斬「毒花」編

5




「こーんにーちわー」
 西日が照らし付ける二階の畳を踏みしめ、般若面を顔の横に貼り付けた少女が笑っていた。心底楽しそうに笑っていた。
 女物だが、ゲーム機やらPCやらが散らかっていていやに雑多な部屋。ほんの少しカーテンが剥がれて夕日が差し込んでいる以外は閉め切っていた。既に、般若の手にあるナイフは血に染まっていて、そばにべったりと張り付いた血のりと主婦の頭部。顔は伺えない。
「さっ、てー」
 黒ニーソックスの脚が陽気に振り返る。その足元に、縛り付けられて悶える女性がいた。二十歳に届くか届かないか。ともかく、夕暮れにもかかわらず寝間着で、伸ばしっぱなしの髪といいどこかおかしな感じがした。いまは恐怖に目を剥いて般若を見上げているが、猿轡されているため言葉にはならない。
 それを、崖の下を見下ろすように詰る。
「おーおー、怯えちゃってますねー。いやーおうちの前を通りがかった時にピタリとそこの窓から目が合っちゃったのが運の尽きでしたねーねーお姉さん。噂を聞いてしまいましたよ?」
 俺の落葉はどこへやったのか、血の付いたナイフの表面を観察しながら般若は回想する。
「――なんでも、高校受験で美大に落ちて、なし崩し的に経済学部へ入学。画家になるんだと言って聞かない頑固ちゃんだったけれど、大学生活を過ごすうちに次第に自分がいかに才能なしであるか気付き始め、その自分勝手な性格からいつも孤立していることを実感し始め、ついには周囲とうまく行かなくなってイジメ、サークル追い出し、引きこもり二年目と」
 無邪気で無垢な瞳が、絶望の度合いを深める女を見下ろす。愛らしく微笑んで冷徹に観察してる。きっとその心理の裏まで見透かそうとしているのだろう。
「お母さんには偉そうなんですってね。外を歩く時はびくびく怯えて、早足で、お隣さんにもご挨拶できないほどのアレなくせに、お父さんのことは害虫呼ばわり。自分は引きこもって、ご飯食べてゲームしてネットして寝て。絵の練習なんて一週間に何分やっていることやら。昨日は夜遅くまで電気点いてましたけど?」
 膝を曲げて犬にそうするように視線の高さを合わせる。どうやって調べたのか、そんなの考えるまでもない。
「――あ、れ。」
 ナイフが、一方向を指差す。棚の上。部屋の隅。天井の仕切りに隠れるようにして、小さく、虫に食われたような穴が開いていた。
 直径一センチ以下。そんな、小さな空洞の向こうに。
「――――CCDカメラって、知ってます?」
 死神の小さな使いが、ずっと息を潜めていたのだ。
 話は終わりだとばかりに般若が女性の襟首を掴んで引きずり倒す。いよいよ縛られた女性が絶叫する。猿轡の中で、断末魔みたいな声を上げて悶える。何の意味もない。
「知ってます? いま、日本にはあなたのようなヒキナントカさんが、自殺者たちの約百倍ほどいて、その何倍もの人たちの人生に寄生して頭を悩ませているんですよ。罪の意識はないんですか? 普段はインターネットで偉そうなこと言ってるくせに、社会を腐敗させてる大きな要因であるあなたがたは。あれですか、ダメ親父・政治熱心に目覚めるみたいなノリだったり?」
 淡々と世間話のように語りながら、手だけはサクサクと作業を進めていく。当たり前のように人間を解体していく。髪を千切り耳をそぎ落とし顔の肉を鉛筆削りのように削り、頬に切れ込みを入れて口を作っては指を突っ込んでかき回す。女性は白目をむいてゴキブリみたいにのたうっていた。
「ふふっ、そーれ喉の奥ひっかいちゃいますよーそーれそれ。ガリガリ血が出るほどやられるとキッツいですよねーねー。えへへ。えへへへへへっ」
 歯は既に、ナイフの柄で叩き折られていた。
「まぁ、これも社会福祉《ボランティア》の一環っていうかー。ぶっちゃけあなた達死ぬべきですよ。社会の浄化に貢献すべきですよ。みんな自殺しましょう。ってなわけでぇー、こうして私のような奴の餌食になるとかもう最高。お母さん泣いて喜びますよー、あれ、さっき死んじゃいました? あれ? れ?」
 母親の顔は、娘が血だらけになって解体されていく様子をずっと不動の泣き顔で見ていた。
「分からないんですよねー。なぁんであなたみたいなの庇うんでしょう。いや、私もあなたは美人さんだと思うし、正直一目惚れみたいなものでしたよ? こうして殺せるのなんてもう結ばれたも同然っていうか、ああっ、嬉しすぎて涙出そう!
