斬「毒花」編

3




 アップルパイはうまかった。上等な箱で装飾して隣の家にお裾分けしたいくらいの名作でまったくよかった。
 食後には紅茶を。普段はコーヒー派の俺だが、たまにはいいだろう。
 でまぁ、ごちそうになったので俺が洗い物を請け負うことにした。スポンジが古いのでゴミ箱に投げ込んでおく。引き出しから真新しくて硬い緑色の立体を引っ張り出し、多めに洗剤をふっかける。
 洗い物は、やるまでは面倒だが実際やってみると悪くない作業だ。頭空っぽにできる。さて最後に、アップルパイを載せていた大皿を洗おうとした所で。
「い……づぁあ!?」
 脳の芯が痛んだ。一瞬にして並行を失う。シンクに落ちた大皿が派手な音を立て、地震のように回る視界の中、俺は滑りこむように床に手をつく。
 眼球が蠢いているような怖気。首筋が焼けるように熱を帯び、脳の芯に直接映像を流し込まれる。
「くそがァ――上映の時間だってことかよ……!」
 化学物質を直に頭蓋の中に流し込まれるような不快感だった。内側を撫で回される、これだけで吐きそうになる。だが、始まった映像はもっとおぞましいものだった。
『こーんにちーわー』
 どこか、廃工場で陽気に手を振っていやがる。向こうはこっちを観測できるのか。もう死神にしか見えない、金長髪にうさみみパーカーの殺人鬼だった。
 その手が変わらず俺の落葉を弄んでいて殴りかかりそうになる。落ち着け、これは遠くの映像なんだ。
 ノイズが酷い。声も聞こえづらい。椅子に縛り付けられた女性はまた猿轡されていて、落葉を手にした異常者が陽気なステップで近づいていく。
 死刑執行の瞬間。罪状なんて何も無いのに、女性は恐怖のあまり涙まで流して、言葉も発せないからひたすら壊れたように首を横に振る。まるでそれしか知らないオモチャのように。たんたんと近づいてくる死の影を拒絶するように。
「やめろ……」
 ここで少し記憶が飛ぶ。覚えていたくないからだ。俺は一生、その映像を思い出すことはないだろう。
 わずか八分二十五秒間の、徹底的な人体破壊を。
 ――――皮膚を、剥が、す。
 ――――脂肪と筋肉を、分離させ、る。
 ――――神経に、針を、通す。
 ――――歯は、
 ――――眼球が、
 ――――耳の奥に、
 ――――眼窩や舌や首筋や脈に何十もの針が、
 ――――――顔を焼いて、酸性液を……

死ににくい内臓を、引きずりだして焼く。

「やめろォ――ッ!」
 手を伸ばした俺は、後ろから誰かに掴まれた。俺も殺されるのかと思った。抵抗する。
だが強い力で引っ張られて引き剥がせない。
「放せ――俺に、さわるなぁあああッ!」
「…………少年」
「!」
 凛とした、それでいて憐れむような声。俺の首筋に手を当て、押さえていたのは先生だった。
 気がつけば死の映像も消えている。真昼のリビングで、背後の先生に肩を掴まれ、俺は悄然と項垂れた。
「……呪いだな。何を見せられた?」
 その声が、遠くなっていた現実を呼び戻す。
「人が――女の人が、どこかの廃工場で……!」
「廃工場だな。分かった、他に何かその場所の特徴は」
 そんなもの、ない。あの変質的な殺人快楽者が、こと殺しにおいてそんなヘマをやらかすはずがない。
 絶望的なまでに、廃工場としか言いようがない、それ以外に何の特徴もない現場だった。
「っ……暗かった、ように思います。真昼なのに。たぶん地下か、窓がないか、もしくは封鎖されてるんじゃないかと」
「分かった。当たらせる」
 先生は、事務的に携帯を操作してどこかへ連絡を飛ばした。俺の頭の中はただ、あの異常者への不理解でいっぱいだった。思考がまっくろに濁っている。
「――――なんで、殺すんですかね? わざと酷い殺し方で」
 電話を仕舞い、先生は疲れた風に吐露した。
「殺したいからだろ。それが奴らの快楽なんだ」
「でも……! なんで、同じ人間を遊びみたいに殺すなんて――!」
「ああ、異常さ。異常なんだよ少年、異常ってのはね、理に適っていない、常じゃない、根本的に故障しているってことだ」
 でも、と反論しようとして止まった。俺はただ分からないから全否定せずにはおれないだけだ。そもそも俺の中に答えはなく、ただ濁りきった不快感しかない。
「故障品を正気の価値観で測ろうなんてのが無理な話なのさ。そんなことをすれば、ついには自分の定規が信じられなくなる――」
 分からないってのは不理解ってことだ。不理解を不理解のままに、一方的に誰かを犠牲にしていくなんて、それは暴食だろう。他人の日常に押し入る強盗だ。
 例えばひとは、我を通す。我を押し付ける。でも押し付けすぎることは逆に恐怖になるからある程度でやめる。しかし異常者にはそれがない。どこまでも自分の世界を押し付けてくるのだ。
 食いしばる。俺は改めて、この首筋の呪いを仕掛けた女に反感を抱いていた。
 顔を上げると、先生は珍しく褒めるように笑っていた。何も褒められることなどないが。俺はただ遊ばれているだけだ。
「――仕事だ少年。気分転換も兼ねて、アユミと行ってこい」
 一枚のメモを渡される。ちらりと見えた文字は『重要参考人』。



「つ……」
 あれからまた少し首筋が痛んでいた。押さえながら錆びたガードレールの坂道を下っていく。
「大丈夫?」
「ああ、問題ない」
 相方の手前、平気な振りをしておく。だが胸の底にはグチャグチャとした混沌が堆積し始めていた。
 処理しきれない感情、許容しかねる理不尽、そして敵意。
 脳裏にあの般若女を浮かべては睨みつけることが早くも習慣化しつつあった。俺は憎んでいるのだ。あの残忍な異常者を。
