back | top | next



短編「モラトリアムの庭園」
----------------------------------


 もともと僕は勉強がしたくて大学に入ったわけではない。
 確かに、大学で得られる様々な分野の知識は無価値ではないだろうし教養にもなる。
 ましてや『大卒』という資格があるだけで中卒や高卒よりも格段に良い初任給を貰える
この学歴時代、大学に入学し、卒業する、という行程は冷静に考えて決して無駄ではない。
 そんな重要な付加価値を得る場でありながら、大学という場所は自由奔放で一種の楽園
じみた空気がある。ああモラトリアムの庭園よ、ラクしてしかも将来の給料が上がるだな
んてまるでどこかキャッチセールスの売り文句並みにご都合主義じゃないか。落とし穴が
ないかとても心配だね。
 ところがそこはやはり非情な人間社会、無条件の利益などありえない。そう、やはりモ
ラトリアムの庭園にも致命的な落とし穴があったのだ。
 大学という楽園に潜む落とし穴、それは馬鹿げた値段の学費だ。ちょっとそこの受付
のお姉さん、この資料に書いてある授業料って一桁間違ってません? 間違ってません
か、それはそれは。
 参考までに、僕が通う大学の授業料は年間120万円。たとえ初任給が良かろうが、
これでは就職した際に相対的に見れば結局家庭としてはしばらく赤字続きである。
 大学? そうだね、行くならよ〜く考えた方がいいよ。確かに本来なら高校卒業と同
時に終局の色を見せ始める青春とやらをより長く謳歌できるんだけれども、入った以上
はちゃんと勉強なさい。徹夜で試験勉強して単位を奪取なさい。ちゃんと4年間で卒業
しようね。
 つまり大学とは、表向きは自由奔放だが薄皮一枚剥がせばホレぺろり、もう既に立派
なビジネス王国の終わらない戦略戦争のただ中で氷山座礁している偽りの楽園なのだ。
 赤字覚悟で給料上げたいなら受験しな、安給料で就職口が狭まる過酷な生き方を望む
なら受験せず就職しな。つまるところ高校3年生で巻き起こる人生初の本気受験戦争は、
学生には酷とも言える人生を二分する大事なターニングポイントであるのだ。
 最近では第三の選択肢として「フリーター」なる無所属労働者、第四の選択肢「ニー
ト」なる人生の極寒砂漠etcがあるようだが、まぁ少なくとも真っ当な生き方ではない
と僕は考える。否定もしないが、フリーターというのは本人にとっての1つの背水の陣
なのだ。後々考えると利点など皆無に等しかったりもするのだが、微細を求めるのもま
た人間。ニートなんていう無職業な職業を名乗り、無労働な労働をするのもまた人間。
つまり人生には色々な生き方があって、それぞれみな等しく必死なんだって話だね。

 だがしかし、ここにそういう必死な判断から逸脱した1人のおかしな青年がいる。
なんと驚くなかれ、彼は大切な大切な授業を抜け出して図書館でミステリ小説なんぞを
読みふけっていやがるのだ! 彼こそはこの僕、荒坂峰人なる大学1回生、普通人だ。
 これまでのアリガタスバラシイ寺山坊主くんなみの説法を馬耳に注ぐようで悪いが、
僕は最近1人の女流ミステリ作家に魅了されている。惚れ込んでいると言ってもいい。
 代表作、「白銀の森」。いま『ハクギン』と読んだ君は大間違いだ。漢字辞典に教え
を乞いなさい。
 経歴・年齢共に一切不明。分かっているのは女性であるという事とPN、それからこ
の「白銀の森」で近代ミステリ界に巨石どころか隕石でもなく月そのものを投げ込んだ
と言われている衝撃の新人作家だ。ちょっと前にデビューした乙一さんという作家がい
たが、あの鮮烈さと同等、もしくはそれ以上だと思ってくれていい。
 彼女のPNは『無銘ナナ』。気になる人は本屋さんでチェケラ、そして7冊くらい買え。
大丈夫、初版なら絶対プレミア付くって。2年後にヤフオクで売ってみな。
自称普通人であるこの僕をこんなセコい売り上げ貢献活動に駆り立てるほどに、この
