#朱里-RED EYES-
双子霊は、飛ぶように駆けて行く。実際に飛んでいるのかもしれない。いや飛んでいるだろう、間違いなく。風に吹かれた布のような異様な速さで夜道を移動する双子の姿は、はたから見れば幻覚にしか見えないだろう。
「くそ……ッ!」
そんなものを、二本の脚で追わなければいけないってんだから終わってる。なんで人間は飛べないんだろう。瞬間移動能力くらい付けとけ。
真っ暗な夜道を、進めば進むほどに溺れていくようにひた走る。息が切れているが、自分の冷静な部分が「まだ余力はある」と判断を下している。五秒後に戦闘に入ってもひとまずの支障はない状態だ。この辺り、日々の基礎鍛錬の成果が試される場面だろう。そして辿り着いたのは、何故か、蠍が指定して来なかった学校だった。
「…………嘘を教えてやがったのか、クソ」
調査しきれていない5つ目でもない、ノーマークの、平穏なはずの中学校だった。締めきった校門をすり抜け、双子が門に阻まれた俺を嘲笑いながらふよふよと消えていく。ここにあの、蠍の野郎が潜伏しているのだろうか。俺は高い鉄の門を見上げ、しばしどうするかと逡巡して、やはり先生とアユミに先んじてメールを送っておくことにした。必要最小限の内容量に留めた短文メールを送信し終える寸前、俺の耳はおかしな音色を捉えるのだった。
「…………ん?」
それは、工事現場で鉄を打ち付ける音に似ていた。固く響く、重い音色がしかし、この距離によって薄められて程よい金属音になっているのだ。二回目、三回目と金属音を聞いたところで、俺は瞬時に判断を下した。
「先生か、アユミか――!」
恐らくどちらかが先にこの場所に辿り着き、蠍と既に交戦を始めていたのだ。俺はすぐさま右腕を振るい、透明繊維を門の頂点に向かって走らせる。先に重りを括りつけた糸は門の頂上の柱に絡みつき、摩擦によってがっちりと固定される。まるで蜘蛛の糸。助走を付けて飛び、消防団員のように勢い良く糸を引いて門を駆け上がり、飛び越えることに成功した。すぐさま糸を手放し、学園内の敷地に忍者のように着地する。
「っと、」
危うく転びそうになる。さて、と校舎の方角に向き直り、また金属音を聞いた。
†
窓が開いていなかった。比較的目立たない、校舎の陰に位置する窓に狙いを定め、石を拾って殴りつける。何度か叩いて腕を入れられるだけの穴を確保し、解錠した。
「……まるで空き巣だな」
恐らく、やってることは何も変わりない。湖の底みたいに真っ暗な夜の校舎内に着地し、土足のままで床を踏む。多少汚れても気にしない。いまはそんな場合ではないのだ。
「上か!」
頭上から、一際大きな轟音が聞こえた。恐らく二階。叩きつけるようなその音を最後に、戦闘音は途絶えた。不味い。先生かアユミが蠍を倒したのならいいが、もしそうでなかった場合は最悪だ。あの二人に限ってそんなことはないと信じたいが、胸の内を削る焦燥に勝てるはずもない。
「くそ……!」
全速力で、夜の校舎を駆け出した。廊下の突き当りまで駆けて、曲がり角の壁に手をかけながらハイスピードで曲がる。そのまま階段。石畳修行のように三段飛ばしで駆け上がり、5秒と待たずに二階へと辿り着く。転がるように滑り出て、長い長い二階の廊下を見渡せば、その中腹にやはり殺人ピエロ・蠍が立っていた。
「……よう。来たのかい、少年」
相変わらず、真っ黒なスーツに筋骨隆々。骨ばった大男がしかし、みしりと筋肉の音を立ててこちらを振り返る。闇の画用紙を貼り付けたような真っ黒い箱。そんな校舎二階の廊下で、永劫変わらない異様な笑顔の仮面を向けてくるそいつはやはり怪人だった。
「――――」
そして、俺は顔が凍る。頭蓋骨を金槌で叩き割られたような衝撃を受けて硬直する。目の前の現実を理解できなくて、そのあまりの不条理さに苦痛さえ感じて、ただただ我が目を疑ったのだ。
「う……」