「なぁ。事件の方はどうなってるんだ?」
「見つからないって。手がかり一つ、現場も死体もまったく――」
 アユミも沈痛そうだった。あの美術館に捨て置かれたひまわり死体以降、あいつは一切の痕跡を出していないらしい。他所の狩人の情報網からも一切情報が入ってこない。手強すぎて泣けてくる。
「何者なんだ一体……くそっ」
 手馴れすぎてる。手際も何もかも完璧だ。まるでプロの所業じゃないか。
「殺し屋なのかも知れないって、先生が言ってたよ。殺人を仕事として請け負って、お金を受け取っていた本業なんじゃないかって」
 廃工場の殺人がかすめた。技量は殺し屋でも、生粋のプロはあんな余分はしない。
 こんな日でも、秋風は夏の香りを残す清涼さを保っていた。その風を追いかけるように、色抜けて表示の剥げかけたアスファルトから、錆びて折れそうなガードレール、その向こうの草むらと、さらに現れる縁条市全景を視界に収めた。
 雑多な、何もない街。
 ごちゃごちゃしていて不規則で、なのに蟻のようにたくさんの人間が暮らしていて、敷き詰められた建物の時代もバラバラ。
 日本の隅に取り残された前時代。こんなにも見慣れた情景なのに、なんだか墓地でも見てる気がしてくるのは何故なのだろう。
 俺の首筋の毒花が、死体に巻き付くひまわりと同じものであることに不意に気が付いた。
「……………………そうか」
「え?」
 どうして気が付かなかったんだろう。どうして考えなかったのだろう。当たり前のその可能性を。
 俺は異常者の呪いに巣くわれ、殺人ポルノを見せつけられ、その異常者を強く憎みながらしかし何もできない。このままでは逃げ切られて終わりだろう。狩人と般若の鬼ごっこは既に勝負が見え始めている。

 ――――なら、俺は死ぬのだ。
 あいつを強く憎んだままこの呪いに取り殺されて終わるのだ。

「………………」
 首筋に触れた。毒花の花弁で敷き詰められた棺を連想する。蓋を開けて俺を待っているのだ。きっと死の瞬間まで俺は人殺しの映像を見せ続けられるんだろう。胸の底のグチャグチャがまた堆積してカサを増した。
 ……気が狂いそうになる。
 こんな日でも仕事が舞い込み、相方と談笑しながら、歩きなれた道を行く。それ以外にどうすることも出来ないからだ。死病だろうがまだ何の症状もないから、病床で眠ることもなく立ち続けるしかない。
 ――――仕事だ少年。気分転換も兼ねて、アユミと行ってこい。
 思い返せば先生だけが優しかった。誰よりも死の気配を知る魔女だけが、とても穏やかな微笑で死に憑かれた俺を見ていたのだ。
「………………」
 縁条市は変わらない。坂道から見下ろした全景、民家はどれも変わらず静かで、当たり前に明日を約束された人々が道を行く。
 誰も殺人や異常者を知らない。そんなものはドラマの中にしかいないと思い込んでいる。あんなにも理不尽で不条理な奴らがこの世に実在していて、日々他人を侵食しては新聞で報道されてるってのに、そんなものは銀幕の出来事だと勘違いしている。我関せずで日常に埋没し続けていられる。それはなんて幸福なことなんだろう?
 真昼の明るい坂道の途中、俺は木陰に覆われ、日の当たらない暗がりに見捨てられたように取り残される。
 俺一人を置き去りにして、縁条市は残酷なまでに平穏だった。



「しかし、重要参考人って何なんだろうな」
「え?」
 道すがら俺は手の中のメモを注視していた。書かれた情報は少ない。重要参考人、保護監視、ローソン縁条一号店。
 保護監視? 保護か監視かどっちなんだ。
「たぶん、事件の情報を知ってる人? でもただの目撃者なら、わたしたちに振られる理由がナゾだねぇ」
「キナ臭くなってきたな……せいぜい、ちょっとおてんばな謎の美少女でしたー的なのを期待しよう」
「ああ、漫画とかでよくあるよね。不思議な力を持ってるんだね。何故か金髪で幼いんだね」
「いろんな奴が持ってるから、いまさら不思議な力でもなんでもないけどな」
 呪いは誰が発症するか分からない。例えばいますれ違った赤ヘアピンの学生だって、道路の反対を行くおばあちゃんだって、いま空を翔けぬけた天使の幻影だって。
 壊れた常識とも言う。
 俺たちにとって、世界は曖昧で、不確かなものだ。いつ誰が死ぬとも知れない戦場でもある。恐ろしく感じることもあるが、死ににくくするための自分だろう。
 ――狩人。この日常から異常を取り除く非常識狩り。
 人はバケモノになるのだ。絶望に憑かれ、負の感情に支配され、憎悪に屈服しパンクして呪いをまき散らすようになった時――。
「………………」
 何か不安を感じた。考えないことにする。そんなところで目的地に到達、変わらない青い看板。
「オーケ、今日も錆び錆びだな。さて重要参考人はっと」
「いないねぇ」
 ローソンの駐車場で待ち合わせっていう指定なんだが、車一台さえ停車してはいない。
「はぁ……この時間帯に……」
 さすがの縁条市と言わざるを得ない退廃ぶりだった。縁石に吸殻押し込んだ空き缶。売上は基本右肩下がりというか崖。この店は何年もつんだろう。
「――仕方ない。売り上げ貢献してこうぜアユミ」
「うん、奮発してあの高いコーヒーとか飲んでみようっ」
 頑張った自分へのご褒美ってやつか。人生最大の楽しみだよな。俺も一人でいっぱい贅沢しよう。
「………………」
 あれ、なんだろうこの気分、幸せが虚しい。ハーゲンダッツとか美味しいけど悲しい。ふっと目が醒めてしまえば何も無い。いやでも、大事だって自分へのご褒美。大事だよな?
