#終章・観測者-noside-

「――――――」
 目が覚めると、いつも巳の刻も過ぎた頃。現代時間にして十時四十分ほど。まるで現代人のようだと、目覚めた瞬間から嫌になる。習慣による惰性でテレビを点けて、忌まわしき現代の世間事情を垂れ流す。初めは毒々しくて気分が悪くなった情報と嘘と誇張の羅列も、慣れてしまえば平坦にさえ思える。こうやってみんな麻痺していくのだろう。
 食パンとコーヒーの取り合わせは悪くない朝食だ。合理的で優れている。けれど、その優れた朝食習慣に逆らうように、私が慎ましやかに口にするのはこれだ。
「………………」
 寝間着のままで、ひとり淋しくみみっちくたい焼きをかじった。ところでトーストは素晴らしい発明だ。かりかりかりと、私はみみっちくたい焼きをかじった。現代はきらいだけれど、トーストは好きだ。合理的で優れている。あまいかおりがする。私はみみっちくたい焼きをかじった。
「……はッ」
 ほわほわしていた。目を真一文字に結んでたいやきくい虫まで退化してしまった私は、たいやきを食べ終え《うしなっ》て正気を取り戻し、色々と引き返すように渋めの緑茶をすするのだった。テレビの音は遠く、小さくささやかに朝を告げる。
「…………ずずっ」
 都会の朝はしろい。コンクリートのいろをしている。



 今日が、きっと最後の一日になる。残りひとつの宝玉を見ながらそんなことを考えた。
「…………」
 首からカメラを提げ、日差しの街の片隅で空を見上げた。今日は暑い。妙な気候だ。秋なのにいまさら突然暑くなるなんて、よく分からない。そういえば、テレビで異常な気象だとか気象が異常だとか言っていたっけ。
「まったく……天候まで破壊するんですか、現代人は」
 ぶつくさと文句を垂れながら、ストリートへ向かう。涼しめの服を買うために。――余談、私の現代における唯一の趣味は、きれいな洋服を購入することだ。そういうわけなのでしばらく、ショッピングを楽しんだ。私の気が済んだ頃、悪質なキャッチセールスが現れるのだった。
「……何やってるんだ。そんなおぞましい量の買い物袋を持って」
 あきれた声は、相変わらず神出鬼没な雨宮さんのものだった。たぶん雨宮さんだった。なにせ荷物がいっぱいで、雨宮さんの顔が見えなかった。声で判断した――というより雨宮さんしか知り合いがいないだけだった。渡りに船。
「雨宮さん。荷物、持ってくれますか」
「いいよ、と言いたいところだけどさすがにその量を持ってショッピングを続行するのは不可能だ。ひとまず家に置きに帰ろう。いいね?」
 ひょい、と荷物を半分持ってくれる。ようやく顔が見えた。
「……いいですけど。家には上げませんよ?」
「問題ない。早く荷物を下ろそう。ちなみにいくら豊かな現代でも、これは買いすぎだからね?」
 釘を刺された。水を差された。言い返す言葉はなかった。淡々と、山のような荷物を持った雨宮さんが、私の前を歩いて先導してくれる。本当に迷いがなかった。
「というか、どうして私の家の場所を知ってるんです?」
「ストーカーって知ってる?」
 ああ。



 午後の買い物は禁止されてしまった。私には現代を記録する義務があるのだ、このショッピングも現代観察の一環なのだと食い下がったら、だったら歴史博物館に連れて行ってあげようと言われたのでしぶしぶ付き従った。
「……文化的なストーカーがいたものです」
「何か言ったかい」
「なんでも。付き纏いで通報してやろうかと言ったんです」
 地獄のように退屈な歴史観察が続いた。知識を収集するだけなら済んでいる。大事なのは実感なのだ。
「まぁ、丹念に歴史を解説して伝えよう、という熱意だけは立派ですね」
「それはそれは。ご満足頂けたようで何より。」
 恭しく礼する銀髪さん。執事服とか似合いそうである。
「そういえば、このまえCDショップできゃーきゃー言ってる女の子たちを見ました」
「おや。お気に入りのアーティストで盛り上がっていたのかな」
「はい。綺麗に着飾った男性のグループでした。バンド? というもの。さすがに気になりますよね、あれだけ狂ったように騒がれると」