 でもねぇ、お母さん、娘にだけは手を出さないで、っていうんです。いやいや娘さんお邪魔でしょうって言ったらもっかい娘にだけは手を出さないでって言うんです。じゃああなた代わりに殺されてくれるんですかっつったらもっかい娘にだけは手を出さないで、っていうんです。うるさいし仕方ないからサクッと殺しちゃいましたー、いやごめんなさい。始めから目撃者は殺す気でしたごめんなさい、ちょっと試してみただけなんです。私、前々からこの引きこもりっていう社会問題の解決法とかけっこう真剣に考えてたんで。」
 作業は左腕切断に入っていた。肘関節を折り、反対側に曲げ、もう一度反対側に曲げる。あとは関節部分をバッサリ切断。しばらくノコギリのようにナイフを前後させていたが、手馴れすぎていて、まるでチキンでも千切ってるみたいだった。
「そうそう、誕生日おめでとうございます。――あ、社会問題の解決方法はぁ、引きこもりとニートとワーキングプアを、ぜんぶ殺したがりの私たちにプレゼントしちゃうってのでどうでしょう。あらゆる問題ぜんぶ解決した上に、私らがついに合法で人殺せるなんてもう最高。だめ? やぱ、あの党じゃダメですかねぇー」
 殺戮とムダ話は続いた。ぐちゃぐちゃの肉片になるまで続けられた。もう片付けを考えたブルーシートさえない、般若はいよいよ後先を考えなくなっているらしい。
 だとすれば、捕食に選ばれてしまった女性は哀れとしか言いようがない。左腕は切断されたあとすぐにバーナーで焼かれて止血された。もう一度炭化した断面を切り落とされて再度バーナーで焼かれ、その反応で遊んでいた。悪臭が部屋に充満した。
「つぎは、おまえのばんだ」
 全身からツタを生やした肉片を踏みつけ、般若が俺にナイフを向ける。
 いよいよこのゲームも終りが近いんだろう。俺もそろそろ、少しの違和感を感じつつあった。
 ――――なぁ、おまえ落葉はどこへやった?



「う……」
 重い体を起こし、俺は血だらけの悪夢から帰還する。パシリと放電。かなり意識を逸らして直視しないよう努力したのだが、なにぶん脳内に直接流される映像だ。いまいち意味は薄いのかも知れない。
 変わらず、目の前にはルーレット台があって、俺のコイン投入を催促していた。
「ぬぅぅう……ったぁく、邪魔クセェのぅ」
 ジジイも犬のように頭振って帰還する。コインカップを倒してしまったらしく散乱していた。よく持ち去られなかったなと感心したが客が一人もいない。ま、そういうこともあるんだろう。
「……はぁ。本当、何がしたいんだか……」
「さて、な。うまい食い物屋を見っけたら、連れに教えたくなるの心理か」
 街に立ち並ぶ人間の住処は家畜小屋じゃねぇ。捕縛から屠殺に証拠隠滅までセルフサービスで、本当、異常者ってのは人間じゃない。
「いいのかじーさん。アンタの娘、なりふり構わない感じだぞ」
「誰が娘か。せいぜいがイトコかハトコ程度のもんじゃぞぇ、勘違いしてくれるなよ少年。儂ゃアレとは合わん。異常者同士ってのは全然方向が違うけんの」
「そうかい……どうでもいいけどな」
 また長話される前に切り捨てておく。と、ケータイにメールが入っていた。
「――――本当、お盛んってレベルじゃねぇな」
「あん? 早坂からの文書か」
 雪音さんではなく、先生からだったが。こっちは昼ごろ殺された死体の情報だった。
「また東京で、今度は烏の面つき死体だとさ。これとさっきの映像とで一日三件、昨日も含めれば連続四件だ。おい、こいつは緩慢な自殺なんじゃないのか。」
 そろそろ、なんか隠してるんなら白状してもらいたいもんだ。こんなの死にたがってるも同然だ。
「………………狂宴じゃな。」
「だな。酒池肉林って感じ? あるいは自暴自棄なのか」
「一体何を訴えようってんだか――儂ゃ、もう関わり合いになる気なんぞなかったんだがな」
「関わり合い、ねぇ。やっぱ戻って来て欲しいんじゃねぇの」
「そりゃねぇぞ。笑顔で送り出されたからの。」
「何?」
