斬-the black side blood union-

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 汗を流すには銭湯なのである。
「……ふぃぃ~」
 苺大福は無事アユミがゲットしてくれた。本日唯一の日程、完遂。
 やることもなくなったわけだし、暇潰しがてら疲労を癒すべく俺たちは近所の銭湯を訪
れていた。
 いやまぁこんな早朝から銭湯に出掛ける若者というのもどうかとは思うが、そんな問題
もこの至福の前にはどうでもいい。いいじゃないか。休日なんて、誰でもニートなんだか
ら。
「……ふあああ」
 早起きは3文の得。天井付近の通気口から青く晴れ渡った空などを見上げつつ、優雅に
欠伸してみせる俺こと羽村リョウジ、職業はやっぱりニートだった。
「…………」
 揺れる水面、別に綺麗なわけでも超広いワケでもないごく普通の銭湯だ。
 壁1枚向こうの女湯からは、よく知った2人の声が聞こえている。どうでもいい。がら
ららら。
「……ん」
 そんな音を立てて、更衣室へと続く扉が開けられた。
 悠々と入ってきた人物を見て、俺は目が点になる。
「…………」
 いやいやいや。なんだあのオッサン。おかしいだろ普通に。
「ふぃぃ~」
 その人物は俺に背を向け、わしゃわしゃと頭を洗い始めたのだが。
 ヤケにガタイのいい背中。やたら生傷だらけの全身。いや問題はそこじゃない。鏡越し
に見える無機物の顔が間違っている。
「……」
 何のつもりなのか、そのオッサンはキツネの仮面なんぞを付けていやがったのだ。
 あれだ。寺とかに飾ってありそうな古風なキツネ。白い面。キツネ。エキノコックス?
「おっと、これは珍しい。まさかこんな朝から先客がいるとはの。隣、失礼するぞ少年」
「え? あ、ああ。どーぞ」
 いつの間にか頭も体も洗い終えていたキツネが、悠々と湯船に体を沈める。
 俺の隣で。
 ヤケにガタイのいいやたら傷だらけの何故かキツネが、「うむ。良い湯だ」とか勝手に
頷いた。異様な光景。
「…………………………」
 沈黙の銭湯。
 聞こえるのは女湯でなんか楽しそうにしているアユミと美空の声だけ。
 自然に落ちてカコーンと鳴った桶の音に、俺はびくりと肩を震わせた。
 沈黙の銭湯。しかし胸の中では様々な仮定が渦巻いていた。
 ──例えば祭り。今日どこかで秋祭りがあって、だからこの男は仮面を被っているのだ、
という説はどうだろうか。ダメだ、わざわざ銭湯の中までキツネで居続ける理由がどこに
も見当たらない。
 ──では、アレは実は素顔なんだという説はどうだろうか。
 面を被ってるからキツネなのではなく、すっぴんの素顔がキツネの面によく似ているの
だとか。いや待て。それは果たしてキツネ面人間なのか、人間からだキツネなのか。どち
らも同じくらい有り得ない。
 ──致し方ない。では、これは目の錯覚だという夢オチ方向で納得するのはどうだろう。
 そう、きっと俺は疲れているんだ。日がな死と隣り合わせの過酷な毎日。ニートなんて
無職業職業の裏側で狩人として活動する日々。疲れないはずがないじゃないか。
 俺はごしごしと目を擦り、キツネ面を被っているように見えた男をもう一度よく観察し
てみる。
 揺れる輪郭、霞む視界。そして男は──
「…………」
 やっぱりキツネのままだった。
「……あの。聞いてもいいっすかね」
 不思議な(不思議としか言いようがない)その男に、俺は直接尋ねてみることにした。
「む? ああ、これかね」
「えぇ、それです。一体どういったアレなんですか?」
 どうなんだ、何なんだ一体。教えてくれ。なんでキツネ面なんだ?