 “ソフトクリーム”を食しながら道をゆく。私は道端で機械を使って売っているものなんて不衛生だと反対したけれど、キミの時代のほうがよっぽど不衛生だろうと押し切られてしまった。仕方なく、本当に仕方なく私は蟻のようにみみっちく“ソフトクリーム”を食すのだった。
「頬についてる」
「……たべにくいです。こんな形に作るのが悪いんです」
「批判ばかりしない。で、どんなバンドだったんだい? お気に召したのかな」
「………………」
 あまりに気になって試聴した。一体、どれほどのものなのかと。CDの外装を見つめながら期待した。ビジュアル系とか言われるジャンル、結論から言うと。
「――――ひどいものでした。冗談抜きに、現代における最悪三大要素に入るんじゃないでしょうか」
 雨宮さんが、何故か衝撃に打たれたような複雑な顔をする。
「バカな。有り得ない。そこは不自然なくらいに感動するはずだ。趣味全開丸出しでビジュアル系全肯定して、いっそバンドに目覚めるはずだろう。一体何があったっていうんだ」
「はい? 何を言ってるのか分かりませんが、最悪でしたね。断固としてくそでしたね。まったく――見た目が綺麗なだけですよ。何の心意気も感じません」
 本当に、まったく、笑ってしまう。
「電気屋の電子辞書で調べました。格好だけだからVisual系、と言うんですか? というかあんな人がこのまえ繁華街にいましたよ。うちの店で働かない? って勧誘されました」
「……ホストか。なるほど、特に最近はあながち間違ってないのかもしれない」
 本当に、格好だけ。中身がない以前に、そこに在るべきものを全う出来てすらいない。どんなに歌唱技術が上手くたって、何も響かないのだから騙されはしない。
「…………彼らも大変なんだよ。察してやってくれ。音楽をやるはずが、時代の流れとともに女性の接待をする商売にねじ曲げられてしまったんだ」
「言い訳ですね。ダメなものはダメなんですよ」
 耳障りが良くて薄っぺらくて退屈だった。私が感じたものはそれだけだ。
「……ま。食べ物だけは認めましょう。そうですね、現代もさすがに豊かさを貪っているだけあって、食べるものにも困っていたような時代とは大きく水準が違う」
「なんだ。好きな食べ物でもあるのかい?」
 たいやきくい虫が飛んでいる。スカイツリーに飛んで行く。
「ありません。そんなの、まったくありません。さあ行きますよ、私は仕事に忙しいんです」
 “ソフトクリーム”の包み紙をコンビニのゴミ箱に棄て、私は蝶の模様のカメラを掴む。五つめの宝玉。これで最後の撮影になるだろう。
「言っておきますが、ついて来ないでくださいね。業務妨害です」
「ああ、程度は心得ているよ。現代社会に生きる人間として、人様の仕事の邪魔になるのだけはいけない。それで? 本日はどのようなものを撮影するご予定で?」
「さて、なんでしょうね。」
 では、見届けよう。夜の街を守護していた知られざる戦士―――“朱里”の物語《はなし》を。



 朱里《かのじょ》とは、何かの間違いでほんの少しだけ話す時間を得ることが出来た。といっても、決して穏やかな関係ではなかったけれど。首に突きつけられた切っ先を見下ろしながら、何度体験しても死の危機が平気になることはないのだとつまらないことを考えた。
「……誰?」
 宝石のような朱色の瞳に見られながら、卑しい私《カメラ》はシャッターをきる。
「見ての通り、通りすがりのカメラ趣味ですが」
「そう。じゃあ、ひとまずそのカメラは没収する」
 絶句した。このアカイロ、いきなり怖ろしいことを言う。
「……アホですか。ダメに決まってるでしょう、私に死ねと言いたいんですか」
「意味がわからない。この青色。カメラを奪われたら死ぬと言うの?」
「死にますよ。当たり前でしょう、役目を奪われたら終わりに決まっています。あなただって似たような“もの”でしょうに」
 びくびくと怯えながら、しかし私も必死だった。私がカメラを奪われたら終わりというのは比喩でも何でもない。だっていうのに、この赤いのは勝手に穏やかに笑うのだ。
「そんなこと、ない。きっと役目を終えたあとにも人生はある」
 日陰に咲く花のような、ささやか願い。あるいは平穏を夢見る兵士の微笑。その願いは、きっと叶わない。