「…………がんばれOL」
「がんばれにっぽん!」
「いらっしゃいませー」
 今日は最近よく見るふんわり系のレジ嬢だった。コンビニのアルバイトはシフト制なので、習慣によっては同じ顔ばかりみることもある。
 さてハーゲンダッツは、と。



 ぽろり、とハーゲンダッツの白くて使いにくいスプーンを取り落としてしまった。高級ストロベリーアイスがアスファルトに付着、さぞ蟻さんも大喜びだろう。
 ぼふんっ、とアユミのくしゃみに合わせて白い粉が大量に舞う。あんドーナツに振り掛けられていた粉だ。いつものスウィートホワイトカレーパンを二つ完食し終えた直後の悲劇だった。
 ――それほどまでに、衝撃的だった。俺たちの目の前に立ち塞がった大男は。
「…………ぬぅうう……」
 無言で。歩く威圧感、身長なんと二m強もの大男が、異様な格好で俺たちの前に立っている。当然ながら影に覆われる。バケモノだ。間違いない。
「えっ、と……アアアアユ、ミ…………マクド、行く、か……?」
「そ……そうだね、…………久し振りに、パイナップルチーズバーガー食べたいね……」
 久し振りってレベルじゃねーぞ。アユミんのお脳みそが一九八七年にタイムスリップしてしまうくらい、目の前の鬼は格闘ゲームのラスボスだった。
「……うぬぅううううう…………」
 そう、鬼。なぜだか真紅の鬼仮面なんかを装備していやがったのだ。格好は和服、足元は草鞋、もう何から何まですべておかしい。
 ずしゃん、と一歩踏み込んできたので俺悲鳴。アユミの背中に庇われながら逡巡。
 嘘だ。嫌だ。まさかこんなのが、このワケ分かんねぇコスプレが件の重要参考人ってんじゃないだろうな。
 冗談じゃない。雛子、雛子はそこら辺にいないか。優奈、香澄。関わるならああいうポジティブ分けてくれる奴らがいい。電波なんて嫌いだ。滅びろ異常者。人世を歩くな。
「少年少女、人を尋ねたいのだが」
 枯れ木みたいな声で口が稼動した、黙れ死ね。生まれ故郷の地獄へ帰れ。
アユミちゃんなぞ既に臨戦態勢、俺は服の内側にこっそり仕込んでおいた、切り札の少量C4を探す。ない。別の服か――!
「儂は、呪殺の早坂っちゅー剣呑なアマに紹介されてきたんじゃが、待ち人がおらんで困っとる。この辺りで、七式の魔女っつー女を見かけんかったかぇ?」
 俺ガッツポーズ。呪殺だか七式だか、そんな魔界四天王みてぇな名前の奴らは知らない。
「………あれ――?」
 でも待てよ、呪殺の“早坂”? 偶然にも雪音さんのフルネームは早坂雪音だ。だけどおかしい、“七式の魔女”なんて怖そうなの知らないぞ。どんな奴なんだろう。ぜったい性格悪そうだ。きっと暴虐の化身なんだろう、そして横暴で自分勝手で目覚めに一発日本刀なのだろう。まぁ俺の知らない人だろうけどな。
「なぁアユミ。“七式の魔女”って、どちら様?」
「先生だよ……」
 え。



 誠に遺憾ながら、件の重要参考人だった。
「ぬぅ、そうか! 主らが七式の弟子であったか! かっかっかっかァ!」
 けたたましい音。笑い声だ。鴉みてぇにげたげた言ってて、大男が異様な声上げて笑うもんだからもう異様だった。鬼の面を外せ。
「――で、アンタ。鬼蜻蜒だっけか? 何者なんだ、」
 その格好。本当只者じゃない。俺の陰からアユミもわけが分かりませんって顔で見上げている。
 人通りが少ないのだけが幸いなのだが、やはりすれ違う人々は一瞬ビクリとして逃げるように去っていく。
 俺ため息。鬼はバンピーなど気にもかけず、さも当然というようにこう名乗った。
「儂か? 見ての通り、大悪党だが」
「あそう。で、その大悪党ってのは何のコスプレなんだ?」
「はて。そりゃ何プレイのことじゃ少年」
 コスチュームプレイです。話が通じにくいぞこのジジイ。
「……ジェネギャプだな」
「ジェネレィションギャップのことだな。ふむ、ハイカラな物言いをする少年じゃのぅ。なかなか悪くないセンスじゃ」
「ハハハ。あんたの服のセンスは最悪だけどな」
「かっかっか! 冗談もうまいのぅ。服装は主に言われたきゃないが」
「冗談じゃねぇけどな。っていうかアンタ、若者のセンスが分かるのかよ」
 ははは、かかかとスッカラカンの声を上げて笑った。アユミちゃんが不安そうに見守っている。案の定、俺たちは同時に緒が切れた。不自然に進路を曲げ路地裏に入った途端、鬼は腰の刀を抜き、俺は手を突き出していた。
「……えれぇー気合いの入った死にたがりじゃのぅ。なんじゃ? 儂の服装のどこが気に食わん?」
「その言葉そっくり返すぜ。アンタにだけはセンスどうこう言われたかないね、このコスプレ魔人が」
 刀の鍔と柄を掴んで押さえつける。言わずもがな堪忍袋の緒だった。鬼はすさまじい膂力で俺を押しつぶしにかかってくる。
「ぬぅううう……!」
「は、羽村くんっ!?」
