斬-the black side blood union-

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 その日の廃工場は、わたしたち2人だけだった。
「…………」
 わたしと智花さんの2人だけ。
 パイプ椅子に腰掛けて、30分前には集合するはずだった信士さんと俊彦さんを待ち続
けている。
 ただじっと。
 工場の入り口だけを、見つめ続けている。
「…………」
 変わらないはずの雨の風景は、昨日と違ってどこか色抜けている気がした。
 砂埃の匂いがなぜか痛い。
 ぱたぱたと注ぐ雨さえどこか虚しくて。騒がしい時間がウソだったかのように、わたし
も智花さんもじっと黙り込んでいた。
「…………」
 智花さんの横顔を盗み見る。
 湿った瞳。いつだって元気だった智花さんが、どこか、諦めたような色を浮かべて沈黙
していた。
「……やっぱり、来ない……か」
「え?」
 静かすぎたからだろう。
 溜息と共に吐かれた智花さんの声は、空っぽの工場内によく反響した。
 ──宝物。みんなの宝物だったはずの場所に、いまは、誰も現れない。
「いいよ……分かってたんだよ、そんなの」
 髪を撫でながら、智花さんはどこか投げ遣りに呟いた。
「はは、そうだよね……きっと昨日がどうかしてたんだ。そうに決まってる」
 そのいまにも折れてしまうんじゃないかってくらいに弱々しい声が、わたしには不思議
だった。
 あの智花さんが……いまにも、泣き出しそうな顔で笑っていた。
「ごめんねアユミちゃん。きっとあいつら、もう来ないよ。もともと来るはずなんてなか
ったんだ。この2ヶ月、何回連絡しても、私以外は誰もここに足を踏み入れようとしなか
ったから──」
 まだ、智花さんは笑っている。
 きっと泣かない。
 この人は、わたしの前では絶対に泣かない。そんな気がした。
「……本当はね? 昨日会ったのが2ヶ月振りだったんだよ。だからそれまでみんなバラ
バラに過ごしてた。5人全員、あれ以来もうずっとバラバラになっちゃってたんだ……」
 そう言って。
 智花さんは、無人のパイプ椅子をひとつひとつ見回して──最後に、感情の欠けた空っ
ぽの瞳で天井を見上げた。
 虚無。
 つくりものの硝子細工のような表情で、彼女は語った。

「……もう宝物じゃない。終わってしまった思い出なんだ、きっと」

 ざぁぁああああああああああああああああああああ
 雨足が強くなった。
 その時、わたしの脳裏に映像が浮かんだんだ。
 何度連絡しても会おうとしないみんな。
 仲良しだったはずの5人が散り散りの毎日を過ごして。
 1人ぼっちになってしまった智花さん。
 智花さんは明るくて前向きな人だから……だから、そんなでもきっと笑いながら毎日を
過ごしていたんだろう。
 淋しかったに違いない。
 悲しかったに違いない。
 世界の終わり。
 みんながいたはずの日常。それが終わったあとの、何もない空っぽの日々。
 それがあの日、わたしと──高瀬アユミと出会って、友達になって、それで彼女は少し
だけ救われていたのかも知れない。少しだけ心から笑ってくれたのかも知れない。
 それを切っ掛けに昨日、信士さんと俊彦さんがようやく会ってくれて、また一緒に笑い
合って。ああ、楽しそうだった智花さんの姿はよく覚えている。そして写真立てを見上げ
るたびに温度を失っていた3人の顔も、よく覚えている。
 ──きっと痛むんだ。
 5人一緒だった日々を思い返して、余計に痛んでしまうんだ。
 だからもう、2人は智花さんには、会わない。
 そうしてまた元通りの、散り散りの毎日が始まってしまった。
「…………」
 分からない。
 わたしはなんて言えばいいんだろう。どうすれば、智花さんはいつもみたいに笑ってく
れるんだろう。
 ああ、とっておきのジョークは何だったろう。
 そんなので笑わせられるかな?
 そんなので智花さんを癒せるのかな?
 泣き出しそうな横顔が見える。
 1人ぼっちの瞳から目が離せない。
 わたしには何も出来ないの?
 泣かないで。
 泣かないで智花さん。
 わたし、わたしは……!
「智花さんっ!」
 がたんと音を立てて立ち上がっていた。
 智花さんはびっくりしたようにわたしを見上げてから、小首を傾げ、笑顔で聞いてきた。
「どしたん、いきなりそんな大声出して。忘れ物でもしたのかい?」
「……っ」
 ──作り物の、ボロボロの笑顔で。
 それを真っ直ぐに見つめ返せなくて、わたしは地面を見つめ、スカートの裾をぎゅっと
掴みながら言葉を続けた。
「あの……今夜も、泊めてもらって……いいです、か?」
 かすかに、智花さんの瞳が震えた。
「…………」
 静かに腰を上げ、わたしの目の前に立って、呟いた。
「……そう。そうなんだね」
「え?」
 ふわ、と優しく抱き寄せられた。
 よしよしとわたしの頭を撫でながら、智花さんの唇がとても穏やかに動く。
 ──雨の中で。
「アユミちゃんは、私のそばにいてくれるんだね……ありがと」
 ぎゅっと抱き締められる。
 それはきっと、作り物じゃなかった。海のように悠然とした声だった。
「……ありがと」
 私の両肩に手を置いて、笑う。
 智花さんの本当の笑顔は、どこか儚くて、何かを受け入れている人だけが浮かべられる
神聖さを纏っていた。
 ああ、よかった──
「智花さん……」
 ──やっと、笑ってくれた。
 ようやく安心できた。
 耳に痛かった雨の音も、穏やかになってさらさらと流れ落ちていく。
「アユミちゃん、私ね。信じてるんだよ」
 智花さんは外の雨に視線を移した。
 それは夢。
 彼女が雨の日に見た、小さなユメの一欠片。
「いつかまた、5人一緒に──ううん、今度はアユミちゃんも入れて6人。みんなでまた、
ここに来て遊ぶんだ。たくさん、たくさん、いつまでも」
 ささやかな。
 慈しむべき、祈りのかけら。
「そっか……うん、そうだね。みんなで遊べるといいね」
 だからわたしも、自然に頷いていた。
 きっと安心しきっていたんだと思う。智花さんがあまりにも穏やかだったから。
 また5人、ずっと一緒に。
 叶うはずのない願いに、嬉しそうに頷く彼女。

 雨は、まだ、降り続けている。




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