「まぁ、いい。そこまで言うのなら、きっと何か事情があるのでしょう」
 美しい西洋剣を鞘に収める。その音色すら麗しい。憂いの瞳も、彫刻のような目鼻立ちも。気は合わないけれど、被写体としては最高だ。
「物分りの良い人は好きですよ。その気があるのなら、何枚か綺麗に撮影してあげますが」
「そう――そうね。明日私がいなくなっても残るものか。それもいいのかも知れない」
 夜の駅前、誰も通らない薄暗い高架。私はシャッターをきる。星空のような街の明かりを背景に、手すりに手をかけた緋色の少女。風になびく、柔らかそうな髪。少女の人生に似合わない、穏やかそうな茶色の制服はきっと平穏の象徴。いまこの瞬間、この場所に、緋の眼の少女は確かに実在していた。
「ねぇ……」
「なんです?」
「あなた、何者?」
 気だるそうに問いかけてくる朱色。自然体でも猫のように画になっている。私はファインダーの中しか見ていない。
「よく聞かれますけど、何者って何なんでしょうね。このご時世に、確固たるアイデンティティなんて持ってる人がどれほどいるんでしょうか」
 手すりにもたれた朱色の少女が、不服そうに頬をふくらませる。



 そうして、“私”はすべての物語の観測を終えた。
「……………………」
 蝶の模様が刻まれたカメラ。その五つの宝玉すべてが、生きているように穏やかな明かりを明滅させている。またしても歩道橋の上に立ち、ここまでの数日を思い返す。
 感慨深くないわけでもない。始まりは先が見えないものだけれど、結末まで辿り着いてみればこんなものだ。
「終わって――しまうんですね」
 大気が、夜の街が低く唸っている。気にしなければ気付きもしないような低い音。この地鳴りは、“門”が開く音なのかも知れない。――案の定、遠い夜空を遮るように、大きな影が見えたような気がした。それは地上五十メートルはありそうな、真っ黒な無機物の影。しかしまだ具現化していない。もう間もなくあれはこの世に顕界し、私を元の居場所へと導いてくれることだろう。
「ああ……」
 終わった。もう、あとは帰るだけ。肩の荷が下りた気分だ。しかし、そんな私の安堵に水を差すように。
「どうも、こんばんはお嬢さん。最後の一日は楽しめましたか」
 影が、現れる。氷の死神、神代キョウイチロウ。暗黒を纏った得体の知れない存在。その冷たさに震える。
「重い大気……まるで鉛のようだ。尋常な呪いではない。やはり、あなたは殺すべきだ」
 死神は、察知している。もうじき私が帰るために門が具現化することを。けれど、こんなおぞましいものを連れて帰るわけにはいかない。カメラに写しとった五つの記録を、私はどうしても安全に持ち帰らなければならない。
「もう時間もなさそうだ。まずは、アナタから死体に変えるとしましょう」
 冷気が踊る。私は歩道橋の反対側へと駆け出し、叫んだ。
「雨宮さん――ッ!」
「分かってる、しゃがんで!」
 言われたとおり、頭をかばってしゃがみ込む。途端に私の頭上を何か、ボールのようなものが飛んでいった。急速な熱波とおぞましい破壊音。それは死神に着弾した途端に炸裂し、怖ろしい威力を振りまいた。爆煙の中、雨宮さんに腕を掴まれる。
「立って! 逃げるよ!」
「い、いまのは――」
「野球ボールに火薬を仕込んだ、即席爆弾さ。さすがに死にはしないだろうけど――」
 ――その時、ぞっとする。雨宮さんの背後に、影を見た気がした。
「ぐっ!?」
 金属の音色。雨宮さんが、咄嗟にナイフで受け止める。死神は無傷で、氷で出来た刃を腕から生やし、雨宮さんと拮抗していた。その怪物のように得体のしれない双眸が、告げる。
「同じ手は、通じない」
「く――走って!」
 すぐさま切り結ぶ雨宮さんと死神。とにかく必死で、もつれる足で私は駆けた。私の背中を庇うように、雨宮さんがついて来てくれる。
「すぐそこにバイクがある。そこまで逃げ切れば勝ちだ」
 雨宮さんが、希望を提示してくれる。私は相変わらず死の恐怖に慣れない。転がり落ちそうになりながら歩道橋を下った。
「――――」
 階段上で、ナイフと氷が衝突している。すぐそこにバイクがある。けれど一抹の不安がよぎる。
 死神は、「同じ手は通じない」と言ったのではなかった?