『無銘ナナ』という作家の作品は魅力的なのだ。信じられない? そうか、ならば聞け。
 まず文章の詩的さだ。巧妙に韻を踏んだ、つまりサクサクと頭に入ってくるようリズ
ムが整えられた文体。詩的とは言ったが飾りは最小限、この場合は選りすぐられた描写
対象と音のリズムを指す。
 次に、どこか捻くれた人物達とその『無銘ナナ』自身の世界観。そう、彼女の感性は
ビミョーに鋭いような鈍いような斜め46度なのだ。
 たとえばタイタニックの話をしよう。貴方はあの映画が好きだろうか? 嫌いだと答え
る作家志望は具体的にどこが嫌いなのか即座に挙げられて当然として、好きと答えるあ
なたは一体どのシーンに感動したのか教えて欲しい。前半のレオ様の振る舞い? 後半の
沈んでいくタイタニックの崩落具合? それとも、人間がどれだけたくさんの尊いドラ
マを繰り広げようと、たった1つの災害の前にすべては等しく沈んでいくというあの
空虚な筋書きそのものが良かったのだろうか。
 ではここで、僕の敬愛する『無銘ナナ』のあとがきを引用したい。

「あの海に落ちてスクリューに巻き込まれた人のボキゴキョっていう音が大好きで、
 同じシーンを何度も巻き戻して観てしまいました。タイタニックは素敵な映画です」

 ……ハッキリ言おう、彼女は紛れもない変人だ。
 こんなズレた感性を持った女流作家が描くミステリ、それが面白くないハズないだろ
う! どうだわかったかそこで恋愛小説なんざ読んでる眼鏡女。ねぇちょっと、聞いて
る?
「──峰人の言うことはよくわかんない。なんで作家の魅力を語るのに後書きなのよ?
 フツーそういうのって、本編の面白さを前面に推して紹介するモンじゃないの? 生粋
の大ファンが聞いてあきれるわね。無銘ナナがかわいそう」
「む……」
 疑わしそうな半眼でしれっと言い捨てる眼鏡女。こいつは僕の幼馴染みで、同じ大学
に通っている七瀬優子。同じ『なな』という名を持つクセにコイツは『無銘ナナ』には
無関心。一緒にサボっても教育に悪い恋愛小説ばかり読んでいる姿がとても気に喰わな
いので、仕方なく僕と同じ『無銘ナナ』信者に仕立ててやろうと説得していた現在だ。
「それに私、実は恋愛小説が大好きなの。わかったら放って置いてくれる?
 この作者萌えの変態エセ読書家さん、半年前まで活字を直視すると腹痛を起こす体質
 だったクセに。あーやだやだ、男ってこんなのばっか」
涼しい表情でひらひらと文庫本を団扇代わりにする眼鏡っ娘。その本のタイトルを見て、
僕は辛党のオジサンがショートケーキの山に溺れた時の吐き気を感じた。
「この──言わせておけば貴様、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』ってなんだその甘
ったるそうな恋愛小説は! お前も『無銘ナナ』を見習って少しは夢に溺れる若者の心
理を描いた暗黒小説や、無力な少女たちと世界のガチンコ弱肉強食を描いた社会派物語
に目を通してみたらどうなんだ! byこれも後書きからの引用だ文句あるか!?」
「……………………。」
 僕がひとしきりまくし立てると、何故か優子は「うわぁコイツ馬鹿だ」なんて視線を図
書館の床に向けた。ちくしょう全然マジメに聞いてない。
「はぁ、もういいや。脳構造が一般人からかけ離れてる優子に面白い小説を薦めた僕が
馬鹿だった。昔から成績最悪だもんね、眼鏡のクセに。そのくせ作文だけは先生に花丸
とか貰っちゃってさ、いままでそれだけを武器に進学し続けて来たんだよね。」
「なによ、眼鏡なんて関係ないじゃない。それに現文科なんだから作文できて当たり前、
これでも峰人の千倍は文学界の知識があるのよ?」
「はっ、少女趣味の恋愛小説のお陰でちょっと語彙が多いだけだろ? 調子に乗るな」
「な……ッ!」
 僕がくけけけけけけけと嘲笑を投げると、優子は小説を取り落として絶句。石像と化す。
「なんだよ、そんなに気に入らなかったのか?」
「み、峰人に馬鹿にされた……!?
