斬-the black side blood union-

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「……本当に戻るの?」
 坂道の頂上で、背中に声を聞いた。
 わたし・宝生優奈は自分の胸に手を当てる。
 大丈夫。迷いはない。
「うん。ユウヤ君が、待ってるから」
 風に吹かれながら振り返ると、香澄の眠そうな瞳を見つけた。
 ずっと友達だったから分かる。
 一見普段と変わりないけど、香澄のこの顔はわたしを心配してる表情だ。
「それじゃ行ってくるよ。香澄、無茶しちゃだめだからね?」
「……優奈こそ」
 背中を向けて1歩を踏み出す。
 これ以上は、迷ってしまうような気がしたから。
「…………ねぇ香澄。聞いてもいい?」
 けれど、足は止まってしまった。
 どうしても聞いてみたかった。
「雛子ちゃんは……何を願って、この世に残ったのかな」
 そんな、分かるはずのない質問。
「…………たぶん」
 なのに香澄は答えをくれた。
 香澄は、わたしなんかよりよっぽど聡いから。
「………………優奈と、同じこと」
「そう……」
 まだわたしの知らないわたしさえも、知っているんだ。
 それきりわたしは振り返らなかった。
「……優奈、気を付けて。あの人は危ないよ」
 ただ迷わないように。
 何かから逃げ出すように、前だけをみつめて歩き続けた。
「…………」
 だから、あっという間だった。
 相沢。
 そう書かれた表札の、大きな一軒家が夕日を浴びている。
 日はもうほとんど沈んでいる。遅くなってしまった。
 静かにドアをすり抜ける。
 誰もいない玄関。
 右手からすり抜けようとして、声を掛けられた。
「やぁ、おかえり」
「あ。ユウヤく……ん?」
 振り返る。
 違った。
 知らない男の人だった。
「遅かったね。ユウヤが君を待ってたよ。あんなに生き生きとした顔を見るのは久しい」
 かつ、かつ、と歩み寄ってくる。
 右手を背後に隠した誰か。陰になって顔は分からないけど、とても大きな人だった。
「あ、あの……誰ですか?」
「兄貴さ。相沢ユウヤの兄。そして……」
 右腕が振り上げられていく。高く高く、ゆっくりと。
 握られていたのは、見覚えのあるアイスピックだった。
「君に2度目の死を与える男だ」
 寸前で、ドアの中に引きずり込まれる。
 目の前を通過する銀色を見た。
「え――」
 家の中、玄関で、あっけなく尻餅をつく。
 無数の腕。
 みんなが、混乱したようにわたしを見上げていた。
「な……何? どういうこと?」
 分からない。
 振り下ろされたアイスピック。
 胸に手を当てると、早鐘のように鳴っていた。
「……」
 わたしは――襲われた?
「っ!」
 気付いた途端に悪寒がした。
 全身が震える。
 みんなに手招きされる。
 逃げようっていうことだろうか。
 先導されるままに階段を駆け上がる。転びそうになりながら。
 ユウヤ君の部屋のドアに飛び込む。
「ユウヤ君……!?」
 倒れていた。
 夕日の差し込む部屋の真ん中で。
「ユウヤ君、しっかりして!」
 抱き起こす。意識がない。額から血を流して気絶していた。
「何……どうして……」
「――!」
 その時、ユウヤ君が目を見開いて、すごい早さでわたしの顔に手を伸ばした。
「っ!?」
 右耳に何か、暖かい液体が跳ねる。
「が……ぁ」
 彼の手のひらを。
 アイスピックが、貫通していた。
「ユウヤくん……!」
 瞬く間に血が流れ落ちていく。
 わたしを守るために手を盾にしたんだ。
 アイスピックの持ち主は、音もなく追いかけてきたお兄さんだった。
 薬物中毒みたいな瞳で、ユウヤ君の手を刺したまま、機械的に声を発した。
「どうしたユウヤ、何故庇う。そんな意志に反した行動はやめろ」
「うぐぁああっ!」
 力ずくで、わたしの眉間にアイスピックの先端が近づいてくる。
 わたしは恐くて動けなかった。
 ただあたまを真っ白にして震えているだけだった。
「そんなことをしても苦しいだけだろう。お前だって本当は壊したいはずだ。それがお前
の本質。なら、従った方が楽になる」
「黙れ――黙れッ!」
 ユウヤ君に引き倒されて、刺突を紙一重で免れる。
「僕のルールを侵すな……」
 ユウヤ君は私を背にして叫んだ。
「この子に、暴力を突き付けるなッ!」
「哀れだなユウヤ」
 お兄さんはアイスピックの血を振り払い、同情の瞳でユウヤ君を見下ろした。
 罪を告発するように。
「またそうやって子供を玩具にする。壊し、壊すことに飽きたら今度は甲斐甲斐しく守る
演技。どのみち力で支配し続けることには変わりないじゃないか。もうやめろ。お前には、
どうせ何も救えやしない」
 愕然と、目の前の両肩が震えるのを見た。
「……っ」
 ひどい。
 ひとの心を踏みにじる言い方だ。
 どうしてそんなこと言えるの?
