#吉岡雛子は怒らない-Bullet Girls II-

「待ちな」
 次の日から、おばさんは毎日家の前に立っていた。
「…………え」
「あんただよ。分かってんだろ」
 いないのを確認して通り過ぎたはずなのに、また呼び止められてしまったのだ。門のところを見る。
「…………」
 枯れた植木鉢、乾いた土。確かにあの木製の門の内側になら隠れられるのかも知れない。
 そうまでして――なんで。
「聞いてるのかい!? あんたねぇ――!」
 そうしてまた説教が始まる。何が気に入らないのか、おばさんはあたしのつま先からてっぺんまで全部を否定した。
「大体アンタ、小学生のくせにその金髪は何!?」
「……っ」
 金髪のことは、昔からよく言われてた。お母さんと一緒の髪色。まわりに何を言われたって気にして来なかったあたしだけど、ここでこのおばさんに言われるのはなんだかお母さんを否定されてるみたいで悔しかった。
「…………ごめんなさい……」
 私が謝るたび、おばさんは声を荒らげた。黙っていても怒鳴った。反省しても、何をしてもこのおばさんは気に入らないようだった。
 ――――あたしが、悪いのだろうか……?
 見上げると山のように大きく思えた。おばさんの言うことは難しくて、馬鹿なあたしにはよく分からなかった。



 次の日もその次の日もおばさんは家の前で待っていた。


 その日は恒例の野球の日。青空の河原で、あたしは元気よくマウンドに立った。
「よっし、いっくよー!」
 おおきく振りかぶって、投げっ。あ。
「い――きゃああっ!?」
「あっ!」
 バットを握っていた優奈ちゃんがぺたりと尻餅をつく。あたしは頭が真っ白になった。危うく優奈ちゃんの頭にデッドボールするところだったのだ。
「ひっ……雛子ちゃーん」
「ご、ごごごめんっ! 本当ごめん! 手が、指が発汗のあまりおすべりいたして……!」
「もうっ……はい、次々!」
 気を取り直してゲーム再開――けど後ろからフードを引っ張られて呼ばれた。振り返ると、香澄ちゃんが眠そうな目であたしを見ていた。
 ぜんぶを見透かすような、透明な目で。
「なに? 香澄ちゃん……」
「………………。ううん、なんでもない……」
 ぱたぱたと香澄ちゃんがセカンドに戻っていく。その背中を見送ってあたしはほっと胸を撫で下ろした。
 ――心配させる必要なんてない。おばさんだってそのうちやめるはずだ。
「いっくよぉお――!」
 どんなに辛いことがあったって、あたしは前向きにやっていこう。



 また目の前でおばさんが怒鳴り散らしている。不意に、このおばさんは誰なんだろうと考えた。
 誰でもない、見ず知らずの赤の他人だ。どうして赤の他人にこんな風に叱られ続けなくちゃいけないんだろう?
「はぁ!? そりゃアンタがどうしようもないガキだからでしょうがッ!」
 ――ごめんなさい。顔に出てしまってたんだろうか。どうしてかこのおばさん、異様なくらいに目ざとかった。
 おばさんの背後は塀。今日は玄関の前を通らないようにしたのに、勘付かれて余計にこっぴどく叱られてしまった。コソコソと逃げまわるような真似すんじゃないよ、この卑怯者、だって。
 あたし、卑怯者なんだろうか――?
 毎日怒鳴られてるとだんだんわからなくなってくる。
「…………雛子ちゃん、どうかした?」
「へ?」
 河原にぼぅっと座り込んでいたら、優奈ちゃんに声をかけられた。みんなと一緒に先に帰ったと思ってたのに。
「最近調子悪そうだね。何か悩んでるの?」
「あ――そんな、なんでもないよ。ないない」
「うそ」
「いいの気にしないで。さ、帰ろう?」
「けど……!」
 優奈ちゃんの腕を引っ張って、赤い夕焼けの中をずんずん歩いて行く。もう足取りは軽い。優奈ちゃんの手を引いているだけであたしは元気だ。
 心配そうな顔を見ているだけで、まだまだ頑張れるような気がしてくるんだ。
「――ありがとう。優奈ちゃんのお陰で、まだまだ大丈夫だよ」
「………っ!」
 確かにあたしは、ちょっと卑怯者かも知れない。