 このミステリ界のムーンフォール……いやいや、万年クラス委員長の七瀬優子が普通
人を自称するような無個性ダメ人間に馬鹿にされた……!?」
「誰がダメ人間だ、ワケの解らないこと言うな。それに優子は昔から知識馬鹿だ。いま
さら何を言ってるんだよおい、もしかして自覚なかったのか?」
「は――はははははははははははははははははははははッ!!」
 舌を出してイジメ続けていると、優子は突然壊れたように哄笑を始めた。静かな図書
館を奇異の視線で埋め尽くす眼鏡女。やめてくれ。
 気が済むまで声を上げてから、優子は突然挑戦的な笑みで僕を睨んだ。眼鏡の奧の瞳
が対抗心に燃えている。なんだ、何を思いついたんだこの女郎蜘蛛。
「――いいわ、そこまで言うのなら勝負しましょう?」
「い、いきなり何を……!?」
「明日発売の『無銘ナナ』最新作、『愚弄の庭・下巻』の犯人当てで勝負よ!
 偶然、そう本当に都合のいい偶然なんだけど私も上巻は大学の課題で最後まで一字も
余す所なく読んだの。えぇ偶然よ。もちろん自称大ファンの峰人は犯人を当てるつもり
で熟読してくれたわよね?」
 なんだ、発売日までチェック済みとは意外によく知ってるな。僕まだ未チェックだった、
というか発売日ってもう発表されてたっけ?
 しかしファンを名乗る者としてはこの勝負を逃げるワケにはいかない。それに如何に普
通人といえど、普通以下の知能しか持たない優子に僕が知恵比べで負ける理由はない。
「いいだろう、その勝負乗った。それじゃルールは犯人とトリック当てにしよう。上手く
犯人を当てられてもトリックが違えば勝負は無効だ、いいね?」
「えぇもちろん。先に言っておくけど峰人、私はこの勝負、100%勝てる自身がある。
 もしもあなたが負けたら、私を馬鹿呼ばわりしたことを土下座させる。いい?」
 おぉ、100%とは大きく出たな。だが残念、自称といえど大ファンを舐めてはいけな
い。
 僕はあの本の全巻ならもう既に30回は読み返している。そして、24回目を読んだ
辺りで僕は事件解決に繋がる隠されたヒントを発見してしまったのだ。
 ――すでに答えは見えている。フフフ、やはり僕が優子に負ける要素など無い。
「おーけ、それじゃ優子が負けたら以後2週間は日雇いの引っ越しバイトでも行って貰
おうかな。インドア派の君には酷だろうが、でも罰ゲームだからねぇ。
 ま、僕が心底敬愛してる『無銘ナナ』の良さが分からないキミにはお似合いだね」
 僕は敗者確定の眼鏡に陰惨な笑みを向けてやった。
「────」
 しかし唐突に、優子は呆然。きっかり5秒も沈黙したあとで、何故か嬉しそうな笑みを
返してきた。
「そう……本当に好きだったんだ、『無銘ナナ』のこと。
 ふふ、いいわよ何でもやってあげる。さ、それじゃそろそろお腹空いたしお昼食べに
行かない? 私このまえ美味しいお寿司屋さん見付けたんだ〜」
 いきなりの提案を断る間もなく、優子は僕の手を引いて図書館の出口へと歩き始めた。
「え……ちょっと待ってよ、僕そんなお金ないって」
「大丈夫、今日は機嫌がいいから奢ってあげる。ちょっと纏まったお金が入ったからさ、
しばらくは遊んで暮らせるわよ」
「なに、優子に臨時収入? キャバ嬢でも始めたワケ?」
「違います、ちょっと得意の作文がお金に化けただけ。
 でもやっぱ課題でやるのと違って責任重いから、これっきりにしようと思うんだけどね」