「………………」
 再現のように、二輪車に乗って雨宮さんの背中にしがみついていた。
「…………振り切れた、みたいですね」
 背後に死神はいない。流線型の夜を駆け抜けていく。私たちは、無事に逃走に成功したらしい。
「ああ。どうかな、現代の技術も捨てたもんじゃないだろう?」
 確かに、二輪車は嘘みたいに早足だ。獅子だって振り切れるだろう。人間の足なんてお話にもならない。
 この吠えるような駆動音は、機関部分が絶え間なく連続破裂を起こすことによって繋がって聞こえているらしい。人間の聴覚で隙間を聞き取れないほどの連続破裂。その有り余るエネルギーを、歯車とチェーンで繋いで推進力に変えるという、想像もしなかったような精緻で快活な発明。
「……そうですね。確かに、技術は高度でした。まるで魔法みたいに」
 手の中のカメラが重く感じた。この中に記録された光景は、始まりの日の想像を遥かに超えている。それが良いものかは悪いものかは分からない。私の主が満足してくれるかも不明だ。けれど、ひとまず荷が軽くなったことだけは喜ぶべきだ。
「ご協力感謝します。意味のあるものが撮れました」
 何度も命を救われた。思うところもある。雨宮さんの背中の安心感も今夜で終わりだと思うと、物思いがないわけでもない。
「それで、一体どこに向かえばいいんだ。このまま家に帰るのかい」
 思えば、彼には助けられてばかりだった。そして、私はずっとごまかしてばかりだった。そろそろ逃げずに向き合ってもいいのかも知れない。
「……留めてくれますか。できれば、見晴らしのいい場所で」
「え――」
 ミラー越しの雨宮さんが、驚いた顔をする。



 小高い山を上る坂道の途中。縁条市を一望できる場所に二輪車を停めて、私たちは意図せずこの街の夜景を見ることになった。
「田舎のくせに……夜景はきれいなんですね」
 地方県、縁条市。かつては何もなかったこの場所は、現代においてもやはり、首都と比べられるはずもないような田舎町に位置づけられる。それでも、星粒のような夜景だけは都会のようだったのだ。
「そうだね。普段はあんまり意識しないけど、改めて見ると、これはこれで悪くないのかも知れない」
「………………あの辺り、長い道路が走っていますね」
 ああ、と雨宮さんが頷いた。
「あれは高速道路だ。一般道と違って、長距離の移動を行う専用だね。まっすぐに遠くへ運んでくれる。まぁ残念ながら、いまは工事中で閉鎖されてるんだけどね」
「……そう、ですか……」
 その高速道路の途中、私には視えている。具現化しようとしている巨大な影。夜空を低く低く震わせている唸りの正体。雨宮さんは、まだ気づいていない。私は二輪車に腰掛けて、遠く見える影を片手で撮影しながら雨宮さんに言葉を投げた。
「あんまり詳しく、話しませんでしたね。私の“依頼主”のこと」
「そうかい? まぁ、確かに曖昧な話ではあったけど。なんでも、墓の下で眠っているような遠い遠い時代の人なんだろう?」
「………………」
 それは、間違いではない。けれどそれで全てでもない。私の依頼主――いや、私の“本体”とでも呼ぶべきそれは、同時に母でもあり、帰るべき場所でもある。
 ――大気が冷え込んできた。冷たい風に、髪が流れる。
「…………雨宮さん。家族が死んでしまったことは、ありますか?」
「――――」
 風が変わったのを、雨宮さんは察した。まっすぐに私を見つめ返しながら、しかしいつもの調子を崩さない。
「……さぁ、どうだったろう。でも、祖父や祖母が亡くなったかも知れないね」
「あはは。曖昧ですね。お互い」