「『まぁ、それなりにお元気で――』と挨拶もされた。何が悪かったんじゃ? ある日突然襲ってきたかと思ったら、首にこんなもん残して行きよって――」
 首筋は既に、痛みが引かないようになっていた。話が終わったら一度神社へ顔を出そう。
「少年、ひとつ白状しよう。少し前まで、儂にとって殺しと酒は同列のもんじゃった」
 鬼の体が一回り大きく圧倒的になったような錯覚がした。ああそうだろう。やっぱりこのじーさんからは血の匂いがする。それも濃い、あんまりにも濃すぎる死の気配だ。だが。
「だがな、飽きちまったのよ。ふっと目が覚めちまった。もう一人になりたかったんじゃぇ。共に悪行三昧重ねた連中とは手を切り、怠惰に酒かっくらって美味いもん食って惰眠を貪りたかった……」
 覇気がない。このじーさんは、どこか何かが欠けているような感じがする。
 確かに悪だ――だが、それほどまでに凶暴だろうか。特有の粘り強さみたいなものを一切感じない。
「しかし鴉か。勿体ねぇな、奴はいい剣士じゃっ――」
 まるで、そう……魂が欠けてしまったかのような。
「………………おい少年、先の死体、東京っつったかぇ?」
「んぁ? ああ、それがどうしたよ」
「――――――」
 がたり、と椅子を転ばせて立ち上がる。耳を澄ますように直立不動。
「……? おい、どしたじーさん?」
「…………赤いのは。見張りは――護衛は、武装はどうした少年ッ!」
「は、はぁ?」
 理不尽に一喝された。わけがわからない。何の説明もないままに、襟首掴み上げられる。
「仕方ねぇなこのクッソガキャ、何のために狩人なんぞの厄介に――あぁ、もういい! 儂のを貸してやる! 高ぇんだぞこの短と――」
「おい、待てって! 話が見えねーよ!」
 懐に手を突っ込んだ大男が、仮面の下でギロリと俺を睨み据えた気がした。それだけで凶器になりそうなほどの鋭利な殺意だった。
 いやに静かなゲーセン内で、鬼はしわがれた声を発する。
「……………………少年。般若は、東京へ行ったか?」
「あ、ああ。そうだ。昨日の夜に、夜行バスで、東京へ逃亡してすぐさま殺しを――」
「………………何故だ? どうしてそんなことを知っている?」
「いや、だって。目撃証言もあるし、あいつの格好目立つし、なにより植物生えて死んだ死体が発見され――」
「たわけ。お主、自分の首に付いとるモンを忘れよったか」
「は――?」
 毒花の呪いは。
 徐々に、なぶり殺すように時間をかけて、じっくりと成長し続けている。
「……何度でも言おう。般若はかつて、儂の右腕で、組織の中でも腕利きじゃった。特に殺しにかけてはプロ。殺し方、用意、手間暇かけた事後処理と一切の落ち度がない」
「おい、一体何が言いたいってんだ? 般若なら、さっきも元気に一人血祭りに上げて」
「先ほど、お主はどんな殺害映像を見せられた? 儂ゃ自殺樹海で出会った自殺者をわざわざ苦しめて死の重みを思い起こさせて殺すっていう、ありゃ恐らく先月の思い出フィルムじゃった」
 先、月の――? あれ? 何かがおかしいんじゃないか?
「目立つ格好じゃと? 笑わせんなよ少年、そんなもん目撃して記憶してくれっつってるようなもんだろうがよ。じゃあそういうことなんじゃよ、夜行バスだかなんだか知らないが、大方乗車する直前にわざと人目を引く行動でもして敢えて目撃されたんだろう、周囲に東京へ行ったと知らしめるためにな。
 あとの行動は単純明快、すぐさま近くの停留所で下りて引き返し、どこぞの民家襲ってアジトにし、息を潜めてやり過ごす。強盗殺人なぞお手のもんじゃ、殺しの用意なぞなんぼでも出来るし、単独で走らせりゃありゃもう隠密みてぇなもんだ。誰にも足取りなぞ掴めん。そうしてカーテン閉めきって、儂らに過去の殺人映像送りつけながら、東京ではいよいよ食い破られた鴉たちの死体が上がる。仮面を持ち歩かねば殺すとでも命じとけば嫌でも従うだろうよ。晴れて、まるで般若が東京へ行ったかのような偽装工作の完成じゃ。