小さなうめき声を漏らす少女がいた。白いはずの肌のあちこちにまるで傷んだ林檎のように傷を負い、たくさんの血を流して痛んでた。息も絶え絶え、車に轢かれた絶命寸前の猫のように残り時間を耐えている。長い髪が湿ったように床に張り付き、少女の美貌を台無しにしていた。
朱里だった。
「なんでだよ……」
理解できない。朱里がここにいるはずがない。あろうことか、あの始めの日に持っていた西洋剣を携えて、こんな場所で敗北しているはずがない。朱里は言ったのだ。すべて、ちゃんと狩人に任せてくれると。安心して待っていてくれると。ちゃんと、朱里は戦いという暴力から身を引いて普通の人間に戻るのだと。
「俺が呼んだのさ。そこの潰れたトマトを使ってな」
言われて、意識を向けた。何かの汚れだろうかと無視していたが、闇の中、月光を反射してしている赤色絵の具がある。バケツ一杯分の量がぶち撒けられていた。廊下の床ですり潰したように、何かの残骸が無残な姿で平面に表現されていたのだ。
「……………………」
ふと足元を見れば、つま先の四センチ隣に、潰れトマトの一部であろうゴルフボールが視神経付きで転がっていた。目が合ってしまって硬直した。あの、電話越しの悲鳴が脳裏をよぎる。どこまでも底冷えしていく心境で、俺は再度・蠍に目を向けた。
「おお、怖い目だ。少年、お前は本当に底の見えない真っ黒な目をしているね」
ピエロの怪人は、その冷蔵庫でも叩き壊せそうな凶悪な体格とは相反して、どこまでも白々しい気さくさで語りかけてくる。身振り手振りひとつひとつがナルシストのように演技がかっていて、まるで巨体に似合っていない。
「なぁ少年。信じられないだろうが、お前は朱里のことを俺ほど理解してはいない。こと朱里の行動原理、その思考と反応についてなら、長年連れ添ってきた俺のほうがよく知っているのさ」
悪の怪人が、何か言っている。もう既にまったく聞こえない。俺はサメのように酷薄な目をして短刀を握りしめ、ただただあの道化をバラすことしか考えていない。より効率的に破壊する。重要血管を効率的に断ち切り、腱や神経を狙いすまして引きちぎり、骨と骨の間の軟骨を切っ先でこじ開けて分離させる。そのための手順を、ひたすら事務仕事かパズルゲームのように構築していく。いまはただ、傷を負って動けなくなっている朱里を救うのが先決だ。意識はなく、目を覚ます気配もまったくない。傷は深く、血の量が多く、どう見積もっても重症に見える。あんな有様の朱里を、殺人快楽者の足元に放っておくなんてあり得ないことだ。――だから、殺人鬼を殺して被害者を守るのだ。
「自己犠牲」
ぴた、と一歩目で足が止まってしまった。
「なぁ少年、お前だって本当は気付いているのだろう。朱里の心の奥底に眠るものはそれだ。自己犠牲という名の自罰のカタチ。それはひとつの自己愛でもある。分かるだろう少年、朱里はとても献身的で、優しくて誰のことも見捨てられなくて――そのために自分自身を犠牲にすることにまるで迷いがない」
それが、つまりどういうことか分かるか? 道化はそんなことを言いたいらしい。剣を握ったまま動かない朱里を。這いつくばって、苦しそうにただただ呼吸をつなぎ続けている少女を見つめて。まるで死にゆくマウスを見下ろすような憐憫があった。
「それが、朱里の内面だ。ああなんて不幸なんだろう。なぁ少年、お前だってそう思うだろう? 何故ならば――」
身長二メートルの男が、獅子のように絶叫した。廊下の大気がビリビリと震えて千切れそうだった。
「朱里は戦う事が大好きだ! 戦うことでしか自己を確証できない! それは、それはそれではまるで――ッ!」
左頬が引きつるのを感じる。不快だ。あの道化の白仮面、そののっぺりした無機的な質感まで生理的に不快だ。
「それではまるで、殺すことしか知らない殺人鬼と同じじゃないかッ!」
なんて大仰。まるでミュージカルのように、何かを指揮するように腕を振るって殺人現場で道化の語りは続く。