 そんな俺の切実な問いに、キツネ面は悠々と笑って──表情が見えるわけはないのだが、
確かにそんな気がした──静かに、こう答えた。
「我輩は武道を嗜んでいてな。何、この程度の筋肉、人に誇るほどのものでもないだろう」
 いや聞いてねぇよ。なんで筋肉会話だよ。
「……ふむ?
 少年、よく見れば君もいい肉付きをしているではないか。鍛えているのかね。なかなか
のものだ」
「はぁ……ありがとうございます」
 脱力して、俺は鼻まで湯船に沈んだ。ぶくぶくぶく。ぶくぶくぶく。
「ねぇ、アユミ。あれってやっぱ黒色だと思わない?」
「うそー!? ああでも、かたちはなんか丸っこいよねー」
「だけど長さはけっこうあるでしょ?」
「確かに。それと、なんていうか、さわるとびびびって感じがするんだよ」
「あはは! あるあるー!」
 女湯から聞こえてきたよく分からない会話と、桶のカコーン。
 またしても沈黙の銭湯。
 またしても沈黙のキツネ面。
「……」
 不動の横顔を見ているとまた胸の奧がざわついてきた。
 気になる。
 無性に気になって仕方ない。
 何なんだ一体。どうして銭湯でお面なんだ?
「……あの、聞いてもいいっすかね」
 俺は再チャレンジしてみることにした。
 しかし先手を打たれてしまう。
「ああ、これかね……すまぬな少年。これについては、わけあって話すことが出来ないの
だよ」
 その重々しい声に俺は、落胆せざるを得なかった。
「……そうなんすか」
 残念だ。
 教えてくれないのか、キツネ面。
「む?」
「え?」
 しかしふと、キツネが俺を見て快活に笑った。なんか『豪傑』な感じの声で。
「かっかっかっかっかっか。
 なんだ少年、君も人のことは言えんではないか。ふふ、似たもの同士だな我々は」
「……?」
 バカ言え、俺はお面なんて被ってないぞ。
 念のためにぺたぺたと自分の顔をさわって確認しておく。いつも通りの肌の感触。
「………」
 しかしなんか不安だ。
 もしかして、俺も知らぬ間にキツネ顔になったりしてるのだろうか? そんなホラーを
振り払うために鏡を探して、水面を見下ろした所で彼は言った。
「ふむ。ここはひとつ、古傷同盟とでも名付けてみるかね? かっかっかっか」
「…………」
 ああ確かに、俺もあんたも古傷だらけだよなってそっちじゃねぇよ。
「…………………………」
 くそ、また聞きそびれてしまった。
 何だよ。何なんだ一体。いいかげん教えてくれよ、もしかしてわざとやってるのか?
「それからさ、アイツって確かぽんぽん跳ねるんだよね」
「そうそう! それでたまに目玉焼きとか食べてるの!」
「まじありえないよね! この前なんか目からビーム出してたんだよ!?」
「えぇっ!? ホントに!?
 ああ、でもねでもね……このまえわたしが公園で見掛けた時は、ちょっとだけ紳士っぽ
かったよ」
「紳士!? 紳士なんだ!?」
「それでね、こう、ちょっと声にコスモ入ってるんだよ」
「コスモ!? なにそれ!? あはは、あはははははははははははっ!!!」
 一体何の話をしてるんだッ!?
 思わず女湯に叫びそうになった衝動を押し込めて、ふと隣を見やると。
「うむ、では先に失礼するぞ少年」
「あ……」
 湯船から上がり、悠々と去っていくキツネ面の男がいた。
「ふふふ、しかし若いというのはただそれだけでいいものだ。我が輩にもそのような時代
はあったのかな。よいか、正しく生きるのだぞ少年」
 大きな背中は朗々と告げた。
 遠くなる豪快な笑声、遠くなる背中を見ながら俺は悄然と項垂れた。がららら、がしゃ
んっ
 沈黙の銭湯、女湯からは笑い声。
「……ちくしょう……何なんだよ一体」
 ぽつりと呟いて、俺は湯船の中にぶくぶくぶくと沈んでいった。




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