 言いたいことは色々あるが、アユミが心配そうなので終いだ。
「――休戦。」
「応よ」
 鬼があっさり刀を収め、再び日の当たる道路を歩き始めるのだった。
 つかつかと無言で道をゆく。また一人OLが逃げてった。俺たちはにべもなく歩き続けた。
「……もしかして、息ぴったり?」
 癪なので、アユミの横槍には触れないでおく。
「で、アンタは何なんだよ。質問に答えろ」
「むぅ――何だ、と聞かれてもな。主らは何が知りたいんじゃい」
 仮面の下で目を細めるように、鬼蜻蜒は顎に手を当て遥か前方を見た。
「そも、尋問されるなぞ聞いておらんぞぇ。儂ゃただ早坂のに、見張りつけとくから黙って死んでろと言われたんじゃが」
 雪音さんが怒ってる。何があった。
「……えぇと、だな。個人的な興味と言うか、俺たちゃ何も聞かされちゃいないんだ。重要参考人を保護監視しろって言われてるだけ。アンタが犯人とどういう関係なのかも知らない」
「ほう。またあの巫女も適当なんじゃのぅ」
 どちらかと言うと、適当なのは魔女の方だけどな。
「まぁ、えぇじゃろ。素性を聞きたきゃまず手前から話せと言いたい所だが譲ってやる。儂ゃ寛大での」
「ああ。で?」
「まず、連続殺人が起きとる。陰湿な方法で儂の身内ばっかブッ殺されてんだが」
「……何?」
 美術館のひまわり女。それに、幾つかの死体。そういえば、すべてに、仮面っていう項目が共通してたんじゃなかったか――?
「左様。儂らはな、とある名も無き団体なのじゃ。全員が仮面を付けて、少し前まで組織だって活動しておった。儂こそはその総帥、悪の親玉の鬼蜻蜒おじちゃん」
 ヤクザ組織か。なるほどずいぶんと分かりやすくなった。
「が、儂の一身上の都合により組織は解散となった」
「……なんでだ?」
「一身上の都合じゃ。二ヶ月前の話じゃな。以降はメンバーも散り散り、儂は連絡を絶って姿を消し、奴らも仮面を引き出しの奥に仕舞って一般人に戻ったっつーわけだ」
 暴走族の引退みたいだな。特攻服が仮面なだけで、恐らく大差ないんだろう。
「――が、組織の解散に納得できんかった奴がおってな」
 声が沈む。俺は成り行きを想像してみた。
「……そりゃそうだろ。どんな都合か知らないが、ヤクザの組長が一方的に姿を消して解散、なんて納得できるわけない」
 何をやってた組織かは知らないが。聞かない方がいいんだろうな、どう転んだって社会の闇だ。
「左様。まぁ、儂の後継になろうとした奴はおったようじゃがな、儂の部下は揃いも揃ってトンガッた馬鹿ばかり、どーにも話が纏まらんかったようじゃ。結果・渋々解散となったのだが――――二ヶ月経過して、事件が起きた」
 現在。俺たちが追っている事件。俺は首を押さえながら、曇ったミラーを睨みつける。異様な三人組、俺たちが映し出されていた。
「かつての構成員が次々と殺された。中には表沙汰にせんとこっちで処理した死体もある。が、とにかくすべてがエゲツナイ手法で殺され、しかもこれみよがしにそばに仮面を捨ててあるんじゃぁ。ありゃもう、挑戦か悪意か、脅迫か――」
「――じゃあ、死体がヤケに手の込んだ殺し方なのって――」
 俺の隣を歩く、この大男に向けた当て付けだったのか。だとすると、あの毒花女は。
「――――――あざ名は般若という。かつて儂の右腕じゃった、組織でもかなりの腕利きじゃ」
 あのうさ耳パーカーは、この鬼蜻蜒の部下だったのだ。そして死体たちは元構成員、どうにも、組織解散に際しての身内問題だったらしい。
 死体の身元はバラバラだった上に、謎の組織活動してたなんて狩人《こっち》では掴めてなかった情報だ。それでこのジジイが重要参考人か。
「般若は呪いを使う。あれはヤベぇぞ、手を触れられたり種を植え付けられたら終わりじゃ。例え儂だろうと一溜まりもない。脳みそに花を咲かせて悶死じゃけぇ」
 よく知ってる。既に嫌って言うほど見せられた手法だ。
「あと、近接戦、特に日本刀を使った切った張ったもかなりやりおる。アレのぅ、殺しが趣味で生きがいなんじゃわい。性癖とも言えるかの。もしくは人生の意味? 自然、殺し合いにかけては天才的な情熱と執念をもって、僅か数年で手が付けられんくなってしもうたわい。怪物じゃ」
 生唾のんだ。真性の異常者だ。生まれ持って殺すことのみに特化していたナチュラルボーンキラーだったのだ。
「…………あの。おじいさんもしかして、悪い人?」
「いい質問じゃ少女、なかなかどうして頭が切れるの。しかし最初に言ったろう、儂ゃ大悪党だと」
「…………」
 アユミん敵意の目。俺もこのじーさんは信用してない。あからさまな血の匂いがするのだ。
 しかしまぁ、あの毒花女――般若の連続殺人を止めるのが先だろう。そのあとに拘束して裁くなり何なりすればいい。どうせ、総帥だけあって真っ黒なんだろうし。