 ユウヤ君の意志も努力もこれからの未来も、何もかもを偽物だって言うの?
 ――おかしいよ。
 そんな風に全否定する権利なんて、きっと誰にもないよ。
「ああそうか……僕は……」
 ユウヤ君は、壊れそうなほど震えた声で、自分の両手を見下ろした。
 自分が信じられなくなったんだろう。
 子供ってそういうものだから。
 大人《ルール》に自分を否定されてしまったら、何もかもが崩されてしまうんだ。
「…………きらい」
 膝をつきそうになったユウヤ君を支え、その人を真っ直ぐに見返す。
 泣きそうなくらいに痛かった。
 友達がすべてを否定されて、為す術もなく心に傷を負わされるのが悔しかった。
 ユウヤ君の目が虚ろに翳っていく。
 びきびきと。
 心の壊れる音が聞こえる。
大人 あなた なんて、大嫌い!」
 叫ぶ。
 襲いかかってくる。
 無数の腕が、部屋を埋め尽くした。



 日は落ちた。
 わたしたちは別の部屋にいる。ドアに鍵を掛けた。あまり、意味はないだろうけど。
 狭い床。冷たいフローリングに腰を下ろしていた。
「ねぇ……優奈ちゃん」
 背中合わせの彼が言った。
 疲れたような、自嘲するような声で。 
「僕みたいな人間にも、誰かを守ったりできるのかな」
 できるはずだ。きっとできる。
 なのに、ユウヤ君は力無く笑うだけだった。
「僕はきっと、あいつにはどうやっても勝てない。
 いつもこうだった。兄には勝てない。勉強運動会話に人間関係、そして心。僕はいつも、
兄の背中を追うだけだったんだ」
 お兄さんの話は聞いていた。
 とても、とても賢くて、そして一度だけ臆病だった人。
「……亡霊なんだ……僕を殺そうとしてる」
 道連れ。
 そのために、ユウヤ君の前に現れたんだ。
 真っ暗な部屋の中を見回す。
 壁に囲まれた暗い場所。
 まるで、永遠に抜け出せない牢獄のようで。
 とてもおそろしい暴力が、わたしたちを探して、迫ってくる。
 恐ろしい。
 ただの家が猛獣の檻になったみたい。わたしたちは抵抗する権利さえも与えられないエ
サなんだ。
 だん、だん、と部屋のドアが叩かれる。壊れそうなくらいに。
 ――肩が震えた。
 大人は怖い。
 私が壊される。
 いい知れない吐き気がこみ上げてくる。
 頭を抱えて、すべてを投げ出してしまいたいくらいに、ここは狭くて暗かった。
「…………ユウヤ君?」
 背中の温度が遠くなる。
 彼は立ち上がり、背中越しに言ってきた。
「……みんなを連れて逃げてくれ」
「!」
 こんな薄暗い場所で。
 わたしたちの抱いた夢は、早くも終わりかけていた。
「だめ…………そんなのだめ」
 ユウヤ君の手を捕まえる。
「友達だから。ユウヤ君を、1人にはしない」
「でも――」
 迷う彼を、わたしはまっすぐに見返す。
「ユウヤ君、自分の本心を決めていいのは自分だけだよ。人の言葉に惑わされちゃだめ」
 そうだ。
 何を否定されても、自分の心だけは、自分のものなんだ。
「……一緒に、生きよう?」
 わたしは笑った。
 何の力もないわたしだけど。
 それでも、手を取り合って、ユウヤ君と歩きたかった。
「僕は……」
 翳っていた瞳が閉ざされる。
 何かを決心する。
 そして、開かれた瞳は全域知覚の呪いを発動していた。
「……分かった。そうだね、叶えなくちゃいけない。僕らの夢を」
 頷き合う。
 渦巻く瞳は禍々しい。
 だからこそ、味方なら誰よりも頼もしいわたしの友達。
「っ!?」
 ドアの下の隙間から、何かが流れ込んでくる。
 泥。
 大量の黒い泥が床を流動し、わたしたちに這い寄ってくる。
