#吉岡雛子は怒らない-Bullet Girls II-

 家の中は真っ暗だった。すごくひんやりとした温度のない部屋。なんだか肌がピリピリするような、荒れ放題の家。その殺伐した感じが好きになれそうもない。
 硬い廊下に正座させられ説教される。フローリングが冷たい。延々と厳しい声で言われ続けていると頭が痛くなりそうだ。実際ちょっとくらくらしてきた。
 ――――すぐそばでずっと犬が吠えてるみたい。それも、すごく凶暴で手の付けられない犬が鉄檻を壊そうと暴れてる。
 あたしは呆然とおばさんを見上げる。本当にこのおばさんは怒ることを楽しんでいるんだろうか? ……確かに嘲笑われてるような感じもあるけど、やっぱりよく分からなかった。
 早く終わらないかな――そんなことを思い浮かべたら、目が、態度が気に入らないと叱られてしまった。
「…………ごめんなさい……」
「大体あんた! あの、もう一匹のガキねぇ――!」
 ――ぴくりと肩が震えるのを感じた。そのままいつものようにまくし立てるおばさん。聞いてない。
 あたしの胸の中で火が燃えた。友達を『もう一匹』なんて言われるのだけは許せない。
「………………優奈ちゃんのことは悪く言わないで」
 まっすぐに目を見て言ったら、ついに頬をぶたれた。すごい力だったからびっくりしてしまって、あたしは動けなくなった。
 その隙に髪を掴まれて居間に引きずり込まれる。痛い、痛い。おばさんの金切り声は日本語になっていない。
 あたしは畳に放り出され、おばさんは引き出しをひっくり返すように漁る。頬が熱い。あたし、殴られた――?
「………………え……?」
 呆然と顔を上げると、おばさんはハサミを振り上げていた。山姥みたいな顔してた。何だろうこれ。どうなってるんだろう。
 ――――やばい。
「うあああッ!?」
 たまらずおばさんを突き飛ばすと、あっさり尻餅をついて転んだ。何いまの。確かに思い切り突き飛ばしたけどなんだか異様に軽かった。意味不明。あたしの手のひらで踊るこの黒色のモヤは何? どうしておばさんはまるで感触がないの?
『お  ま  え ……』
 ゾンビのように立ち上がるおばさんの顔が、ぐちゃぐちゃに鉛筆を走らせたような落書きになる、ボールペンになる、骸骨になって元に戻る。その全身から滲み出して大気を侵食する黒いシミ。
 ああ――――――――幽霊だ。
「う、あ…………ああああああああああっっ!?」
 あたしは逃げた。逃げた逃げた逃げた。つるつると滑る廊下を必死で駆け、キッチンに逃げ込んだ。
 おばさんはハサミを振り上げて追ってくる。おばさんがキッチンに飛び込んできた瞬間、壁に身を隠していたあたしはその脇をすり抜け廊下を逆走する逃げる。
 この家は暗い。暗い冷たい温度がない、ホコリが積もってて廃墟、ああ――電気も水道もとっくの昔に止まっていたんだ。蜘蛛の巣を振り払いながらようやく気づいたんだ。
 玄関。開かない。鍵がかかってるの? ガチャガチャとどうやってもどこをいじっても開かない。
 そうこうしている内に背後に気配を感じて、あたしは必死で頭を抱えしゃがみこんだ。途端に頭上をハサミが薙いでいって玄関のガラスに突き立つ。悲鳴を上げて逃げた。
 結局転がり込んだのは最初の居間。窓が開かない。呪われてるみたいにビクともしない。鍵は開いてるっていうのに張り付いたみたいにあたしを密閉する。
 どうすればいい? どうすればいい? 一瞬羽兄の顔が浮かんだ気がして、あたしはちゃぶ台の脚を引っ掴んでぶん投げた。窓ガラスに叩きつける。なのに、どうして、なんでプラスチックみたいに傷一つ入らないの――!?
『 みぃ つ け た 』
 後ろから髪を引っ張られ、首を掴まれて引きずり倒される。悲鳴をあげたら頬を口を掴まれて塞がれた。手を伸ばしてもあたしの腕じゃおばさんに届かない。暗い。この家は泣きたくなるくらいに薄暗い。
 振り上げられるハサミだけが、光を反射して煌めいていて――まるで意思を持った怪物みたいだと思った。
 おばさんはその時、確かにあたしを見ていい気味だと笑っていた。躾のなっていない子猫が調子にのるな、黙って怒鳴られていろと言われた。
 いままでずっと隠してたんだ。
 ずっとずっと怯えるあたしを見下して“楽しんで”たんだ。
 ああ――――その、おぞましい、愉悦に浸りきった満面のエガオ…………。