 なぁどう思う少年、そのような手の込んだ偽装を施して、一体般若は東京ではなくどこへ消えたんだろうな? 例えば――そう例えばじゃぞ? とあるゲーセンの入り口に『清掃中』あるいは『臨時休業』っつー看板立てといて、元から少ねぇ店員ぶっ殺して占拠しちまえばゲーセン内は一時的に無人になるんじゃねぇか? ――ああクソ血生臭ぇなオイ、どうよ少年、見ろ、般若なら――――――――――――あこに立ってるじゃねぇか。」
 じーさんが刀を抜いて睨み据えた先。プリクラのけばけばしいカーテンの中に、ダレカが物言わぬ人形のように直立していた。
「な……っ」
 そこに、確かに、いる。不気味にカーテンの下の半身だけが見えている。ゲーム機たちの音が虚しく不気味に響くなか、
「ふ…………ふ、ふふ………………あははははは」
 枯れた声で笑う笑う笑う。しわがれた魔女の声のよう。ひとしきり楽しそうに笑ったあと。
 カーテンをくぐって、般若面の横顔が姿を表した。
「ふふっ……………やっぱり、分かっちゃいますか、鬼蜻蜒さん。」
「応よ。土台、儂の見立てはハナからひとつじゃった――」
「ひとつ――ですか?」
「ああひとつだ。」
 金長髪を纏め上げていた黒いニット帽が剥がされる。昨夜とは打って変わってごく普通に街に溶け込めそうな服装、俺の短刀を回してその人形のような唇が不思議そうにしている。
 ガラスのような目は、刀を構えた鬼と、呆然と首筋を押さえる俺を映している。
「――――――おめぇはよ、こっちから探さずとも自ら手を下しに来る。必ず、自分の手で儂にトドメを刺しに来る。じゃからこっちは日が暮れるまでスロットでも回して、豪勢に護衛どもつけて待ちに徹すりゃそれでよかったのよ」
 ――もっとも、肝心の狩人共はまるで使えんかったがな。元・悪の総帥はそう言って、げたげた鴉みたいな干からびた笑声を響かせながら、可憐な異常者に瞬間移動みたいな速度で肉薄した。



 鈴蘭が咲いている。雨が降る夜、森の奥の枯れ葉が積もった場所に、ひっそりと咲いて泣いていた。
 泣いてるように濡れていた。白く純潔な愛らしい花は、しかし草原に咲いても決して他の雑草と違って草食動物に食べられることはない。雑草だけが食べられて、必ず鈴蘭だけがそこに取り残される。
 その白く愛らしい花は、可憐な見た目に反して、いくつもの『毒』をその全身に内包しているのだ。
 そんな花を、静かに見下ろしていた。こんな森の奥で、とても嬉しいことがあったはずなのに、なのに胸の中はスッカラカンだった。両の手を血に染めて。
 ――――孤独な、一人ぼっちな鈴蘭を見ていた。
 これはいつの、そして誰の記憶だろう。現在の俺には関係のないことだ。
 床に這いつくばっていた。何が起きたのか分からない。なんだか薄暗くて、大気がぬかるんでいて憂鬱になる。どうしてこんなに、この場所は真夏みたいに暑いのだろう。
 緩慢に揺れている。耳を覆う軽快な音はなんだか遠くて、真っ暗な室内に輝く無数の画面さえも絵空事みたいに思える――――明かりの落ちた、ゲームセンター?
 汗ばむ額、腕を動かそうとしたら鉄みたいに重かった。血流が止まってるみたいに全身が痺れていて、頭の中までぼぅっとしていた。それでも、朦朧とする意識の中、なんとか起き上がろうと試みる。
 すぐさま崩れ落ちて、いっさい身動きできなくなってしまった。きっと残HPが少なすぎたのだろう。まるで毒状態に掛かったRPGのキャラクターみたいで滑稽だった。苦しい。人間は、毒に冒されると酸素さえ吸えなくなるものだったのか。
 少し、回復しないといけない。身動きすることを諦めて、俺はただ前方の光景に意識を集中させる。バラバラに粉砕されたような認識が磁石で集めるようにほんの少しの纏まりを見せた。
「…………れ?」
 そこで、ゲーム台に両手をついて、負けを悔しがっている般若がいた。きっとシューティングゲームの中ボスが強くて倒せなかったんだろう。だからあんな風に、目を見開いて絶望してるんだろう。
「何か、違うような……あれ? なんで、殺したんだっけ。なんで殺すんだっけ……どうやって、楽しめばいいんだっけ………………あ、れ……?」