「で、その般若さんとやらについてなんだが」
「応。ありゃ儂の一番弟子だったんじゃがもう強い強い。いやぁとんでもねぇもん育ててしもうた。拾うんじゃなかったな」
「そいつ、何がしたいんだ?」
「はぁ? 決まっとろう、儂を殺したいんじゃよ。裏切り者には死を。まぁ悪の組織の基本じゃな」
「………………」
 なるほど。仮面を添えて連続殺人しているのは、最終的にじーさんを殺す過程か。最後はこのジジイの死体のそばに鬼の面が添えられるんだろう。悪の組織崩壊物語の、因果応報な結末ってわけだ。
 もうじき商店街の大通りに出る。騒がしい空気を前方に、雑多な路地で俺は最後に確認しておく。
「なぁじーさん」
「む」
「このイレズミ、アンタにも消せねぇの?」
「……何?」
 俺が首の毒花タトゥを見せるやいなや、鬼蜻蜒は落胆したような息をこぼした。
「ったく…………少年、儂ら、どーにも一蓮托生のようじゃの」
「不覚にもな。さって、これからどうしたもんか――」
 だらだらと並んで歩き出す。指示通り遊んでるわけにもいかないだろう、そんなことやってる間に内側から食い破られてゲームオーバーだ。
 いまもどこかで殺しを続けている般若。手掛かりなし。これから俺たちは、なんとしてでもこの事件解決の糸口を見つけないといけない。
「ったぁく、本当、あんな怪物娘拾うんじゃなかったわぃ……」
 ボリボリと首を掻く鬼蜻蜒。その首筋にも、俺と似たような毒花のタトゥが刻まれていた。



 ジャラジャラとコインカップに手を突っ込み、三枚投入、スロットスタート。
 目押しなんていう高等テクはないので勘押し。どうでもいい柄のリーチでハズレという、毒にも薬にもならないゲーム結果。再度コインカップに手を突っ込み、以下リピート。
「のぅ少年」
「あん?」
「コインくりゃれ」
「……あぁ」
 使い終えんの早ぇ。カラのカップを奪い、適当に分け与えておいてやる。
 平日午後、飲みかけの普段は買わない銘柄の缶コーヒー。ゲーセン二階の薄暗い区画で、鬼と並んでスロットゲームしていた。周囲に、というか半径五m以内に人はいない。みんな避けてるんだろう、当然だ。
「…………はぁ。当たんねーよ」
「よぅ見ろ少年、儂の刀を止めれる動体視力ならこれくらい容易いはずだが」
 そう言うじーさんこそ、掠りもせずにコイン食い潰してるけどな。きっと思いつきで喋ってんだろう。あと俺が対応できる武器は日本刀だけだ。
 特殊スキル:目覚めに一発日本刀回避。
 疲労なのか場所ゆえか、水に浮遊しているようなぬかるんだ心境。いつも思うが、無数のゲームの音が混ざり合って耳が痛くなるくらいなのに、不思議と時間の流れが緩やかになったように感じるのは何故なのだろう。
「………………」
 意外とあっさり答えが出た。騒音とゲーム画面が知覚を奪う。時計も、話し声も、時間の流れを刻む他者の一挙一投足も認識から追い出される。狭くなった認識、広いように見えて実は狭い仕切りで断絶させられたこの小分け空間が、人間から時間の流れを奪うんじゃないだろうか。
 核心を射ているか否かはどうでもいい。小当たり。柄の名前も分かりやしない。吐き出されるコイン六枚、大した足しにはならんだろう。
「コインくりゃれ」
 そろそろ飽きていたので、カップの中身をぜんぶジジイのカップに流しこんでやった。
 どうでもいい。なんだっていい。
「おう、ありがとうよ。気前のいい男はよいぞ、女に重宝される。ただしあだ名は『お財布クン』だがな」
「……なぁ。アンタ、楽しいのか」
「ひょ?」
 こんな状況で意味のない遊びに没頭できるかってんだ。しかしジジイは違ったらしい。さっきから心底楽しそうにコイン投入しては、一人で一喜一憂してやがる。
 そのお気楽さが理解できない。俺たちは死ぬかも知れない人間だ。
「なんじゃぃ少年、見かけに寄らずビビリ症かお主? そこらでカツアゲでもしてそうな不良ちゃんのクセに」
 うるせぇ。
「まぁ、気持ちは分からんでもないが。そうじゃな、確かに死ぬやも知れん。儂らは数時間後には、心臓から脳から花を咲かせて死んどるかも知れねぇ人間じゃけ。あぁ、ギャンブルなぞに興じとる場合かと。もっともじゃな」
 ギャンブルじゃねぇけどな。
「だが見方を変えよ少年。そうじゃな、死刑囚の話をしてやろう。あいつら、娑婆で好き勝手やってサツから逃げまわり、ブタ箱にぶち込まれて裁判所で弁護士や被害者相手に好き放題」
「……何の話だ」
「まぁ聞け。奴らはのう、そういう反社会的な感情表現をせねばならないくらいに追い詰められとる。事件開始前に既に人生狂っとるんじゃよ。いつか暴走して身を滅ぼす呪いと同じじゃな。ある日突然、いきなり殺戮者になる奴なぞおらん」
 言われて最近のニュースを思い返すが、じーさんは少し遅れてんじゃないだろうか。