 なんだもったい無い。そんなに儲かるアルバイトがあるのなら、続ければいいのに。
 あわよくばそのまま就職したりなんかして、晴れて優子も社会人デビュー。でもやめち
ゃうのか、もったい無いなぁ。お寿司は今日限りなんだね。チッ。
「……へ〜、そりゃまたよく分からないけど。」
「分からなくて結構。さ、なんでも好きなもの食べていいよ。トロとかウニとか、あ、い
っそタラバガニ丸ごと食べちゃおっか!」
「随分と豪勢なんだな。しかもそれ寿司じゃないし」
「別にいいでしょ、美味しければなんでも。文句言うなっ」
「痛てっ!?」
 バチン、と頭部を叩かれて急停止。痛い。頭がじんじんする。
「あのなぁ優子、お前ちょっとは手加減し――」
 ろ、と言おうとしたのだが。僕は、何故かその言葉を呑み込んでしまった。
 何故なら唐突だったから。
 唐突に、ステンドグラスみたいな窓から真昼日が目に飛び込んできたから。
 真っ白に染まる階段の風景が、廃退的で綺麗だったから。
 まるでどこかの廃墟で目覚めたように空虚で、虚空ゆえにそれは美しかったから。
 そんな空っぽの庭園の真ん中で。
 表情の読めない優子が、唐突に淋しそうな目をしてこちらを見た気がする。
「――本当はね、続けてもよかったんだ。」
「え……?」
 彼女が何を言っているのか解らなくて、僕は間抜けた声を返してしまう。
不思議な感じだった。優子の全身までもが真っ白に見えて、まるで僕の知らない誰かが
彼女に取り憑いて喋っているような感じがして。
「……何の、話?」
「本当はモラトリアムの庭園から抜け出して、ビジネスの社会に残ってもよかったんだ。
 けどね、やっぱりちょっと疲れちゃったんだよ。峰人の言うように私は馬鹿だし、不
器用でお子様な七瀬優子だから。まだ名も無きナナになりきれるほど大人じゃないの。だ
から――」
 そこまで聞くとようやく立ち眩みは治まり始め、真っ白だった視界が正常な彩色を取
り戻し始める。優子の髪は黒。眼鏡の縁は赤色で、ファッションはごくありふれたカ
ジュアル系。
 柔らかい茶色のエンジニアブーツを鳴らして僕に向き直った彼女は、僕が見慣れた夏
の向日葵のように晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「――私も、峰人と一緒にもう少しだけ青春謳歌するね。
 確かに空っぽのモラトリアムだけど、きっと無駄じゃないハズだから」
 どこか遠くでバイクのエンジン音が響いている。
 窓の外に広がる街の向こうにはほんのりと滲んだ山があって、空は晴天。渇いた風が、
胸の奥に押し込めた生き急ぎの焦燥を拭って走り去る。
 時刻は正午ちょうど。アスファルトの電子街に蜘蛛の子を散らすように溢れ始めるOL
やサラリーマン達を見下ろして。
「……そう、」
 僕は小さく息を零した。
 それはまるで、畏れていた何かが過ぎ去ったのを安堵するような呟きだった。
「まぁ僕には何のことだか分からないけどね」
 一瞬、ほんの少しだけ淋しい笑顔で優子を見返す。右手にはつい持って来てしまった
『白銀の森』。本当に残念な話だが、何かの間違いでミステリ界に落ちた月は間も無く
宙(そら)へと還っていく気らしい。
 この灰空の庭で、花開くことを少しだけ先延ばしにした向日葵のつぼみに僕は告げる。
「――おかえり優子。明日の引退作、楽しみにしてるよ」
 今度こそ、僕たちは曇りひとつない顔で笑い合った。




back | top | next