 失ってしまった記憶を呼び起こそうとするように、頭を抱えて考え込んでいた。その目は真空。顔には爬虫類みたく何の表情もない。その頬に血が跳ねている。その肩には浅い刀傷があって、椅子に俺の短刀・落葉を突き立てていた。
 ゲーム台の上に載せられた、バスケットボールみたいなのと会話している。一方的に話しかけるだけ、いや、譫言を垂れ流すだけだがその横顔はなんだか枯れ枝みたいになった老婆を連想させた。
「おかしいなぁ……楽しみ方が思い出せない。こんなこと、いままで、一度だってなかったのになぁ」
 異常者は、壊れていた。いや――何をもって壊れたとするのか、もとから人として壊れていたじゃないか。翻って常識人にでも戻るのか? ギョロリとこっちを向いた眼球に、この期に及んで馬鹿な夢を見た自分が嫌になった。
「そうだ……えへ、そうだよね。殺してどうするんだってことだよね。殺しちゃったのは不味かった、えへへへへ。だって殺したら終わりだもの、死体損壊したって楽しいわけないもの。殺すことが楽しいんだから、殺す過程が楽しいんだから、結果の先に楽しみはない。殺してしまったらもう殺せない」
 悲鳴を上げそうになった。爬虫類じみた無表情のままギチリと唇だけを大きく釣り上げた女が、短刀を引き抜いて椅子を蹴り倒し、浮遊する幽霊みたいにフワフワとこっちへ来る。いまにも転んでしまいそうな足取り、宙に巨大魚を幻視するような薬物中毒者にしか見えない。
 中毒者? 確かに、いまも頬に血を付けている。殺しに狂ったブラッド・ジャンキーだ。
「ぉ――」
 ようやく、お情け程度に体が動くまで回復した。切断されたようにまるで何の感覚もないが、自分の腕足くらいヤマカンで動かせる。動かせ。逃げないと数秒後にでも引きずり倒されて切断される。
 死にかけの野良犬みたいな声を上げ、介護される老人の速度で立ち上がろうとした時、俺はようやく、隣で気を失っていたじーさんを見つけた。まずい。最悪だ、この期に及んで足引っ張る気かよこの老人。
 腕を引っ張ってようやく気付く、新鮮な赤色が付着した般若の頬。
 ――血? あれは一体誰の血だ?
 見るな、と叫ぶ直感にしかし目を伏せられるわけもなく、引っ張られるように顔を上げてしまう。
 右手に俺の短刀を握って、その赤一色に染まった刀身を、憂いの瞳が見下ろしている。そんな毒花女が、左手から下げている、あのバスケットボールみたいな塊は何だ?
 じーさんを掴んだ俺の手のひらがべっとりと血に濡れる。あり得ない。まさか、どうしてジジイはこんなにも血だらけなのだろう?
 どうして――――トレードマークたるあの鬼面が、なんでなくなってしまっているのだろう?
 ない。無い。無い。無い。どこを探したって無い。
 あ……れ?
 仮面の下に、顔も頭部もなかった。まるで元からなかったかのようにバッサリ切断されていた。ジジイは顔がない。首から上がなんにも無い。
「――――ばかみたいでしょう? ついカッとなって、楽しむ間もなく殺しちゃった」
 ソレをぬいぐるいみのように大切に抱きかかえて、般若は「てへっ」と愛らしく舌を出してみせた。殺した。殺したんだ。俺が寝ている隣で、意気揚々とじーさんぶっ殺してゴリゴリ首だけ切り落としてその隣で俺は呑気に気絶していてよく見れば俺の服にも新鮮な血が跳ねていてさっきからあのゲーム台に鬼の面の生首置いてブツブツブツブツ譫言垂れ流してやがったんだあの異常者は死んだじーさんが死んだ殺された殺された殺された殺された殺された――

 つぎは、おまえのばんだ。

 来る。来た。マネキンみたく動かなかくなったジジイの頭部を引っさげて、般若が短刀逆手に握って跳んで来た。
 たったの一歩。芸術みたいに早く美しい。あいつは狩人クラスの実力者だ、見習いの俺なんかあっさり殺されちまう。それでも死ぬのはいやだと腰にあるはずの短刀を探して、いつも俺を安心させてくれた落葉がないことに気付いた。俺の唯一の武装は、いまあの死神が握って俺を殺すために振り上げている!