「……いいや? 最近は結構いるだろ、突発殺人少年に少女」
「あれは事故じゃ。殺戮じゃぁねぇ。そしてその裏にも動機や感情の動きはあろう、なぁ少年、そいつぁ“突発”殺人じゃねぇんだよ。他人にはそう見えるだけで、クソガキの行動にも理由がある」
 なるほど。確かに、殺人だが事故と変わらんような事件ってのは幾つか浮かんだ。中二病がいきすぎてクラスメイト殺しちまった例もある。未熟ゆえに、取り返しがつかなくなってからことの重大さを初めて知るんだよな。
「――まぁ、テメェら世代の病の話はどうでもよい。それよか死刑囚だ。奴らはな、ろくな人生送っとらん。もうクソだクソ。ドブ川の溜まった泥沼みてぇな汚濁の中を生きるクソネズミのような日々を生きとる」
「はあ……犯罪の凶悪性と不幸度数は比例するって話かい?」
「不幸、と一概には言い切れんけどな。同じ日々でも、個々の感じ方には大きく差がある。まぁ奴らは手遅れじゃきん、自らの歪み故に平穏をぶっ壊し、不幸が舞い込み、そのことを誰よりも鬱陶しい価値観でもって悲観する。もう一度はじめに戻り、ほれ、悪循環の塊なのよ」
「………………」
 それは、ドブを歩けば歩くほど腐臭の染み付くドブネズミに似ていた。
「で、だ。儂が話したかったのはコレよ。あいつら死刑確定すんだろ、そんで執行の日がついにやってくる。看守が呼びに来て、警官が何人か付けられ、もうどうやったって逃げられやしねぇ」
 死刑執行か。俺たち常識人にとっちゃ他人ごとだが、こうして悪党の口からそれを聞くとなんだか遠い出来事じゃない気がしてくる。
 そういや、間違いなく人殺しなんだよな。どんだけ自動化しようがスイッチ押す瞬間は殺人犯と同じ罪を犯すんだ。例えばそういう役職の男が父親だったらどうしよう、日々どんな顔して仕事行ってんだろう、なんて考え出せば暗澹としてくる。あまり直視したくない現実。
「で、まぁ、よぅ言われとる話じゃが。死刑執行の寸前にな、なんじゃったか最期の嗜好品が与えられるっつー噂があるだろ」
「………………ああ、タバコだっけ? 実際には――」
 そういった事実は、日本では公表されてないんだけどな。米の国では食事リクエストできるって噂だが俺も詳しかない。
「さて、ここでスロットゲームの話だが」
「……オチが見えた」
「おう、そういうことじゃい。そーれスロットスタート! いやはや楽しいのぅこれ、ほれ、少年も回せ回せ!」
 どうせ死ぬんだから嗜しんどかなきゃ損だってか。ポジティブなんて次元じゃあないが。
「……………知っとけ少年。病よりも、病からくる精神的負担のが苦しい」
どこの格言だったかな。まったくふざけたジジイだが。
「はぁ――しゃーないな。おいじーさん、コイン半分返せコラ」
「やじゃわーぃ。新たに買って来いおサイフくん、げふ少年よ」
「いいから寄越せくら」
 頭使うだけなら、スロット回しながらできるしな。ユカイな効果音鳴らしてゲームが始まる。けだるい。本当にけだるい。
「……なぁじーさん。これからどうするつもりだよ」
「あぁん? んなもん、これから考えるんだよ。事件の状況を整理せよ少年、残らず儂に聞かせてみぃ」
「へぇ、何か考えがあるのか」
「無い。あの小娘の考えは恐らくこの世の誰にも分からん。しかし、だな」
 あの小娘の悪事なら、儂にもそれなりに読めるはずじゃけぇ――。
 そうつぶやいてじーさんはスロットに白熱する。そういえば、あのうさ耳、パーカー、般若だっけ? このジジイの部下だったんだっけ。じくりと首筋が染みた。
「……なぁじーさん。あの般若ってのとは仲良かったのか」
「応、娘みてぇなもんよ。もとは死体遺棄現場に出くわしただけの他人だったが、そこからその小娘のくそアイデアで組織組んで色々悪事働いた。一人じゃ出来ねぇこともみんななら、ってな」
 苦笑する。使いどころ間違ってんだろ。
「それゆえ翻ったらこの通り、般若ちゃん憎悪でいっぱいなわけ」
「……そりゃそうだろ。ああ、そういうことかよ……」
 あの美術館で出会ったワルそうな女。毒花使い。あいつは、この父親替わりのジジイにある日突然放り捨てられて怒り狂ってんのかも知れない。それで次々とかつての部下を、父娘の思い出を殺しまくってんのかもな。
「ぬぅうううおおおおおおあああお!!? セブンが二個まで揃って外れるとかあるかぁあああっ! 空気読まんかぇこのポンコツがァああああああああ!!!」
 だったら、俺は、何だ? 運悪く異常者共の家族事情に出くわし、巻き込まれストレス発散で殺されようとしてるだけの犠牲者だ。まったく笑えない。
 もとをたどれば、すべての元凶はこの鬼だ。
「……ところでこのコイン、どこで換金するんじゃぇ?」
 ギャンブルじゃねぇ。



 ゲーセンを出て商店街を歩く。最初は嫌で仕方なかったが奇異の視線にも慣れるもんだ。俺が避けられてるわけじゃないしな。
