サンドバッグゲーム

「ありゃもうサンドバッグゲームね、サンドバッグゲーム。」
「なるほど。さすが茜ちゃんは頭がいいねぇ」
 いつもと何も変らない事務所での出来事でした。目の前のテーブルには緑茶とせんべい、あとさっき食べたクッキーの空箱にゲーム機なんかが散らばっています。テレビではいつもの様に、有意義なのだか不毛なのだか判別のつきにくいニュースが流れているのでありました。
 ニュース番組は夜になると背景が凝ったものになるような気がします。いまはまだ夕刻なので大したことないですが、これから日が暮れていくにしたがってだんだんと水槽置かれたりガラスっぽくなったり漆塗りの黒木を張ったりしていくわけです。
 ソファの左隣に腰掛ける茜ちゃん。そのどこか赤色を連想させる小柄な少女が、誰より聡明であることを私は知っています。先ほどの発言もやはり・あまりに理知的すぎて、平凡な私には少しばかり意味が掴みかねるのでした。
「…………え、さんどばっぐげーむ?」
「そ。りな、サンドバッグはちゃんと分かる? うちの姉貴の暑苦しいトレーニング風景を想像してもらえれば自ずと出てくると思うんだけど」
「分かるけど、分からない振りしないとお姉さんに怒られそうだよ……」
「思い浮かべてくれた? 要はアレ。殴られっぱなしでふらふら揺れてるあの、哀れさの化身みたいな淋しい革袋のことね」
「言い得て妙だけど、なんだか悲しくなるね」
「あいつってすごいのよ。いろんな人のストレスを請け負ってる」
「そうだね。サンドバッグもたまには、誰かを殴りたくなったりするのかな?」
「当然でしょう。きっとあいつ、殴られるたび殴られるたび、揺れて戻ってくる瞬間に潰れろーって叫んでいるはずよ」
 知りたくないメルヘンでした。どこまでいっても世の中は食うか喰われるかのようです。
 私は久方ぶりに雑誌を机の上に置き、果たして茜ちゃんはこの会話の先で何を言わんとしているのかと考察を始めるのでした。
「……えっと。茜ちゃん。その哀れなサンドバッグがどうかしたの?」
「え? ――ああ、うんそうなのよ。見て、りな。ほら、あれが日本人のサンドバッグ」
「…………」
 思わずムズカシイ顔をしてしまいました。せんべいくわえた茜ちゃんが示した先は、なんとテレビの中の首相だったのです。首相が? 日本の代表が、サンドバッグ?
「……えと、茜ちゃん。それは一体どういう……」
 テレビの中の首相は、どこかのビルから出てきて移動の車に乗り込むまでの道すがら、通りすがりに記者たちに質問を投げられ写真を取られているのでした。
「……はぁ、かわいそう。まるで動物園のパンダみたいに扱われちゃってまぁ」
 気怠そうに言った茜ちゃんが、机にもたれて溶けまくっていた体勢からようやく戻ってくるのでした。姿勢を正し、凛とした顔をして、教鞭のようにびしとせんべいを振るったのでした。
「――いい? りな。政治の話を教えてあげる。どうしてこの国は、この国の政治は、こんなにも無難で当たり障りがなくてイス取りゲームで主体性がなくて責任の押し付け合い揚げ足の取り合いになっていて不毛で怠惰で情けなくて水っぽくて意味がなくて主体性がないのか」
「えっと……茜ちゃん、早口言葉得意だったんだね…………」
「普通、ありえないことでしょう? だって政治よ、首相っていったら大統領なのよ? なのに見なさい、ほら、あのパンダ!」
『――最大限慎重を期して、真摯に対応していきたいと思います』
 にっこりと不自然なまでの爽やかさで、中年が記者班に返答して去っていくのでした。
「ふふ……見た? もうまったくの台本通りね、探せば教科書にだって書いていそうな無難な模範解答だわ……」
「まぁ、あんなものだよねぇ」
「最大限慎重を期して? 真摯に対応していきたいと思います? ――はあ、哀れだわ。首相ともあろう者が、そんな当たり前のことしか言えないなんて悲劇よ。ぶっちゃけ、わざわざ言葉にするほどのことかしらアレ」
「あー……」
 言われてみれば確かに、最大限慎重を期すのも、真摯に対応するのも言うまでもない当然のことでした。
 そこで少し声のトーンを落とし、茜ちゃんはソファの上で体育座りして口元に手を当てるのでした。考えこむような素振り。
「えっとね、実はこれが根本的な間違いで原因だと思うんだけど。なんていうか、日本の政治って、確固たる“リーダー”がいないんじゃないかと私思うの」
「…………リーダー?」
 少しばかり、深遠が顔を覗かせたような気がしました。これが茜ちゃんのすごい所なんです。
「そ、リーダー。そもそもリーダーっていうのは、絶対的主導権を握る頭脳であり、その場所のボスって意味のはずなの。でもね――そうだ。象徴天皇制、ってのは聞いたことあるわよね?」
「ああ、なんか授業で習ったね」
「現代の日本において、天皇は象徴でしかないの。ちょっと不敬な言い方かも知れないけれど、政治的な視点で言えばお飾りね。何の決定権も持っていないわ。権力ゼロの形式だけの王様よ」
「おうさま……言われてみれば王様なんだよね。ちょっと、イメージしにくいけど……」