「あはははははァ!」
 薙ぎ払われる死の鎌と化した落葉を、俺は子供のように頭を引っ込めて回避した。情けない悲鳴を漏らしていたかも知れない、頭を抱えて縮こまる。
「――あ、レ?」
 般若は不思議そうに立ち止まる。ワニみたいな不穏さで。こいつの本業は刀使い。短刀の尺を測って、ひぃふぅみぃと感覚を調整している。俺を殺す段取りを決めている。いまので殺せなかったことを反省している。
 俺はガタガタと震えながら後ずさる。毒花の甘い香りがする娘、その香りさえ致死的な気がして、ただ近くにいたくなかったからだ。
「っ!?」
 手が、ねっとりと床を濡らしたじーさんの血に触れる。不健康な色。悪食ばかりしているからだ。
「さァアアア! うまく躱しなよ!」
 顔を庇って上体を逸らすと、顔の真横で破片が散った。さんざん遊んだルーレット台の前面が粉砕、耳にカケラが入ったんじゃないかって不快な感触、顔の真横に短刀の温度、すぐさま四つん這いで逃げる。
「遅いよッ! そんなんじゃお話にならないんだ、」
 立体映像みたく現れた般若が、無様に手をついて逃げる俺の胴をおもいきり蹴り上げる。腹の中に杭が貫通したような衝撃、膝。そのまま顔を掴み上げられ――
「よォ!」
 爆発したような衝撃を背中に感じた。平衡感覚も視界も失う。後頭部から、格闘ゲームの台にめり込まされたのだ。人外の腕力。同時に、さっき腹を蹴り上げられたため嘔吐する。汚物の噴水を穢らわしそうに避けて、般若が手を払う。
「――ったぁく。そうだった、忘れてたよ。キミって最低なんだ。大した魅せ技も呪いもないくせに、ちょこまかと逃げ回るんだよね。明るく楽しい殺し合いをしたい私にとっては最悪だ。ねぇ、キミ、そうやって反撃の隙をうかがうのとか、卑怯だし陰険だと思うよ? ちっとも爽やかじゃないよ。」
 げぼごぼ窒息しそうになってるこっちには構わず、異常者は自分本意な理屈で俺を批判する。生徒を叱るように、獲物が生き残ろうとすることを非難する。
 俺は床に崩れ落ち、砂埃くさいカーペットに額を押しつけこのどうしようもない吐き気をこらえるので一杯だった。腹に穴が開いたんじゃないかってくらいに重い。後頭部の激痛など一発で失神すれすれ。俺はかろうじて意識を残しているが、もう失神してるも同然だろう。
「まぁ、いい。キミも駄目だね。楽しめそうにないや。せめて最後くらいは苦しんでみせてね」
 ハンマーのような重量が俺の側頭に載せられる。大きなパンプスの重い厚底。少しずつ体重が掛けられ、俺はいよいよ頭を潰されて死ぬんだということを理解した。
 じたばたともがく。足を掴んで引っ掻こうとしたら、落葉で切りつけられた。もう一度掴もうとしてまた切り払われる。あっというまに俺の両腕は血に染まった。
「ふふ…………さぁ、まだちゃんと痛みは感じる? ねぇ苦しい? 死ぬのは怖い? いまこの瞬間に何を考えているの? ぜんぶの恐怖を私にちょうだい。ぜんぶ、ぜんぶ嘗め尽くしてあげるよ」
「……、ァ……!」
 やばい、本当に割られる。頭蓋骨が軋んでる。脳の芯が痛い。踏み潰されるゴキブリの心境を理解する。切りつけられるのにも構わず手を足を動かす、なのに絶望的に意味がない、毒に痺れてまるで力が入らない。
 かすれた息で声なき絶叫を上げ続けた。じくんじくんと頭の中で血管が圧迫されてる。痛い。苦しい。顔のナカミが押し出されるように苦しい。
「ねぇ、ねぇねぇねぇねぇ、何か言ってよ。黙って虫みたいに死なれちゃ、そこいらで犬殺してるのと変わらないって。ねぇあなた人間でしょう? 理性生物人間さまなんでしょう!?」
 ギリギリと、靴底を捻られる。それが本当に痛くて、涙が出るほど屈辱的だった。
 俺はカーペットの繊毛を握り締める。まるで力が入りやしないが、それでも、今この瞬間にどうしても言わなければならない言葉があった。
 見上げれば凶相、可憐だった殺人鬼はあざなの通りの般若みたいな顔をしていた。嗜虐や悦楽や多幸感にサディズム狂気哀れみ、すべてが混ざった顔は嫉妬と怨恨の般若面。