 でもそんなのは、長くは続かなかったんだ。
「え…………?」
 あたしが隠し事ヘタだから? ううん、きっと、相手が身近な優奈ちゃんだからだ。
 あたしがいつものようにおばさんに説教されていたところへ、優奈ちゃんが出くわしてしまった。
「雛子ちゃん……何、してるの……?」
 優奈ちゃんは、魂を抜かれたような顔しておばさんを見上げる。
 ――――見られた。
「……っ!」
 優奈ちゃんに乱暴に手を取られ、引っ張られた。そのままおばさんを無視して歩き出す。
「ちょ……待ちな! まだ話は終ってないよ!」
「……るさい…………」
「はぁあッ!? いまなんつったんだいこのクソガキは! 顔上げな、この――ッ!!」
 掴み合いになって、優奈ちゃんがおばさんを睨み返した。あたしが見たこともないような顔をして、耳に残る大きな声で叫んだんだ。

 うるさい!

 そう言っておばさんの手を振り払い、前だけを見て歩き続ける。あたしはどうすればいいのか分からなくなった。あの優奈ちゃんが怒ってる? あんな風に叫ぶところなんて見たことなかった。
 優奈ちゃんは、こんなに強い子だったろうか――?
「…………ごめん、優奈ちゃん……」
 違った。強いわけじゃない。優奈ちゃんはとってもか弱いけど、それ以上に頑固な所があったんだ。
「許せない――――許せない………!」
 そう言って、優奈ちゃんは静かに泣いたんだ。あたしのために怒って、泣いてくれていたんだ。
「………………大人に相談しよう」
 お屋敷に戻って、優奈ちゃんから話を聞いた香澄ちゃんがそう言った。香澄ちゃんはいつだって正しい。



 いつも通り謎双子がわーひゃー騒いでる境内で、我らが羽兄は親指立てて白い歯を光らせた。
「ブッ■そうぜ!」
 きらりーん。そんなサワヤカお兄さんをハイハイと押しのけて、赤髪のアユ姉があたしの頭を撫でてくれた。
「つらいね、雛子ちゃん。もっと早くに相談してくれればよかったのに」
「でも……」
「うん、雛子ちゃんなりに頑張ってたんだよね。分かるよ、みんなに迷惑掛けたくなかったんだよね?」
「………………うん」
 そして、出来ることなら問題にもしたくなかった。
「ほうっとけばそのうち、終わると思って……」
「――甘い。甘いわお嬢さんっ、ダメよ。そんなお優しい感じじゃー鬼ばかりの世間を渡ってはゆけない……」
 演技がかった儚い感じで、巫女服の雪音さんがハラハラと手のひらから紙吹雪を舞わせる。退屈のあまり開発してしまった創作手品らしい。
 よし、と拳打って去って行こうとする。
「うふふふふふふふ……2万倍にして言い返してきてやるわ。ああ大丈夫ご心配なく、これでも、こと口喧嘩に関してなら、縁条市有数の会話不可能と言われた父を鼻歌でねじ伏せてウン年ぶりに神社中雑巾がけさせたりとか、ついでにお隣さんちも大掃除させたり、戦わずして敵を倒したりとか、そこのクソ魔女に辛勝したりとか色々。口喧嘩レベルで言うとざっとLV100くらい?」
「はん――お前は自分が退屈なだけだろう、クソ巫女」
「うるさいわよクソ魔女、だったら何? 退屈じゃいけない? この有り余るモチベーションもといフラストレーションを、その迷惑なババア倒すのに使ってどこがいけないと言うの?」
「それじゃ根底の部分で同類だろうと言ってるんだが」
「どこがッ!? 私ジャスティス! 縁条市異常現象狩りのミス総括サマよっ!?」
 ぐるるるる、がるるるるる、どうどう。そんな楽しいみんなを遮る。
「――――いいよ」
「「「え?」」
 みんなの目があたしに向けられて、優奈ちゃんはどこか責めるようでさえあった。
「……いいよ、ありがとう。でもあたし大丈夫だから。うん、平気。」
「でも雛子ちゃん、こんなの放っておけないよ!」
「きっとあのおばさんも淋しいんだよ。あの家、おばさん以外見たことないし。こんな風にしか誰かと関われないんだと思う」
 それは、とっても悲しい事で――だけどSOSみたいなものじゃないか。
 いつかあのおばさんだって分かってくれるかも知れないし。そう、話せば分からないことはないと思うのだ。
 ……けど、先生は違ったらしい。
「残念。そいつは違うのさ」
 意味は、よく分からなかったけど。先生は超然と黒髪をかき上げる。雪音さんも疑わしそうだ。
「………………違う? 話しても分からない相手ってこと? それは私も同感だけど、アンタ、妙に知ったふうね。何か心当たりでもあるわけ?」
「ああ、よくある話さ。答えは簡単、そいつは単に、怒ることが気持ちいいんだよ」
 いよいよ、わけがわからない。でも羽兄が感心したように手を叩くのを見た。
 先生は愚か者に諭すように続ける。
「怒るってのは感情の発散だからな。そのババアはお前を正しく導いてやろうなんて微塵も思ってはいないさ。単に怒りたいから怒り、怒鳴りたいから怒鳴り、そして本当はお前が弱る様を見て“楽しんで”いるんだよ」
 そうなんだろうか。思い返してもおばさんは全然楽しそうじゃない。あたしには、先生の考えはよく分からない。
「お前も嫌なものに憑かれたな」
「え……?」
 ニヒルに笑って去っていく。何故だかゾクリと背筋が震えた気がした。