「戦いから逃れることなどできない! 何故ならば、顔も知らない他人たちのために、自己を犠牲にして身を粉にしてバケモノ共を殺し、その危機に晒されるスリルに身を置くことが、時にそんな他人共のために死にそうにすらなることが朱里の生き甲斐だったからだ!」
何を言っているのか分からなかったので、もう斬りかかることにする。直線突進からの斬撃は何故か“受け止め”られる。馬鹿力と押し合いながら、目の前の陽気な白仮面に向けて言葉の刃を突きつける。
「おまえ、朱里が好きでバケモノ退治をやってるとでも思ってたのか?」
「何を言っている? 幸せでもないことを命懸けで続けられるはずがない」
まったく道理だ。実に薄っぺらくて何も考えていない、その場で生きてる単細胞の思考回路。最高に的外れで不愉快になる。
「なるほどねぇ……ははっ、その解釈には思い至らなかったな」
朱里が、好きこのんで戦い続けていた――と怪人が言った。思わず笑ってしまう。だって殺人鬼には分からない。狩人には分かるが、想像でしかない。朱里の痛みも懊悩も、一人で生きてきた朱里以外には決して実感などできない地獄だ。
だが、俺は見逃さなかった。朱里はいっつも、手を震わせて怯えていた。だからこそ俺は怒りを込めて、短刀を怪人に叩きつける。炸裂するような音で落葉が啼いた。
「朱里は迷ってたさ。いつだって、戦いなんて大嫌いで、本当はずっと逃げ出したかった」
それでも、戦うしか無いから戦い続けただけだ。朱里の意思などどこにもない。例えばもし東京に大怪獣ギャドラが現れて、大量の人間を虐殺したとして、超能力を持った人間は例え自分が死ぬと分かっていても、どうやってもギャドラ退治に向かわされるはめになる。何故なら、自分以外に対抗できる人間はいないし、自分が目を伏せてメシを食ってる間にも一人また一人と誰かの人生が失われていくからだ。力のある人間には逃げ出す権利すらもない。それが、レッドオーラという朱里の特殊能力が生んだ悲劇、現代に生まれ落ちてしまった超人の不幸だった。
ヒーローなんかじゃない。本当はきっと、朱里は普通の女の子でしかなくて、事あるごとに頭が真っ白になるくらい混乱して恐怖して不安がっていたはずだ。そんなものさえ押し込めて、誰かに慰められることさえないままにただただ少女は堪え続けた。戦い続けた。その生命を危機に晒し、罪の業火のなかをたった一人で駆け抜け続けた。そんな少女だからこそ、そいつが車に轢かれた猫のように終わりかけているということが理不尽で、我慢ならなかった。
「うおおぁああッ!」
・・・・
力ずくで蠍を押し切り、子供の喧嘩のように後退させてから睨み据える。象のように重かった。
「お前、何なんだ」
「殺人鬼かな。しかし、少しばかりそこいらの真っ当な殺人鬼とは違うのかも知れない」
「何……?」
重々しい地響きが一撃、杭打ち機のように校舎の壁を叩きつけた。蠍の拳が、コンクリートの壁を破砕しめり込んでいる。重々しい拳。あれじゃ、重金属だ。……その拳から立ち込める。暗黒色の輝きを俺のボンクラ霊視が捉えてしまった。
「これ、呪いなんだろう? なら、俺の呪いは殺害強化。俺は武器による殺害を良しとしないし、ビーム飛ばして遠くからぶっ殺すなんてのも最悪だ。やっぱ、人殺しは手でしょう、手!」
そう言って自分の大きな手のひらを無駄に強調してくる。その握力で生命を絞め殺してきた無骨な手は、ギロチンのような異様さを纏っているように思えた。
「なので、俺の手は強化される。ただ人を殺すためだけに! 命を奪う、その崇高で甘美な瞬間のためだけに!」
ため息が出た。どこまでも単純明快で、否定のしようもないほどに有害異常現象だ。俺は低く構えに入る。
「――――呪いねぇ」
「ああ。そして少年、お前は何の能力持ちなんだ? 楽しみにしている」
概ね銀一の情報通り。答える言葉があるはずもない。俺の頼りはこの、鏡のように美しい、夜さえ反射する短刀・“落葉”だけなのだから。
「じゃあ、殺そう。あまり呆気なく死んでくれるなよ?」