「でもね、天皇に決定権がない。権力がない。それは最近になってからのことよ。かつては、天皇っていうのは絶対的な権限を持った、文字通りの日本のリーダーだったの」
「はぁ……あの天皇さまが……」
「かのヒットラーが日本に訪れた時の話よ。絶対的権力を持った天皇家という唯一王の存在を見て、ヒットラーは感銘を受けた。そして驚き羨望した。血筋による王政というものはね、日本以外ではどんなに一生懸命維持し続けようと頑張っても、必ず崩壊してしまったらしいの」
「ああ、なんだかヨーロッパの王家なんかはギロチンとかもよくあったよね」
「その点、日本の天皇家はすごいわよ? なんと神話の時代からずぅぅっと天皇のまま血筋が続いていて、古さで言うと世界最古レベルなんですって。もう、筋金入りの王様、王の中の王、伝承に曰く神の子たる現人神の家系ね」
 色々と感心してしまいました。天皇ってそこまですごい存在だったのかと。
「……と、まぁ少し横道に逸れてしまったけど、要はそういう絶対的なリーダーがかつては日本にもいたってこと。いまとなっては、昔の話だけどね」
「でも……リーダーなら、いまだって首相がいるんじゃない? 歴史でもそういう風に教えられるし」
 日本の政治的リーダーは、天皇ではなく首相に移行している。ごく一般的な認識だと思うのですが。
「…………そうかしら。私には、あのおじ様に主導権があるようには到底見えないけど」
 静かな声で、茜ちゃんが指摘したのでした。
「なんていうか、首相って、本当に自分の考えで動いて自分の意思で発言しているのかしら? あれもまた、所属する党の象徴、って感じがして仕方ないのだけど」
「……うん。分からなくもないかな。政治家も団体行動みたいだし」
「それなのよ。首相が団体を動かしてるんじゃなくて、団体が首相を動かしてる感。どう思う? それって、少し歪んでるんじゃないかしら」
 一気に話しすぎたためか、そこで茜ちゃんは一度コーヒーカップに口をつけました。
「そうだね、うん。歪み国会がどうとかって聞いたことある気がするよ」
「そ。少し前の首相が別に能力でも人望でも財力でもなく、ただ単にお友達が多いから首相に成れてしまったのと同じ――政界はね、コネと人脈とお金で本当にただの椅子取りゲームをやっているのよ。椅子を多く取れれば、多数決なんだから簡単に意見が通ってしまうもの」
「怖いね。何が手段で目的なのかごちゃごちゃだ。何のための政治なのか分からないよ」
 テレビニュースが別の報道に変わります。どこかの大学教授が、現代のイジメを分析している映像でした。同じような体勢で茜ちゃんが述べます。
「――――主体性の、意志力のない、逃げてばかりの政治指針を見れば分かるはずよ。日本にリーダーなんてものはいないの。本当は首相なんて誰でもいい。誰かが成って、最初は支持されて、軌道に乗った頃に醜聞が出始め、つまらない揚げ足取りで『それは致命的なミスだ』と批判され、叩かれて叩かれて地の底に落とされて、クビにされてハイ次の首相。ずっとこんなことを繰り返しているんじゃないかしら」
 組んだ手がどこかの総帥のようです。
「ねぇ、頭のない蛇はどうなるの? どうすることもできない。脳がない動物なんて何もできない。人格性を失った機構は、温度を失い、効率化と省略ばかりを繰り返してそのうちに力を失っていくだけ。人を動かす機構が人間味を失って無難化していくなんて、ばかな話――――――政治なんて、生きた人間のためにあるものなのにね。」
 ふせられたまつ毛が、夕焼けを浴びてキラキラ輝いているように見えました。
 そういえば、日本に比べてアメリカの大統領はひどく人間的だなぁなんてつまらない感想を抱きました。どうしてか、日本のお偉いさんって、そういった人間味をそぎ落としきってしまっているような気がします。
 ――おそらくは、椅子取りゲームに有利だからなんでしょう。友達を増やして敵を減らすには、誰にでも優しい無難で都合のいい人になるのが最も効率的なのです。
「あ、ほら見てりな。国会中継だって。」
 言いたいことを話しきったのか、茜ちゃんは晴れやかな顔で笑うのでした。画面の中で、裁判所みたいに堅牢な空間が映しだされています。その、無数の議員さんたちが座っている大量の椅子がなんとなく目に写ってしまいました。
 しばらく見ていると、ずっと安定調子だった首相の言葉が、ぐらりと躓いてしまったように隙を見せたのでした。
 その、瞬間――
 無数の言葉が投げつけられるのです。競りの会場のようでした。我先に、と揚げ足取りを投げつける野党、それなりにフォローしようとする与党、自分に飛び火しないよう黙っているその他大勢。
 灰色の椅子。なんとか軌道を戻そうとするリーダーの笑顔ですが、その下ではどんなことを考えているのでしょうか。
「ふふ…………そりゃサンドバッグだって、できることなら人間を殴ってやりたいって思ってるんじゃない?」
 ずず、と茜ちゃんのコーヒーをすする音が、二人しかいない事務所に響きました。