「ひと、を……!」
「何!? なんてェ!? あははぁ、人生最後くらいもっと声を張りなよ! ねぇそんなんで満足して死んでいけるの? 遺言くらいきっちり遺しなよ!」
「ひと、を…………ころす……な、よ……!」
「はぁああ!?」
 波のような罵声が浴びせられる。だがやめない。どうせ死ぬんなら言わなきゃ損だろう。
 俺の脳裏には、いまの俺と同じように無残に踏みつけられ肉片にされていった人々の、そのあまりに悲しい死に様が浮かんでいた。
 まるで猛獣に食い荒らされた食べかす、そんなのは理性を持った人間の辿るべき結末じゃない。
 ――――死体に間抜けな花まで咲かせて。
 人は懸命に生き、誰に命を奪われることもなく老い、静かに息を引き取って丁重に葬られるべきだ。たくさんの未来があった。喜びも悲しみも待っていた。大切にしていたものも、お気に入りの服も食べ物も音楽も、いつか愛し合いたくさんの思い出になったはずの時間も、成功も失敗もそこにあったはずの人生のすべてが、一瞬で食べかすにされるなんてあまりに酷い。
 他者を菓子のように消費し続けてきた怪物に突きつける。

「かわいそう…………だ……ろ………………」

 怪物は、いっそう楽しそうな笑みを深めた。

「――――そうだね」

 ただ無垢に、人世に在ってはならない自身を笑った。
 そして、終わる。
 あっさりと靴底に体重が込められ、同時に死後の俺を飾り立てるべく首筋のイレズミに命じる。
「咲け、毒花。」
「咲かんよ」
 ――斬、と終末の音が鳴る。
「あ…………れ……?」
 不思議そうに見下ろす般若の胸から、銀色のツノが生え出していた。長い長い鋼色。前方の空を指すように上を向いた、日本刀。
 般若の背後には、誰か、いるはずのない人間が立っていた。般若が、血を飲み下しながら言葉を吐き出す。
「早……もう、生き返っちゃったんですか…………?」
「応。少し、急いだ。お陰でボロボロじゃけどのぅ」
 じーさん――鬼蜻蜒は、痒そうに首筋を掻き毟る。そこには治りきっていない、首を切断された傷跡と、だらだらと無遠慮にこぼれ落ちる血があった。じーさんの声がおかしい。きっと声帯がおかしなことになっているんだろう。
 ――――生き返った? 確かに、じーさんはさっき首を刈られて死んでいたはずなのに。
「こ……の……っ!」
 鬼の刀を振り払うが、同時に胸に刺さっていた刀が強引に引き抜かれ、般若が初めて苦鳴を上げる。血が噴出する。よろめく殺人鬼の顔が青い。抵抗しようと落葉を振るうが、もうほとんど力がない。悪辣にも、鬼の一突きは正確無比に般若の心臓そばの重要血管を断ち切っていたのだ。
 ぶつけ合う刃は一度きり。あっさりと鬼が一太刀を浴びせ、よろめく少女の首筋を掴んでまたしても背中から心臓付近を串刺しにする。刃を捻り、血管を内蔵を食い荒らす。悪の総帥の邪剣は見ているだけで世にもおぞましい、悪逆の極みだった。
「……迂闊じゃの般若。よもや不死身の儂を相手に、首切ってハイおしまいとは。儂を仕留めたきゃここを割らんか、ここを」
 コツコツ、とじーさんは自分のこめかみを小突いてみせた。その、いつもと何も変わりない様子に、般若が笑みをこぼした。
「ふ…………ふ、ふ、」
 腕を動かそうとして、しかしまるで力が入らない。命がこぼれ過ぎている。生命として終わりだ。般若は傷だらけで、口の端から血を流していても花のように可憐に笑う。ついに短刀が落ちた。
「……私の……負けです…………か」
 虚しい言葉が砕けて消える。急速に死にゆく娘は、疲れ切ったように鬼蜻蜒に背中を預けた。娘が父に甘えるようでもあった。
「ひどい、なぁ…………殺しだけが私の、唯一の特技《しゅみ》なのに…………」
「唯一? バカ言え、お前は自分で気付いてねぇだけで、いろんなものが好きなんじゃぇ」
 そうなんですか……? と胡乱に振り返る少女に、鬼は応、と頷く。もう首の傷は塞がりかけていた。まさか、本当に不死身だっていうのか?