両の手の平を広げて前に突き出した、奇怪で独特な、しかし見覚えのある構えで蠍が言った。
「ひひっ!」
そこから、巨体に似合わず凄まじい速度で廊下を駆け、突進してくる。こちらの目をくらますための横振りまで加えた高速移動。すぐさま、俺は自分の視界が蠍の手のひらに覆われるような錯覚を感知した。
「――――」
左に体《たい》をずらし、躱している。こちらの頭部を掴むために伸ばされた蠍の豪腕。予想できていたことだった。蠍の手口は絞殺で、さっきの構えは柔道やレスリング特有の、相手を掴んで引きずり倒すための体勢だったのだ。蠍の武器は“握力”。――――鉄の握力が、俺の顔の真横で、俺の顔の代わりに壁を握りしめプレス機のように潰している。そのあまりの威力に、俺は反撃を控えて大きく間合いから離脱することを選択した。途端、蠍の左腕が空振った。
「……どうした少年、何故逃げる。まさかいまさらビビったなんて言わないよな? さあ、楽しくてスポーティな殺し合いをしよう」
俺はゴキゴキと肩をほぐす。さっき蠍を押し返した時に負荷が掛かったようだが、別に関節が潰れているわけでも骨が折れている訳でもないし、そもそも傷めてすらいない。
「そらッ!」
また、魔の腕が伸びてくる。窓ガラスを叩き割った蠍の手のひらは、金属製の窓枠を握りしめてぐにゃりと曲げてしまった。かろうじて回避していた俺は、また距離を取る。間合いさえ保っていれば安全だろう。蠍は業を煮やしているようだが。一歩踏み込んできたら一歩後退し、無理やり突っ込んできたときは間合い分の余裕を生かして攻撃を躱す。当たり前にして基本的な、あらゆる戦闘技術のセオリーだった。
――――誘導し、少しずつ朱里から距離を放していく。廊下の真ん中で倒れたままの朱里は動かない。それどころか、呼吸が小さくなっているような気がした。命は、燃え尽きるときはあまりに呆気ないものだ。
「どうした少年、逃げるだけなのか!? それ以外にどうすることもできないか! ははっ、無理もない! 降参したって遅いがな!」
何か、言っている。よく聞こえないし興味もなかった。しかし、一撃も当てられないくせに自分が優位だと勘違いしていることだけは伝わった。
「はははははっ! 逃げろ逃げろ! そら、そらそらそらそらぁあ!!」
大蛇のような腕を、延々と躱し続ける。時に掠めることもあった。蠍の腕は、尽く衝突するものを叩き壊した。ガラスは割れ、ドアは陥没し、壁は穴が空いた。破壊力の豪雨の中を、俺はただただ兎のように逃げまわり続けたのだ。
――確かに手も足も出ない。しかし、だから何だと言うのだろう? そんなことは大した問題ではない。
「…………おい、もうバテたのかよ」
大男は無様に廊下に手を突いて、ぜいぜいと息をしていた。
「な……に……?」
それを、俺は冷め切った心境で見下ろしていた。人間の体力には限界がある。そんなものは当たり前の話。単純な戦闘力で劣る場合、何らかのトリックを用いて相手を消耗させ、勝てる段階になってから仕掛けるなんてのは当然のセオリーだろう。殺人鬼を見下ろして短刀を強く握り、まるで蜘蛛のようだと自分を嘲った。
「俺たちは、無敵じゃねぇからな。朱里と違って」
だからこそ、卑怯な手も姑息な知略も全力で用いなければならない。そしてそれが、それこそが強みであるとも言える。しかし蠍は、どこまでも単純な腕力勝負がしたいようだった。
「まだだぁあっ!」
鈍器のように乱雑に振り回される腕。唸りを上げ、大気を切って俺の顔を捉えようとした。それを掻い潜って距離を取りながら、自身の戦闘スタイルすら忘れている間抜けに嘲笑を浴びせる。
「どうした? それで終わりか。」
「こん、のぉおお!」
力任せに振るわれる拳を躱す作業は、ゲームセンターでリズムゲーでもやっているような気分だった。
「甘い、甘いぞ少年! お前はひとつだけ勘違いをしているッ!」