『ユウヤ……ごめんなユウヤ……』
 その泥から、声が聞こえる。
『俺のせいだ……ごめんな……つらかったろう、苦しかったろう……』
 あちこちに反響する声は泣いているようだった。
 どことなくユウヤ君に似た声。
 お兄さんだった。
『心配しなくていい、お前を1人にはしないよ。俺も一緒だ。地獄の底まで付き合うさ、
だから、一緒に、 死 の う』
 ――道連れの池。
 融解した呪いの体。捕らえられたら逃げられない。液体だから抵抗も効かない。
 これが、相沢トモヤの呪いだった。
「ユウヤ君……」
 呪いの泥が、つま先まで迫ってくる。
「大丈夫だ。離れちゃだめだよ」
 ユウヤ君の呪われた双眸は、まっすぐにその泥を見下ろしていた。
 周囲を泥が囲む。
 部屋が、黒く塗り潰されていく。足が埋まった。いやな感触だった。
『いま楽にしてやるからな……終わりにしてやるからな……』
 呪いが大気を埋め尽くし、床があったはずの沼の中へと、わたしたちが沈んでいく。
「う……ぁ!」
 沈んでいく。
 ずぶずぶと、沼の底へと引きずり込まれていく。
 足首に絡みついた泥。
 コンクリートで固められていくみたいだ。沈んだ箇所から動かなくなっていく。
 全身が飲まれたら終わりだろう。
 ユウヤ君を見上げる。
 彼の目には憎悪があった。憤怒が、確固たる自分の意志が渦巻いていた。
「アンタは……いつも自分勝手だ」
 怨嗟が空間を埋め尽くす。塗り潰されていた相沢トモヤの呪いを押しのけ、さらに上塗
りしていく。
 壊れるほどに情報を汲み上げ、この場に集った事象を貪り尽くす。
 知覚の呪いは自身の心臓にまで繋がれた。
 全域知覚の呪いが、全域知覚の呪い自身をも掌握して初めて、1つきりの突破口が排出
された。
「ユウヤ君……っ!」
 彼の胴に抱きついた。
 もう、わたしたちは腰まで浸かっている。
 ユウヤ君が、未来の演算をなぞるように、さらに呪いを走らせる。
 探し出す対象は本体。
 このどろどろに溶けた呪いの中から、隠蔽されている相沢トモヤの心臓を探し出す。
「!」
 ――目を見開く。
 ユウヤ君は真っ直ぐに、部屋のある1点を睨み付けていた。
 沼の隅に、身を潜めるように脈動している肉塊がある。泥のすべてが、そこから溢れ出
していた。
「そこだッ!」
 強く強く指さした。
 応えるように、無数の腕がそこかしこに生え、ひとつきりの獲物に襲いかかった。
 なま暖かい肉の袋が打ち上げられ、また別の腕に捕まれ、引きずり込まれ、暴れ回りな
がら追い立てられる。肉食魚の狩りを見ているようだった。
 必死に逃げようとする肉塊が、とうとう沼の中で捕まえられ、破裂させられる。
 一帯の空間が断末魔の痙攣に喘いだ。
「わっ!?」
 床に尻餅をつく。
 泥が揺らいで半透明に。物質の結合が解かれていくように、どんどん薄らいで、最期は
風のように消えていった。
「すまない……ユウヤ……」
 もとに戻った部屋の隅に、お兄さんが立っていた。
 口から血を吐く。
 みんなが、怯えたように後ずさった。
「まだ、お前を……生きて苦しませる……」
 膝をつく。
 崩れ落ちる前に、相沢トモヤはこの世から消え去っていた。
「フン――」
 静まりかえる部屋の真ん中で、ユウヤ君が鼻を鳴らす。
「大きなお世話だ、アンタなんてお呼びじゃない。これで2度と会うこともないね兄さん」
 皮肉そうに笑った横顔は、少しだけ淋しそうに見えた。




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