 特に解決策が出ないまま、その場はいったん解散となった。でもきっとすぐ雪音さんは動き出すのだろう。これで本当によかったんだろうか。あたしにはよく分からない。
 あたしは、バカだから――。
 あたしがバカなせいでみんなに迷惑を掛ける。いたたまれない。本当、何が正しくて何が間違ってるんだろう……?
 公園のベンチで足をぶらぶらさせながら考える。背後は噴水。
「怒ることが……気持ち、いい?」
 水しぶきが舞い、あたしの頬に霧が触れるのを感じた。
 ――分からない。どうして人にいやがらせするのが楽しいのだろう。本当に先生の言ってることは合ってるんだろか。あの先生と来たらいつでも黒くて、でも、あれはあれであたしの味方として考えてくれた結論なんだよ、ね――……。
「……うー……」
 膝を抱えて小さくなる。わかんない。こどものあたまではわっかりません。
 だんだん苦しくなってきて、あたしは考える事を諦めた。リストラリーマンのように放心することにしたのだ。目の前を見知らぬ人が駆けていくけど、あたしには関係ない。誰も、こんな時間から公園でだらだらしてるあたしをせめたりはしないのだ。
 ぼぅっと見上げた秋の空、うろこ雲がもうじき赤に染められる時間帯。
「………………」
 昔、ここで優しいお兄さんとお姉さんに声をかけられた。2人にとってはそれがどの程度の出来事だったのかは分からないけど、あたしにとっては人生がひっくり返っちゃうくらい大きな出会いだった。ずっとあたしを締め付けていた苦痛が初めて和らいだ瞬間だったのだ。――それまでは、その痛みが和らぐものだなんてまったく知りもしなかった。
 クラスで孤立するようになってしまってたあたし――どこか気遣うようなみんなの視線。いっそイジメだったならあたしだって正面きってぶつかっていけるのに、みんなの優しさが残酷だった。……もちろん、優しいほうがいいはずだけれど。
「………………ああ」
 とっても、とっても辛いことがあったんだ。それを乗り越えてあたしは優奈ちゃんと、香澄ちゃんと3人で立っているんだ。
 3人でいると毎日が楽しい。長いようで短い思い出の花束。
 世の中は楽しいことばかりじゃないし、いい人ばかりでもない。そんなことは分かっていたけど。だけど。
「……っ、」
 あの、おばさんの大きなシルエット。
 ――――――逃げ出したい……。
 らしくもない、あたしは顔を膝に埋めて泣きそうになってしまった。耳にこびりつくような声。辛いよ優奈ちゃん、苦しいよ香澄ちゃん……。
「…………へへェ、こんな所にいたのかい」
 ぴた、とあたしは凍りついた。何だろういまの声。何が起きたっていうんだろう。
 こんな場所に、いるはず、ないのにな――。
「探したよコムスメ。ひひ……まったく、どこへ逃げようっていうんだい」
 目の前に、またおばさんが立っていた。大きな影。手が伸びてきて、逃げようとしたって背もたれ。
「立ちな! この躾のなっていない子猫め!」
「いつ……ッ!」
 あたしは乱暴に腕を引かれて立たされた。アザを残そうとしてるんじゃないかってくらいにギリギリギリギリ。振り払おうとしたってビクともしない。
「まったく最近のガキは……こっちはお前を教育してやろうってのになんだい! ありがたく聞くのが礼儀ってもんだろうに! さっきのもう一匹はどこ行ったんだい、えぇ!?」