苦し紛れなのか何なのか、人差し指を突きつけて強く宣言してくる。相変わらず意味はよく掴めないが。
「……何?」
「見破られていないとでも思ったか! 少年、お前はさっきから逃げるばかりで、まるで自分から仕掛けようとしない! 自身の呪いを生かした渾身の一撃をまるで使おうとしない!」
呪い。何だろうそれは? 本当にまったく訳がわからない。
「使わないのではなく、使えない! 少年、お前は狩人でありながら、怪物退治の身でありながら! まったく! 一切! どんなささやかな呪いさえも持ち得ない、つまり――!」
異議あり。とでも言いたげな力の入った挙動。本当に暑苦しくて暑苦しくて仕方がなかったので、俺はパタパタと手のひらで顔を仰いだ。
「ずばり、“無能力者”なのだ!」
蠍の演技がかった声は、広い廊下によく響いた。
「ふはははは! 無能力者風情が、よくぞ俺の前に立ちふさがったものだ! この命知らずめ!」
命を知らないのはどっちだろうか。俺は落葉の鏡のような表面を見つめる。そこには、真っ黒な目をした狩人がいた。
「では、俺の呪いに屈するがいい!」
何やら力の入った構えをしている。まったく興味が沸かない。そも、こいつといるとだんだん冷えきってくる。本当につまらない相手に付き合わされたもんだ。こんなのを相手させられ続けた朱里の苦悩など推して測るべきだろう。
「いくぞ。疾く死ね少年」
「………………」
俺は黙った。朱里がいままで我慢してきたように、俺も黙って我慢し続けた。耐えて耐えて耐えぬいて、苦しくて辛くてもただただ我慢し続けた。このまま自分がバケモノになってしまうんじゃないかとさえ思えた。
「そらッ!」
巨体の圧迫感が目の前に迫り、また死の腕を振るう。目の前で鉄柱をフルスイングされるような暴威。掴まれれば頭蓋骨でも握りつぶされてしまう超握力が、俺のひとつしかない命を狙う。それを紙一重で回避し続けるのはまるで、高速道路の真ん中で行き交う自動車から逃げ続けることに似ている。
「そうだ、少年! 朱里もそうだった! ひらひらと俺の攻撃を躱し、いつでも掴みどころがない幽霊のようだった!」
凛とした顔の朱里が、レッド・オーラを纏ってこの鬼の手を華麗に回避し続けたのだろう。目にも留まらぬ速さだった。朱里の、折れそうな内心は置き去りにして。
「分かるか!? 俺も、朱里も選ばれし人間なのだ! 特別な異能を宿し、常人の及びもつかぬ高次元で限界を超えた死闘に命を賭ける! その、特別な者だけが許されたステージに無能力者風情が土足で踏み上がるなど言語道断! 出来損ないは、散れぇえッ!」
特別な暴力を押し付けられた人間が特別で、暴力同士の潰し合いはスポットライトが当たるステージであるらしい。笑ってしまう。朱里だって否定するだろう。その殺し合いを専門としている俺たち狩人は日陰者で、呪い持ちの狩人は総じて破滅を確約されている。眩いスポットライトだなんてあり得ない。
俺たちは恵まれない人生を生き、物陰で死ぬ底辺だ。ドラマのような美しい死に方はしない。その証拠に、いつだって美しかった朱里もまた、轢かれた野良猫のような哀れな姿になって動かなくなっていた。
「………………」
朱里の息がない。苦しげに胸を上下させていたはずだが、人形のように停止している。――もっとも、傷の具合や出血量からもとっくに察していたことだが。生きていたとて、あの潰された腕では二度と剣など握れなかったろう。
「………ああ、」
絶望だ。世界が真っ黒に濁っていく。視界が閉ざされ、胸の内に酸の固まりを注入され、背筋を怒りと失意の悪寒が駆け上がる。脳は沸騰し冷静さを見失う。しかし狩人としての冷静さが理性を保ち、戦闘を続行する。
とにかく、巨体の猛攻から逃げ続けた。それ以外に何の行動も起こさなかった。ひたすら伸ばされてくる腕をくぐり、躱し、時に払いのけ、どこまでもしつこい腕を距離を保ちながら回避し続けた。蠍は蒸気機関車のように呼気で排熱し、ひたすらに酸素を喰いながらそのエネルギーを暴力に替えている。卑屈な声、筋違いな罵声。人を殺すためだけに生きている怪物は、醜悪だった。