「そうだね。僕たちは、似たもの同士なのかも知れない」
 そんなことは、ない。雨宮さんは勇敢で、私は卑怯だ。人間として、雨宮さんはあまりにも善人だった。そんな彼になら、話してもいいと私は思っていた。
「身内が死んでしまって、悲しかったですか?」
「もちろんだ。悲しくないはずがない。あれ以上の悲しみはこの世にはない」
「そうですよね。それが当然です。けれど――それ以上の悲しみも、この世にはあるのかも知れない」
「え――」
 低く低く、夜が唸っている。私はひび割れた、老婆のようなかすれた声で真っ暗な呪いを口にする。
「あなたは、まだ“死んだ”ことがない。生きている人だから、身内の死の悲しみを知っていても、自分が死んでしまう悲しみは理解できない」
 雨宮さんの瞳が私を見ている。少女は、死んだ。深い深い森のなか、逃げ切れなくて死んでしまった。自らの足の遅さを呪いながら死んだのだ。その悔しさは、死んだことのある者にしか理解できない。間際の地獄のような苦痛の中で、頭のなかが真っ赤に染まるような悔しさと悲しみと憎悪に塗りつぶされて、それでも為す術なく死んでいく時の心境は理解できない。――たん、と私の足はアスファルトを踏んだ。
「それはとても幸せなこと。でも、だからこそ気付かなくても仕方ない。あなたはまだ生きている」
 別れを告げるように、最後の未練であるかのように、私は雨宮さんの耳元に囁いた。
「…………その幸せは、どうか大事にしてください」
 もう二度と、その幸せを抱けない“すべて”に代わって。
「……な」
 そろそろ、雨宮さんも気付いたらしい。地響きが聞こえる。もう間もなく“扉”が具現化する。底なしの呪いが、長い長い何百年もの潜伏を終え、この地上に現界しようとしている。
「“無縁墓”――って知っていますか」
 何度か、現代の墓地を撮影した。どれもこれも綺麗に掃除されていたけれど、放置されて雑草まみれになっていた墓も確かにあったのだ。
「人はいずれ死んでしまう。誰もかれも次々と死んでいく。その中で、すべての身内がいなくなり、“縁”を絶たれてしまった墓は“無縁墓”と呼ばれます」
 誰も、思い出す者のいない墓。誰にも悼まれることのない死者。もう本当にただ、土の下で眠るだけ。
「そんなのは悲しい。ねえ――死んでしまった人の思いは、一体どこへ行くのでしょう。忘れ去られ、一人ぼっちになってしまった想いは――いったい、どこへ行けばいいのでしょうか」
 高速道路の真ん中で、具現化していく。私は記録した。現代のたくさんを。そして、死神はそれを妨害しようとした。私が“何者”であるかを知っていたから。
「あなたは、私に“何者か”と問いました。私の依頼者を“何者か”と問いかけました」
 現代の街を知りたがっていた者。私の周囲を、極彩色の蝶が舞う。役目を終えた私を祝福してくれている。もう帰らなくてはならない。この世のものではない、色とりどりの蝶が舞っている。
 ――そうして、閃光が夜を引き裂いた。街を震わせる桁違いの轟音。強大な落雷と地響きを伴って、ついに“扉”がこの世に具現化した。
 雨宮さんが、呆然と、夜の街の真ん中に具現化したそれを見ている。黒い黒い石の表面。高層ビルのように巨大で、底なしの呪いを滲ませている。まるで城。夜景を遮るように現れたのは、大きな大きな“黒鳥居”だった。
「何なんだ、あれ…………」
「…………」
 現世と冥界の中間地点。周囲を舞う蝶が、『言ってはいけない』と囁く。けれど。
「……あれは、“冥鬼の扉”と言います」
「冥鬼の…………扉……?」