「そうじゃ少年、さきの少女はどこ行ったんじゃぇ」
「んぁ?」
「赤いの。おらんぞ」
「ああ――」
 アユミがいない。いまさらだが。そして問うまでのことでもない。
「何か考えがあるんだろ。少なくとも俺たちよりかは肉薄してくれるはずだ」
 任せよう。わざわざ静かに姿を消したんだから、無能が横槍入れるもんじゃねぇ。必要な時はちゃんと呼びに来てくれるだろうしな。
「……くくく。大した信頼じゃの」
「え? 普通じゃね」
「恋仲か」
「全然。」
 人間として尊敬し、背中を預けあっている。相方。また兄妹でもある。はたまたこの世で最も好ましい人間でもあるが、逆に身近すぎるような気もする。
 アユミはいつでも正しい。それは理屈じゃない。この世には、見習うべき優しい人間ってのが存在するもんなのだ。
「はぁ……そこは慌てふためいて顔を赤らめんかい、可愛げのねぇガキじゃ」
「知らねぇよ。」
 実際の所、俺を不貞腐れた不良だと抜かすジジイは正しい。もし俺の人生にアユミがいなかったら、俺はたぶんけっこう先生寄りになってたんだと思う。いまでも他人に対して冷淡とか、そういう部分はあるし。
「……なぁじーさん」
「なんじゃぇ」
「毒花――般若のことは、縁切って捨てちまったってことなのか?」
「…………」
「娘同然なんじゃなかったっけか」
 ふむ、と鬼が顎に手を当てた。
「……悪党流の、子離れみたいなものなんじゃが」
「ん?」
「独り立ちできるようになったら敵。儂ら真性の鬼畜はな少年、家族でも分かり合えんのじゃよ。主らとは違う」
 どこまで行っても、決して繋がり合えることはないのだ――
 ジジイの横顔はそう言っていた。なんとなく悲しいもんだな。到底理解できない世界だが。
「……で、何か策はあるのか? あんたのそれも毒花なんだろ」
「おぉ、しかもちょいと進行しちまっちゃようだな」
「進行?」
「見よ」
 言われて目を向けるが、見間違いかと目を疑った。じーさんの首筋の毒花の紋様を中心に、まるで力を入れてるように皮膚が筋張っていた。だが人体の構造的にありえない。これは、まさか。
「根を……張ってる、のか」
 体内で? マジかよ。知れず、俺は首をボリボリと掻いていた。
「少年はどうじゃぇ」
「…………」
 手を触れる。一本、なんだか筋張っているように硬くて違和感がある。嘘だろ。冗談じゃねぇ、こんなのってありかよ。
「……っ! じーさん、どうすればいい。何か考えはないのかよ……!」
「まぁ落ち着けって。騒いだってどーにもならん」
「どーにもならんっつったって……!」
 このままじゃ、食い破られて死ぬだけだ。俺より進行の早いジジイがなんで俺より落ち着いてるんだよ。
「言ったろ少年。死刑囚のタバコじゃ」
「………ああ、確かにじーさんの言ってることは正しいかも知れない。でもな、そんなんで自分の命を諦めきれるかってんだよ!」
 ジジイを見捨てて、俺は商店街を逆方向へ歩き始める。付き合ってられるか。このジジイは生き残るための意思も努力もない、ただ黙って死ぬ気だったんだ。大物ぶったこと言ってたくせに、結局は逃げてただけ。そんな情けねぇ男だったんだ。
「どこ行くんじゃぇ。儂ゃパチンコへ行くが」
「一人で行けよ! 俺はあいつを探す! どこに逃げたのかしらないが、昨日まで縁条市にいたんだ! 日本の端までだって追いかけてやる!」
「はぁ……無駄じゃと思うがなぁー」
 こうして俺たちは別れた。すぐさまアユミに連絡する。やはり、犯人探しをしてくれてたようだ。



 早坂神社の石畳でアユミと待ち合わせた。清涼な空気の区画。アユミの顔を見てからようやく保護監視の任務を思い出したが、もういい。叱られるならそれはそれでいい。
「…………先生に聞いたよ。やっぱり、それ、大変な呪いなんだってね」
 相方は鎮痛そうな顔していた。俺は言葉もない。魔法のように紅葉が降り注ぐ石畳を上がっていく。
「ねぇ羽村くん、怖い?」
「…………ああ。怖いさ、言うのも怖かったんだ……」
 筋張っている感じが進行して、少しずつ硬くなってる気がする。気のせいか? 分からない。過敏になりすぎてだんだん分からなくなってきた。だが着実に進行していく。時に、少しはマシになったんじゃないか? なんてありもしない希望を妄想しながら。
 滅びに至るものを身に背負わされるって、こんなにも苦しいことだったんだな。
「……さて。」
 石畳を登り切ると鳥居の向こう、境内で先生と雪音さんに美空に銀一、縁条市所属の一同が話し込んでいた。
「やぁ、来たか羽村くん」
 みんなが話を中断。銀一……銀髪学ランの男子高校生が気さくにやってくる。柔和に笑う女みたいな男にして、縁条市所属の最後の一人。
「……珍しいな。お前がいるなんて」