「……朱里……」
最後に、一度だけ投げかける。答えがないことは分かっていた。都合の良い逆転劇が起こらないことも知っていた。あの傷では即死に近い。それを、レッドオーラがなんとか延命していただけなのだ。そのオーラも枯れ、一切の熱量を失った少女は電池が切れたように完全に停止している。そも、数リットルも出血し、胸部の臓器に大穴が開いたような状態では人間は生きていけないだろう。いかな超人だって、生きていられるはずがない。
バランスが崩れたのか、あるいは筋肉が弛緩したのか、ごとりと朱里の顔がこっちに向けられる。表情を失い蒼白になった、人形のような顔。不思議だ。一目見て、あれはまったく生命活動を行なっていない、心臓の止まったマネキンだと理解できる。眼を閉じた死に顔は、安堵したように穏やかだった。
朱里は、死体になっていた。
「………………………………なんで、朱里を殺した……?」
無敵なんかじゃない。無敵なんかじゃなかった。その現実が、いまさらになって俺の眼前に突きつけられる。分かっていたはずだった。分かったつもりになっていた。だが、それならばどうして守れなかったろう。なんで、拘束してでも無理矢理にでも安全な場所に閉じ込めなかっただろう。――分かりきっている。俺は、朱里の行動を予想しきれず、その責任感の強さを甘く見ていたのだ。
朱里は、狩人の制止を振りきってでも人質を救おうとした。
その結果がこれだ。
俺の判断ミスが朱里を死なせた。この事実はもう、未来永劫動かない。殺してしまった田中さんと同じように、朱里もまた一方通行の標識の向こう側へと遠のいてしまったのだ。可憐だった朱里を向こう側に送った道化は、ゴキゲンに語る。まるで勝ち誇るかのように胸を張って。
「人を殺すのに、哲学的な理由なんてない。生物殺しは生物の本能だからね」
「何……?」
「野生動物の強さは、その狩猟能力で計られる。そういう意味においては少年、無能力の君は存在価値ゼロ。優れた異能を保有する俺は、生物としてなかなか、というところかな?」
胸に手を当て、感じ入るように何か言ってる。朱里は、こんなヤツの自己満足のために奪われたのか。笑える。本当に、この世界のすべてが憎くなってくる。不条理の地獄。どうにも自身の分不相応な腕力を自慢したいらしく、蠍は消火器を死の握力で掴んだ。その右手からじわりと暗黒色の呪いが滲み出し、大気を濁らせる。捻じ曲げられた現実は、人間外の握力という現象《けっか》を実演した。ぐしゃりと消火器が潰れ、白い中身が辺りに噴出する。
「どうだ? 羨ましいだろう」
もうもうと白く染まる廊下。まるで吹雪の中にいるようだ。白い煙が、朱里の姿も多い隠していく。思わず手を伸ばしてしまった。まるで、朱里の遺体が波に攫われるようだったからだ。そんな俺の手を横から振り払うように、白煙に紛れて蠍の声が耳元に聞こえた気がした。
「無能な、つまり食われるだけの家畜に存在価値など無い。あるのはただ“消費される”という被害者としての本能のみ。無能はダメだ。無能は死ぬべきだ。死ぬために生きている無能なら、俺が誰よりも華々しく消費してやろう。無能というゼロから、より効率的に、誰よりも生産的に無能のゼロから百の喜びを捻出してみせる。では死ね無能。無能らしく、なんの異能も価値もなく、無能なまま命を落として無能らしい間抜けで無能な最期を飾るといい」
まずい。油断した。巨体の蠍が大きく身をかがめ、白煙に紛れて俺の不意を突こうといままさに腕を伸ばしていたのだ。この間合ではもう、躱すことは叶わない。
「ではな、無能」
いよいよ、大蛇の腕が俺の顔を射程に捉える。ずるりと伸びて来たまさにその瞬間、俺は落葉を渾身の力で振るうのだった。
「!?」