 ボタボタと、般若の血は広がっていく。もう取り戻しようがないほどに。血を失えば失うほどに、般若の静かに微笑む横顔は狂気が薄れていくような気がした。
「――そうですか。鬼蜻蜒さんが言うなら、そうなんでしょう、ね……けほ、」
 ごぼ、と血を吐く。体が痙攣し始めていた。
「………………」
 般若は間違いなく死ぬだろう。こんな形で再会した悪人二人の間に、不似合いな静かな時間が流れる。沈黙を割ったのは鬼の方だった。
「…………なぁ般若、なんでだ。別段関わり合いになる必要なかったろうが。なんで――」
 あんな、狂宴を始めちまったんだ? と、鬼が心底の不理解を述べる。
 般若の殺しは破滅的だった。手段は殺人だが、実態は自殺みたいなものに思えた。
「……………………」
 般若は、生気の失われたうつろな目で考え込んだ。初めて自覚したようでさえあった。
「…………怖く、なってしまって……」
 震える手が刀に触れ、般若の呼吸が苦しくなる。
「だって…………まるで用無しだとばかりに、ひとりぼっちで真昼の世界に捨て置かれてしまったから――」
 共に夜を駆けまわった鬼と般若。悪行に手を染め、血を浴び、時には正しき者を虐殺して引き裂いて内蔵をひきずりだす。苦悶の限りを指さし笑う。
 そんな悪友を、手を引いて駆けまわってくれた鬼を失った時、般若は何を感じたのだろう。
「…………ねぇ……鬼蜻蜒さん、私、他の人と違って……普通の世界では生きて行けませんよ……」
 血に染まった自らの手を見下ろし、般若は愛おしそうに微笑んでいた。そこにある命の色彩を心底愛していたのだ。
「あの日、初めて人を殺して……鬼蜻蜒さんと出会って…………ああ、こんな世界があるんだなって安心しました。私みたいなのにも居場所があるんだなって、生き方があるんだなって――教室の中にはなかった、私の座るべき席が……あるんだ、って……」
 般若の背中がよろめく。既におびただしい量の血が流れ落ちて池みたいになっていた。
 薄闇の中、血溜まりの赤色の真ん中で、か細い少女が鬼に支えられている。刀を突き立てられ、それでも少女は微笑んでいた。
「なのに…………鬼蜻蜒さんがいなくなって、気付いちゃったんです。私は、一人ぼっちでまた元の常識の世界に押し戻されたんだって…………」
「……儂は……ただ、自分の好きなようにやってゆけと…………男でも見つけてそれなりの幸福に……」
「この、うそつき…………幸福になって、どう……するんで、す……?」
 死に瀕した少女が、最後の力を振り絞って鬼の手を握り締める。非難する子供のように、顔に懸命な悲しみを浮かべて。
「何……?」
 鬼とて当惑する。少女がずっと胸に秘めていた結末。異常者のあるべき姿、そして、人間が決して自分の人生に求めてはいけない最終回答。
「約束したじゃないですか……鬼の手をとれば……行く末は、間違いなく“破滅”だ、って…………」
 そんなものを求めて、娘はここまで来たのだ。
「あなたが破滅させてくれるって言うから……だから心置きなく悪業三昧できたのに……なのに、これじゃ、人生の帳尻が……合わないじゃないですか……」
 どこまでも無垢に、真っ白に少女は目を閉ざして笑った。とっておきの冗談を自慢するように。
「ね? 約束したで……しょう……?」
 それが般若の、遺言だった。
「ああ――――そうだった。」
 般若の胸部を貫いていた刀が、左半身を絶ち切って振り切られる。オモチャのように血を吹き出してよろめく死に体を、深く構えた鬼蜻蜒の剣が一刀両断。轟音を上げて胸の下を吹き飛ばし、五臓六腑を宙に舞わせる。この一瞬、般若は上半身だけで宙に浮いていた。
 自由落下の途中でしかし、このまま死なせてなどもらえない。右肘を鬼の手に掴まれ握り潰される。
「――――死ね、メスガキ。お主の声は昔から耳障りであった」
 首に左手を掛け、右腕を根元から引きちぎる。一度顔を殴りつけ、肺に心臓に腕を突き込んで握力で潰し、肋骨を引きずりだして、最後に顔を掴んで壁に叩きつける。
「達者でな」
 ボロ雑巾のようになった死体が、生きているはずなど無いのに。

 ――――はい、お父さん。お世話になりました。

 そんな穏やかな声は、果たして幻聴だったのだろうか。
 手のひらでめしゃりと顔を潰して、鬼蜻蜒の虐殺は終わった。血だらけの般若面が地に落ちて朱を跳ねさせる。凄絶な一部始終だった。
「………………」
 ぽた、ぽたと鬼の面から血が滴る。
 周囲は血の雨、鬼は返り血を浴び、そこらじゅうに内蔵が散らばっていて徹底的な殺戮だった。
 俺はそのあまりの光景に声を失う。自分が死にかけていたことさえ忘れるくらい、それは鮮烈な殺人劇だった。
 あまりに無慈悲で非人道な――――破滅。
「じーさん、あんた…………ッ!」
「………………けっ……誰が父じゃ、気色の悪い……」
「え――?」
「あーあー、ったく、悪党なんて損じゃのぅ。こんな汚ぇ役目だけは御免だったんじゃがのぅ!」
 闇の底、血で溢れかえった地獄絵図のような世界で。
「綺麗な血じゃ――怪物のくせに、見映えだけは人形みたく綺麗なんじゃよ、こいつは……」
 手の中の血溜まりを見下ろして、鬼はほんの少しだけ沈んだ声を発した。
 どれだけ待っても眼から涙が溢れることはなかった。代わりに、般若面に跳ねた血が涙のような線を描いた。
 透明な涙など一滴もなく、最後まで分かり合うこともない――それが異常者たちの、あまりに淋しい今生の別れだった。