「ああ――でも残念だけど、これからすぐに遠出さ。悪いけど愚痴は聞いてあげられない」
 そうらしい。ここのところずっと外回りばかりのやつに、特に期待しちゃいないが。
「そうかい。まぁ気をつけてな」
 憎まれ口を叩くような気分でもない。変わりないならそれでいい。すれ違いざま、銀一が小さく呟いた。
「……………いまから東京へ行く。キミも油断しないように」
「東京?」
 問い返すが、にっこり笑うだけだった。それきり石畳を下りて去っていった。紅葉の海に埋もれるように、学ランの背中が遠くなる。
「……まったく、面倒なのに憑かれちゃったものね」
「む」
 美空が、頭のミニハットの位置を正して立ち上がる。帰るんだろうか。
「まぁ、私も忙しいから。またね」
「…………そうかい」
「ん?」
 不服そうな声を上げられる。よく分からないが。
「なんて顔してんのよ。そうやすやすと死なせないわ、このバカ。」
 べしんと肩を叩かれる。それきり、銀一の後を追うように去っていった。肩が痛い。
「…………」
 そんな力こめなくてもいいだろうに。境内に残されたのは俺、アユミ、先生に雪音さんだけ。
賽銭箱の前に腰掛けていた雪音さんが、ファイルを仕舞いながら口を開いた。
「銀一くんは遠方、美空ちゃんは近場で情報収集よ。状況を説明するからおいで、二人とも」
 いつになく穏やかな巫女さんの微笑。本当いやになる。まるで死にゆく者を見送るみたいじゃないか。



「東京で死体が見つかった。死亡推定時刻は今朝方だ」
 珍しく数名の参拝客があったので小屋の方に移動した。絵馬やおみくじ売ってるところだ。ちなみにおみくじは正月じゃなくても売っている。今日の俺は大凶だろう。
 見知らぬ参拝客三名が、賽銭箱の前で財布を取り出す。俺は缶コーラを開封しながら先生に顔を向けた。
「……東京?」
「えぇ。手口は同じ、体の内側から植物が生え出して死亡。今回は肺だったわ。それはもう、血を吹き出して凄惨だったという話」
 雪音さんは腕組みして真剣な目付きで参拝客たちをまじまじ睨んでる。「ちぃ、また五円か……」なんて呟きは聞こえなかったことにする。
「えェと、ね。そう、向こうの狩人さんからの情報提供なのよ。まぁこんな特殊な手口がこの短期間でカブることなんてないでしょうから、やっぱり同一犯なんじゃないかって話」
「で、これは縁条市の駅前での話だ。昨日の深夜、事件直後の時間帯に、夜行バスに乗車するうさ耳パーカーに金髪の少女が目撃されたんだと。特徴はすべて一致、まぁ本人だな」
 夜行バス……? まさか。
「そう、東京行きのバスだ。血気盛んどころの話じゃない。あのガキ、昨日の夜にこっちで一人殺し、夜行バスに乗って東京へ逃亡、そこですぐにまた人を殺してるんだ。二十四時間以内に何人も何人も殺して回るなんて、極まってるどころの話じゃないね」
 もう、最後の晩餐だと腹を括ってるのかもな――と先生は付け加えた。
「……っ」
 確かに派手にやり過ぎだ。どんだけ用意周到だろうが、こうも短いペースで殺してたら、足跡を辿られるどころか現行犯で捕縛されたっておかしくはない。
 いや、さっさと捕縛されてくれればそれに越したことはないんだが――
「東京で見付かった会社員の死体は、カバンの中にシンプルな白塗りの仮面が残されてたんだとさ」
 やはり仮面、その会社員もじーさんの元・部下なんだろう。
 あいつの殺しは半分以上が趣味だ。時間や手間が掛かる。なかばやけくそなのはありがたいが、それにしたって……
「…………東京、ですか……」
「ああ。東京だ」
「じゃあ、俺たちは――」
 何も、出来ないっていうのか。般若は俺にこの毒花のタトゥを残して、とっとと手の届かないところまで逃げて行ってしまったっていうのか。
 ――首筋がまたビキリと筋張ったのを感じた。
 昨日縁条市にいて、今日は東京? 次はどこへ逃げる気なんだ。――本当に、日本の端まで追いかけなくちゃいけないっていうのか?
 愕然と、震えるように背後の光景を振り返った。
「………………」
 ――――広大な、縁条市全景。街。このなかからたった一人見つけ出すだけでどれほどの時間と労力を強いられるだろう。それが、日本全域にまで範囲を広げるっていうのか?
 俺が死ぬのが先か、般若が捕まるのが先か。結果は見えてる。そしてどのみち、俺には何も出来ない。その場に崩れ落ちそうだった。
「羽村くん……」
 アユミが肩を支えてくれる。それだけが俺を保ってくれる。本当に、本当に目の前が真っ暗だった。
「…………銀一くんが東京へ行ったわ。着くのは日が暮れる頃になるかも知れないけれど――」
 もう少し、辛抱してね――と雪音さんが肩に手を置いた。
 もう少しって、いつまでだろう。
 俺は呆然と顔を上げ、変わらず平穏なあおさを晒す空を見上げた。火葬場の上に広がっていそうな空を。