俺の首を鷲掴みにするはずだった手が、隕石のように短刀と激突して軌道を逸らされる。蠍の手は呪いを纏っていたため金属のようだったが、よもやその腕力をもってして俺の一撃に相殺されるなんて思いもよらなかったろう。
「くくっ、素晴らしい奇跡だ! その非力さで俺の一撃を受け流すとは見事! だが奇跡は2度目はない! 今度こそ死ねぇええッ!!」
再度振るわれる、豪速の腕。暴風を纏ったそれは特急電車が駆け抜けるようだ。人間の力でどうこう出来るもんじゃない。さっき受け流せたのは幸運なまぐれに過ぎない。今度こそ俺の顔を捕らえようとした手が、またしても短刀と衝突してわずかに軌道を逸らされ、俺の首を掠めるに留まるのだった。
「な、に――?」
回避から一転、俺は蠍の腕を弾くという方法で“防御”している。桁一つ違うはずの腕力《スペック》差を考えれば、あり得ない光景だ。電車が突っ込んでくるのを止められる軽四自動車なんて存在し得ない。
しかし、何かの間違いで蠍の一撃は逸れ、俺の眼前に絶好の機会を与えていた。俺は迷わず、隙だらけだった蠍の右耳に刃を走らせ、切断した。
「ぎ――」
蠍が倒れ、耳を押さえて絶叫した。野太い、悪魔のような爛れた悲鳴が真っ白に染まった廊下にビリビリと響いた。そのあまりの声量に呆れて本当に冷め切った心境になる。虫ケラのように悶える姿を、何の興味もなく見下ろしていた。足元に“破片”が落ちていたので靴底で踏み潰し、捻る。
「無能が、なんだって?」
ひっと怯えた声を上げて見上げてくる殺人鬼。ゴキブリのように汚らわしい。こいつは殺そう。殺すべきだ。ここで動かなくなるまでめった刺しにして活動を停止させないと、きっとまた害を振りまくことだろう。ならばこの局面に於いての殺しは正義。……窓ガラスには、ドス黒い真空のような眼をした狩人が写り込んでいた。
「お前、何か勘違いしてないか? 俺が呪い抜きで呪い持ちのバケモノを殺せることと、お前が呪いを使って一般人を殺せること。この事実をどう結び間違ったら“呪い持ち”が“呪い狩り”に勝てるなんて結論になるんだよ」
血だらけの耳を押さえ、蠍が尻を引きずったまま後退していく。面白いから、刃物を突きつけそれを追う。そら、逃げろ逃げろと通り魔のように死をチラつかせる。本当に、正義の味方は悪党みたいだ。いろんな感情が溢れそうになるから、蠍の大腿に根本まで刃を突き立ててそれを制した。冷めた気分で頬に血を浴びながら俺は、蠍の絶叫を聞き流し、ただただ貫通してツノのように突き出してしまった血塗れた落葉の切っ先を見下ろしていた。刺したままの刃を捻り抉ったら、腕が飛んできた。きっと痛かったのだろう。その、受け流せるはずもない超威力の腕をしかし軽い動作で受け流す。がむしゃらに突き出される腕力を次々と受け流す。どう足掻いたって、蠍の腕力は不思議なくらいに俺を捕らえることが出来なかった。
「何故だ……くそっ、何故!? 何故、何故何故何故何故っ!」
腕力で勝りながら、しかしどうやっても俺を殺せない目の前の事実に、人殺ししか知らない怪物が錯乱している。だが、何度やったって結果は変わらない。
「な、何故だ!? こんななはずがあるまい、何故――!」
「おまえ、狩人を何だと思ってるんだよ」
嘲笑する。狩人の日々は過酷だ。地獄と呼ぶに相応しい。バケモノを殺すために生きている。ただひたすらに屠り続け、守ろうとした何人もの命を自分の力不足で取りこぼし、そのたびに絶望に暮れ取り憑かれたように鍛錬に励んだ。
毎日毎日、何年間も。小学生の年齢で先生に拾われたあの日から今日まで、羽村リョウジは毎日バケモノ退治の狩人として教育され生きてきたのだ。
その日々の中で、積み重ねてきた経験が。
挫折し続けたすべての事件が。
真っ黒な眼で見てきた殺し合いの数々が。
バケモノ殺しの技術と相成って、狩人《おれ》の中に蓄積されている。
とうに学習している。力自慢を相手にする場合、強すぎる力を受け止めることは不可能。跳ね返すなんてこともあり得ない。出来るのはただ、的確に力を“受け流す”ことが出来るポイントを押さえて、潰されないように受け流しながら逃げ延び続けることだけだ。
