間じゃおしゃれなフレンチとはいかないし、牛丼もドライブスルーも気分じゃない。コンビニでいいかい」
 はい、と私は静かに肯定する。コンビニエンスストア。現代の街を象徴するものだという知識を得ている。撮影対象として興味がないではなかった。実際に訪れてみれば、その現代らしい雑多さ乱雑さに気分が悪くなったけれど、陳列された商品のひとつひとつを見ていくと、それらが高度な技術の結晶であることが見て取れた。知識の上に知識を重ねて、塔を築くように水準を上げた生産技術。現代の街は、知恵と閃きで出来ている。
「…………おいしくないですね」
「そうかい。そりゃ残念」
 安い駄菓子を買った。ひどい出来。けれど、駄菓子に限らずコンビニエンスストアの豊富な品揃えは驚嘆に値するものがある。本当にあれ一件でなんでも揃うらしい。さすがになまものは控えめとはいえ、それでも野菜や肉まで置いてあったのだ。
「……利便化ですか。そんなにまでしてどこへ辿り着こうと言うんでしょうね、現代人は」
「別に崇高な目的があるわけじゃないさ。単に競争する内に自然にこういう結果になっただけだ」
「……そうですか」
 人類は、まるで総体がひとつの意思を持っているかのように進歩していくものらしい。どこまでも貪欲に。まるで街をゆく人々の脳が見えない糸で繋がっているかのようだ。
「………………あとひとつ、ですね」
「え? なんだって?」
 まだ灯されていない宝玉は残りひとつ。蝶の模様のカメラを見下ろし、私は目を閉じた。
「……ん?」
 その時、雨宮さんが震え始めた。いや。
「電話だ。誰だろう」
 雨宮さんが二輪車を脇に停め、電話の画面を見る。そこには『公衆』と表示されている。震える電話機にイヤホンを差し、私に片方を差し出した。
「嫌な予感がする」
 私もだ。
「――もしもし。どちら様かな」
『ああ、こんばんは。先程はどうも』
 金槌で殴られたような気がした。背中が冷たくなる。通話相手は、あの死神だった。
「……どうして僕の電話番号を知っている」
『買ったんです。情報屋から。背は低いですが仕事は確実なようだ』
「なるほど、個人情報駄々漏れだ。現代の悪いところだね」
『ええその通り。ですが、そういった小さな出来事すらも、そこの記録者が持って帰ろうとしている。非常に面倒ですが、僕はそれを防がないといけないらしい』
 他人ごとのように、死神は言う。そういえばずっと他人ごとだった。本当は私のことなんてどうでもいいのだろう、生きようと死のうと。雨宮さんが厳しい声で追求する。
「一体、そっちの依頼者は誰なんだ」
『知らない方がいい。あなたにも立場があるでしょうし――何より、ここであなたに引き下がられるとこっちが困るんですよ、雨宮銀一さん』
 楽しむように、死神は笑った。
『平坦な兎狩りかと思ったら、横から狼が割り込んできた。それも凄腕だ。きっと楽しめる』
「……殺し合いが趣味のようだね。こっちはそんなつもりはないのに」
『冗談は良くない。あなたも本質はこっち側でしょう』
 思わず、雨宮さんを見てしまった。彼はどこかを見下ろしていた。きっと、目には見えない、対岸の沼のような場所を。
「…………意味が、分からないな」
『ええ、あなたはそれでいい。しかしお互い忙しい身だ。そっちの観測者もいつまでも留まっているわけではないでしょうし、こちらとしてが明日で終わらせようと思っています』
 どこまでも勝手に、死神は述べる。
『明日、必ずあなたを見つけ出して殺します。必ず殺します』
 それは宣告。決闘の申し出なんていいものじゃない、どこまでも一方的な意思表示だった。
『あなたは死に、観測者も殺す。僕は何事もなかったように自分の街へ帰り、明後日からの退屈に身を浸すと決めました。では、良き殺し合いを』
 そこで通話は途切れ、私たちには死が約束された。それでも雨宮さんは揺るぎない。
「完全に目的がすり替わっていたね。まぁ別にいいけど」
 電話を仕舞い、なんでもないようにガムを噛んでいる。その雨宮さんの喉が割かれ、血だまりに崩れ落ちる映像を幻視した。
「……逃げてください。私だけで、いい」
「そうだね。明日を乗りきれたらそうしよう」
 聞く耳もなく、雨宮さんは月夜の空を見上げていた。