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掌編「サイレントマジョリティ」
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 その日、会社に出掛けていく私を妻は無言で見送った。
「…………」
 玄関にて、妻は黙って私を見ている。
 新築3階建ての自宅、純正現代日本製の無機的な玄関で。
 夫の私が言うのも何だが、妻は顔良しスタイル良し愛想良しの笑顔美人である。仲睦ま
じいと近所でも評判の私たちが、いまは、何故か無言で見つめ合っていた。
「…………」
 よく分からない沈黙だった。
 ネクタイでも曲がっているのだろうかと視線を下ろし、特に異常が見られないことに疑
問は余計募る。
「……どうした?」
「…………」
 恐る恐る尋ねてみても、いつもは柔らかく笑い返してくれるはずの瞳は微動だにしなか
った。
 ただ驚いたように、私を、普段と何の変わりもないはずの夫を凝視している。
「……? 行ってくる」
「…………」
 いつまでもこうして見つめ合っているわけにもいかない。
 いってらっしゃい、という言葉を聞くこともなく、私は自宅をあとにした。何ら普段と
変わりない近所の風景を歩いていく。
 妻の。
 あの白けたような瞳が、脳裏に焼き付いて離れなかった。



 妙に静かな駅構内。
 いつもは耳をつんざくほどの喧噪が、今日に限って何故だか沈黙していた。
「…………」
 まるで廃墟街を歩いているようだ。
 周囲を行く人々は、ただ無言。
 無言で通り過ぎていく。
「…………」
 ここで、あるひとつの仮定が浮かんだ。
 終始無言だった妻。
 この世界滅亡数時間前のように暗い駅の人々。
 まるで、私1人だけが何かを知らされていないようではないか。
 そういえば今朝はニュースを見ていなかった。
 ここのところ不安定だった世界の経済を思い返して、胸の真ん中に不安の火花が一抹散
った。
 ──私の与り知らぬ所で、戦争でも始まったのではないだろうか。
 そんな不安はずっとあったのだ。噂もあった。
 被爆国家日本の人々が戦争というものに抱いている印象は恐怖一択。なるほど、呆然と
した妻の表情も駅の人々の沈黙にも納得がいく。
 急いで携帯電話を取り出して、アナログテレビを開いた。
 これだけ大人数を黙らせる事件だ。そのような重大ニュース、全チャンネルで特番を組
んで放映しているに違いない。
「…………?」
 しかし、携帯電話の画面に映ったのは、恐らく普段と変わりないであろう呑気なお茶の
間番組であった。
 戦争のせの字もないし、特報が流れることもない。
 しかし周囲はただ無言。
 ゴーストタウンの静寂を保ったまま、人々は流れていく。
「…………」
 ますますもって分からない。
 ふと、目の前をお喋りな女子高生2人組が歩いていった。
「でさぁ、この前の──あ」
「え?」
 片割れの双眸が私を捕らえるや否や、2人は唐突に黙り込んでしまった。
「……なんだ?」
「…………」
 私の問いにも答えない。
 ただ不愉快なものでも見たように、若い顔に嫌悪を浮かべ、ただ無言で通り過ぎていっ
た。
「…………」
 視線を感じて周囲を見回す。
「な……ぇ?」
 見ていた。
 視線。
 視線。
 視線視線視線視線視線視線視線。
 人々の視線すべてが、じっと私を見つめていた。
 老若男女問わず、ただ黙って私を見ていた。凝視していた。
 嫌悪や驚き、気不味そうな顔もある。ただ学生もサラリーマンもオフィスレディの集団
も、ガラの悪いチンピラまでもが距離を置いて私を見ていた。
 こそこそと話し合っている者もいる。
 まるで痴漢の現行犯でも見付けたような視線だ。だが当然ながら、私は何もしていない。
ただ不気味な沈黙が構内を支配し、私1人に向けられていた。
「…………」
 また、視線を感じて顔を下ろす。
 子供がいた。
 少女だ。
 デパートで親に連れられアイスクリームでも舐めていそうな少女が、私を見上げ、目が
合った途端に顔をしかめ、不快そうに呟いた。
「────」
 その呟きを聞き取る間もなく、咄嗟にその場から駆け出した。
 駆け出した途端に視線がついてくる。錯覚だ。大量の視線が私の全身に吸い付いている、
なんて錯覚に決まっている。
 階段を駆け下りる。
 騒がしい地下のホームに足を踏み入れる。
 よかった、ここは沈黙していない。
 安堵と共に喧噪の場へと降り立った瞬間、

「「「「……………………………………………………」」」」

 ホームにいた人々が私を認識し、また沈黙が広がった。
「…………」
 返す言葉などあろうはずもない。
 ただ、無言の圧力に気圧されて後ずさった。
 視線だ。
 おぞましい量の視線が、何も言わず、何も訴えずに私を捕らえている。亡霊じみた青い
無表情で。
「…………」
 なんだ、これは。
 怖ろしい。
 沈黙は凶器だ。私の精神を瞬く間に不安で削り取っていく。
 なんだ、何故だ。何故何も言わない。何故私を見る。何故私を見て、あなたたちはただ
1人の例外もなく沈黙するのだ。
「……は……ははっ、」
 歪な笑顔を浮かべる私。サラリーマンの職業病だ。ふとした拍子に愛想笑いが出る。効
果は1ミリもなかったが。
 無数の冷たい視線の中で。
 時計の針の音さえ聞こえてきそうなホームに、駅の放送はとてもよく反響した。
『間も無く、1番ホームに列車が参ります。白線の内側までお下がりください』
 しかし、そんな放送すらどうでもいいのか。
 人々は視る。
 黙って私を見続ける。
 ああ、どうなっているのだろう。
 私が何をしたというのだろうか。
 沈黙は怖ろしい。
 善意か悪意か憐憫かさえも判断が付かぬまま、人々の視線に晒され続ける。
 そして最後に。
 数秒後、轟音を上げて、定刻キッチリに電車が滑り込んできた。
 減速していく準急列車。
 甲高い悲鳴が静寂を裂いて、至極丁寧に停車する。
 ピカピカに磨かれた窓越しに、1人1人と私に気付き、更に量を増した視線が私を射抜
き始める。
 まるで津波のようだった。ぐさぐさぐしゃと視線を突き立ててくる。
 得体の知れない沈黙の中。
 ただ私は、大量の眼に見られ続けた。




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