そんな対策も、相手がアユミほどの規格外なら歯が立たないが――俺が力ずくで押し返せる程度の腕力なら何の問題もない。未来予知の能力者や、巨大な火を噴く怪物に比べればよほど倒しやすい相手だろう。
「アンタは大きな勘違いをしている。自分が最強の腕力を持っているという勘違い。その、ただ手を強化するだけの芸の無い呪いが優れた能力だと信じきっている勘違い。それから、自分が殺される側でなくまだ殺す側だと思い込んでいるその勘違い」
ゴキブリのように逃げようとする、汚らわしい木偶の坊を見下ろして思う。本当に気持ちが悪い。害虫め。知れず、右手の短刀を握る手に力が篭った。
――――きっと、朱里も、いまこの瞬間の俺と同じようにこの道化を見下ろして、殺すか否かを考えたのだろう。そして、朱里はあのとき蠍を殺さなかった。
「ああ……くそ」
朱里に、人を殺す覚悟はなかった。たとえ悪人でも人間を殺すことは出来なかった。朱里は、蠍という害敵を、今日の今日まで一度だって殺さなかったのだ。あれほど強力なレッドオーラを保有しながら、しかしただの少女の心しか持たない朱里には人殺しの罪だけは背負えるわけがなかったし、背負ってはいけなかった。そのせいで朱里自身が命を落としてしまったって言うんだから、やりきれない。
「じゃあな。」
そして、狩人はあっさり殺す。死に物狂いで逃げようとする道化の背中めがけて、何のためらいもなく短刀の切っ先を振り下ろし、抉り、根本まで食い込ませることに迷いはなかった。硬い肉の感触も、その奥の柔らかい内臓の感触もよく知っている。
耳を抜ける絶叫はまるで聞こえなかった。本当にどうでもいいのだ。俺は、この男が苦しみ悶える姿にも、仮面が剥がれ落ちたあとの素顔にも、大量に撒き散らされる血にも何の興味もなかった。
「…………この、ひとご……ろし……!」
その、血走った眼で吐き出される怨嗟だけはオモシロイと思った。最高にくだらない。どの口がそれを言う?
「お互い様だろ」
口の端が吊り上がる。重要血管を断ち切って、更なるダメージを与える。命はしぶとい。何度だってダメージを与えて、精根尽き果てるまで延々と傷めつけないといけない。そんな億劫な解体作業をしかし、慣れた狩人の手つきは淡々と終わらせた。
「さて……」
悪の怪人はもういない。正義の味方ももういない。消火器の白煙が晴れる頃、朱里の死体は真っ暗な廊下のどこにもなかった。
「………………やっぱり、そうか」
死体がない。生き返ったわけではなく、死ななかったわけでもなく、ただ単に死後に遺体が勝手に消滅したのだろう。予想していたことだったが、その事実を改めて思い知らされると頭が痛くなりそうだった。携帯を取り出して朱里の番号をコールしても、廊下の隅に転がっていた携帯が虚しく鳴り響くだけだった。もう、あの美しい緋色の目をした少女はどこにもいないのだ。
「…………朱里……」
ふらふらと、幽霊のように夜の校舎を抜け出した。本当に暗澹とした気分だった。外へ出れば、何もかもがなかったことになって、また朱里に会えるのではないかという気がしていた。
「――――――」
気が付けば、雑踏が流れ行く街の真ん中に立っていた。歩道橋から夜の街の砂粒みたいな数の灯りを見下ろして、ボンヤリとした空気に浮遊している。錆びた手すりに持たれて見上げた先、そこにはビルの壁面に大きな看板が張られているのだった。
それは、ゲームの広告だった。バッタバッタと怪物を倒していくアクションゲームの主人公の顔がアップで映っている。その緋色の瞳には見覚えがある。学生服を着て、西洋剣を引っさげたゲームのキャラクター。そいつは最強無比で、孤高で美しくて赤色のオーラを纏ったキャラクターだった。
「本当、何がどうなってんだろうな」
そのアクションゲームの主人公は、「朱里」という名前だそうだ。