「な、なんで……」
 どうして、おばさんが公園に?
「はぁ!? 決まってんだろう、おまえがあんまりにも馬鹿なガキだから、一度きつく言ってやらないと気が済まないのさ! 覚悟おし! 今日という今日はその甘ったれた根性みっちり叩き直してやるからねぇ!」
「――――――」
 ――何だろう、それ。意味わかんない。あたしが何したっていうんだろう。
「大体あんた、学校はどうしたんだい!? こんな時間から公園ほっつき歩いて、恥ずかしくないのかい!?」
 耳に突き刺さる声、あたしを引っ張る腕。どれよりも、その言葉は一番痛かった。
「学校は……行けないよ…………」
「はぁ!? 何寝ぼけたこと言ってんだい!」
 あたしの席は空席。誰が座ることも、片付けることもない席なんだ。
 金切り声を上げたおばさんに腕を引かれる。拒否しても一切聞き入れられず、あたしはただ罵声を浴びながら歩かされた。すごい力。痛い。
「いや…………はなし、て……!」
 胸の内がまっくろに染まって、震える。あたし知ってる。子供は大人の力には決して逆らえないんだ……。
 抵抗してる間にもう、おばさんの家の前だった。とそこで――
「ゆ、優奈ちゃん!?」
「!」
 偶然か必然か、そこで所在なさげにしていた優奈ちゃんとばったり出くわしてしまったのだ。
「雛子ちゃ、ん……」
 きっと様子を見に来たんだ。あたしがまた家の前で怒鳴られてるんじゃないかって見に来たんだ。
 腕を捕まれ引っ張られているあたしを見て、優奈ちゃんが激昂する。
「はなして! 何してるの!? 雛子ちゃんは嫌がって、」
「うるさいッ!」
「ひあっ!?」
「優奈ちゃん!」
 掴みかかった非力な優奈ちゃんが、突き飛ばされて手をついてしまう。アスファルトに転んで呆然としてる。
「ったくどいつもこいつも、一発ぶん殴ってやらないと分からないのかい、えぇ!?」
 ずんずんと立ちはだかって手を振り上げるおばさん。ぶつ気だ。その時――
「――――――、」
 胸元で黒い石が光り、優奈ちゃんの顔が憤怒で染まるのを見た気がした。
「待って! やめて、優奈ちゃんは巻き込まないでッ!」
 あたしはおばさんの腕に掴みかかって押さえ込む。
「何すんだい、はなしなこのガキっ!」
「なっ……雛子ちゃん!?」
 優奈ちゃんの前に立ち、あたしが盾になる。優奈ちゃんは元に戻った。一瞬感じた恐ろしい気配は消えてる。
「話は、あたし一人で聞くからッ!」
 声が、大きく響いた気がした。
 優奈ちゃんを傷つけないでほしい。優奈ちゃんに傷つけさせないでほしい。優奈ちゃんは可憐で、弱くて頑固で不安定なのだ。
「…………ほう?」
 おばさんはニヤリと、蜘蛛のようにあたしを見下ろした。
「友達を庇うのかい? ……いいだろ、中に入んな。説教は一人だけで勘弁してやる」
「…………」
 口を開けた玄関、その向こうには得体のしれない闇。おばさんは影のように笑ってる。
 これで、いい。
「そんな……雛子ちゃん……っ!」
「大丈夫。なんでもないよ、こんなの――」
 泣きそうな顔した優奈ちゃんに、あたしは笑った。優奈ちゃんはやっぱり親友だ。こんな時でも駆けつけてくれた。あたしを一人にしないでくれた。なら、もう、大丈夫。
「――――――――巻き込んでごめんね。ありがとう――」
「だめ、雛子ちゃ――!」
 それきり、戸はピシャリと閉ざされてしまった。