 あれこそは、私が帰るべき場所。そして私の依頼者でもあり、いずれすべての人が還るべき場所でもある。まるでこの世の光景ではない、極彩色の光を纏った鳥居。私はガードレールに背を預け、あの“門”を担う一員として、問いかけた。
「ねえ雨宮さん。――――――“黄泉の国”って、信じますか?」



 二輪車は、高速道路を狼のように疾走していく。街の真ん中に現れた、巨大な黒い鳥居に向かって。夜空の闇に溶けて、黒い幻想の鳥居は見失ってしまいそうなものなのに――あの、この世のものではない光芒は、目をそらせるものではない。
「……本当なのかい。黄泉の国って」
 少しずつ近くなる大鳥居。あれをくぐれば、私の記録は終了となる。心地よい風に吹かれながら、私は目を閉じる。
「さて、どうでしょうね。無理に信じなくてもいいんじゃないですか。あなたは、そういったものを否定する立場にあるようですし」
 目を閉じればいつでも暗黒。静かな視界はどこでも同じ。けれど、現代人は瞼の裏の静かな場所さえ忘れているのではないか。こんな現代批判も、もうじき終わりだ。
「最後まで曖昧か。なんていうか、君らしいよ」
 あきれたように、笑われる。私も笑った。雨宮さんは不思議な人だ。まるで――そう、はるか昔の、兄の笑顔を見ているような。そんな雨宮さんに、私は伝えなければならない言葉があるのだった。
「あの――――雨宮さん……」
「……なんだ、あれ」
「え?」
 私の声を遮るように、雨宮さんが不穏なことを言った。
「ミラーを見てくれ」
 言われて、鏡を注視した。確かに、遥か後方、高速道路の真ん中に何かいる。影のようにぴったりと背景にくっついている。ギラギラに輝く巨体。重々しい駆動音。アスファルトを踏み砕かんばかりの超重量。いっそ家屋のような圧倒的な重圧感だった。
「速いですね……どんどん追いつかれてますよ……」
 どくんどくんと心臓が震える。有り得ない。現代の悪夢が駆けてくる。どうやったって逃げ切れない。いや、一体いつからあんなのと鬼ごっこをしていた? まるで身に覚えがない――けれど私は、現代に来た始めの日から鬼ごっこを強制されていたことを思い出す。
「……おかしいな。この高速道路は工事中のはずなんだけどね」
 白々しい、雨宮さんの言葉。ごまかすのが下手なのだ。もう間もなく、トラックが四〇メートルを切り、私たちを射程に捉える。無遠慮なクラクション、すさまじい騒音に電飾。
血塗れた運転席に座って派手にハンドルを回していたのは、やはりあの氷の死神だった。
「…………冗談でしょう……」
 石ころみたいに吹き飛ばされる、パイロンに鉄柵。塀を削りながら爆走している。あれは破壊の化身だ。あんな超重量に突っ込まれれば、二輪車なんてきっとあっさり虚空に投げ出されてしまう。そんな折、雨宮さんの電話が鳴った。言われるがままに通話を繋ぐ。
『――やあ、こんばんは記録者さん。どうです? 夜のドライブを楽しんでいますか』
 運転席の死神は、優雅に一服するように電話を手にしている。耳元に冷気が突きつけられている。トラックは、遊びのように障害物をなぎ飛ばし、次々と高速道路の外に放り捨てていく。
「…………下手な運転ですね。持ち主に怒られますよ」
『心配ご無用、運転手はきちんと殺しておきました。――ほら、そっちだけ乗り物なんてずるいでしょう? フェアな殺し合いをするには、やはり僕にも必要かと思いまして』
 殺した? そんな遊びのように言われるとまるで現実感が沸かない。震える喉を自覚する。
「あなた……やっぱり、狂ってるんですね」