 …………最後の一瞬、ふすまが飛んでくる。

「え――?」
 居間の入口、戸を蹴り飛ばして舞い降りた。鴉の黒羽を幻視する。殺人現場に現れた乱入者は、邪の笑を浮かべた、黒セーラー服の魔女だった。
 何なのとおかしな声で叫ぶ怨霊に、先生は蔑んだ目で回答した。
「何って、ただの正義の強盗殺人犯だが? よくある話じゃないか、ああそうがなるなよ」
 鞘に収めたままの刀を腰だめに、先生は姿勢を低くした。
「さぁ――――楽しい楽しい説教の時間だ。ああいいね、他人を踏みつけるというのはこんなにも心地良い」
 その眼光は狩猟者。激情のあまり人としての形さえ崩壊しかかったおばさんの絶叫、呼応するこの家の大気すべて、あたしは脳がかき回されるような不快の津波を感じた。
 襲いかかる怨霊、けれど結末はあっけない。可憐でかすかな鍔鳴りひとつきり。
 ――――斬。
「……まったくどいつもこいつも、これでいて自分が勝てる相手にしか怒れないときてやがるからたちが悪い」
 亡霊は、千々にちぎれて引き裂かれていく。呪わしい悲鳴を遺して無惨な姿になっていき、そして消えた。ブラックホールに飲まれるように。二度と戻ることはない。
「知ってるか。相手は自分より格上か格下か、こっそり確認してから怒鳴るんだぜ? まったく本当、人間ってのは醜悪だよな」
 怪奇空間の中、そう言って先生はあたしを見下ろした。殺しを終えた直後の凄惨な目だった。先生の複雑な捨て台詞の意味はあたしにはよく分からなかった。



 アドレナリンがどうとか、NK細胞がなんだとか、難しいことはあたしにゃよく分からない。けどなんか、怒ることは体に悪いんだってさ。
 あれ以来、あの家は無人の廃墟となった。
 みんな当然の結果だといい、優奈ちゃんは怒り心頭だった。
「冗談じゃない! 許せない! あの山姥め、ぜったい許さないんだから――ッ!」
「はい、よしよし。」
 がるるるる。アユ姉の腕に抱かれてよしよしされていた。香澄ちゃんもよしよししていた。
 あたしはいまもおばさんの家の前を通りがかる度にフクザツな気分になる。そこに3本だけ別々の花が添えられている。真新しい缶コーヒーの空き缶を投げ捨てたインシツさんには困ったものだけど、当人は
「――おい、自分の命を危機に晒されて怒らないなんてダメだろお前」
 ……とのことらしい。羽兄も意外に過去に拘るんだね。
 あたしにとっては過ぎたこと。もうどうだっていいのだ。そんなことより今日の野球と遊びに忙しいのだ。子供は暇なようでいて、案外多忙なものなのです。
「オーライ、オーライ!」
 けれど時折考えてしまったりするのだ。
 おばさんが言っていた「お前のことを思って怒るんだ」っていうのは本当だろうか。またもや分からんち。でもやっぱ、あたしは怒るっていう手段は好きになれないと思った。
 気が滅入るのは嫌いだ。怒られることが疲れるのは知っている。怒ったことを後悔して気がめいることもあると思う。
 ――――怒ることは気持ちいい?
 あたしには分からないし、そんな気持ちは分かりたいとも思いません。
 分からんづくめなあたしだけれど、やっぱり、みんな仲良く笑顔がよいと思うのです。まる
 追伸、あたしは変わらず元気でやっています。
「……ま。よく頑張ったな」
 打順を待っている時、ぽつりと羽兄が言った。試合進行中のマウンドを見る横顔を見上げて、あたしはなんだかぼぅっと考えこんでしまった。
「ん? どしたい」
「…………」
 いえいえ。やっぱり、人に褒められるのは嬉しいなって思っただけなのです。
 怒られるのは嫌いだけど褒められるのは好き――ゲンキンかも知れないけれど、みんな同じだと思う。
 安心するよね。




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