『何度も言わせないで欲しい。狂っているのは、僕ではなく、僕を肯定しないこの世界のほうだ』
 意味がわからない。どうして、この死神はこんなにも冷静で平静なのだろう。
「…………何を……」
『人は惨劇や悲劇が好きだ。惨たらしい死に様であればあるほど愛おしい。それがか弱い女子供であれば尚更、結末に至る過程が痛ましくて苦しいものであればあるほど、それを見て喜ぶ人間も比例で増える。感動感動と言うが、彼らは涙を流して喜んでいるだけだ。あなたには分からないでしょうが――――現代人はね、他人の不幸が大好きで大好きで仕方ないんですよ』
 理解できない。そんなの、あるはずがない。もし死神の言うことが真実なら。
『退屈余って人の死を喜ぶ。血まみれの殺人現場を見るや携帯電話を取り出し、パシャパシャ撮影してSNSで被害者の尊厳を撒き散らしては大喜び。同情も批判も興味だ。その興味に雇われたように、記者が大衆の民意だと言い張っては遺族や関係者の人生をペンで引き裂いて好きなだけ内蔵をほじくり返す。知られては生きていけないような秘密まで暴いてテレビで流し、それを見てまた大衆が喜び、批判し、ほじくり返して消費する。それも――――やはり、惨たらしい事件であるほど波紋は大きくなる』
 ……吐き気がする。現代は、地獄か。
「耳を貸してはいけない。君が自分の目で見たものだけが真実だ」
 背中越しの雨宮さんが、勇気をくれる。そして私は私を取り戻す。この数日間で出会った、カメラに収めた五つの物語を。
「……それでも、そんな悲しい世界で懸命に生きてる人たちがいた」
 忘れることは出来ない。悲しくも優しい彼女らの日々を。
「世の中はおぞましい。たくさんの落とし穴で溢れてる」
 すべてを失った怪獣マニアがいた。彼女自身すらも覚えていないたくさんの悲劇。もう、言葉さえおぼつかなかった。
 誰にも気付かれなくなってしまった無色の少女がいた。すべてが他人で、雑踏の流れに溺れるようだった。
「でも呪いをまき散らす怪人ばかりじゃなかった。前向きに笑って生きている子たちがいました。それだけで、十分です」
 謂れのない理不尽を押し付けられる子供がいた。彼女は、決して恨まなかった。
 怪物と戦う緋の眼の少女がいた。彼女の戦いに明け暮れた日々はきっと誰にも気付かれず、また報われることもない。それでもみんなを守るために戦う少女は気高く美しかった。
 私が見届けた現代は果たして良いものだったろうか、それとも悪いものだったろうか。答えなど、決まりきっていた。
「この世界は、白でも黒でもありません。どちらか一方なんてことはない。私たちの人生は善でも悪でもない。誰かが勝手に決めつけるなんておこがまいしくらいに、そのくらいに大切なたくさんの物語でひしめき合っている。それに、私の唯一関わった現代人は――」
 ぎゅっと、シャツの背中を掴んだ。
「――――私を、何度も何度も助けてくれました。それを証明してしまったのは他でもないあなたです。」
 最後には、伝えなければならない。とてもとてもありふれた、月並みな言葉と別れを。
「私は必ずこの記録を持ち帰ります。あなたには、奪わせない」
 死神に立ち向かう勇気をくれた。相変わらず、死の恐怖には慣れないけれど。
『君は無力だ』
「ええ――でも、私のストーカーを甘く見ないことです。この人は呪いを隠し持っていますよ」
 それきり、通話を切断してやった。風の音だけが残る。雨宮さんは静かに言った。
「…………いつ気付いたんだい」
「知りませんよ。適当に言ってみただけです」
 そんなの、私が知るはずがない。風のなかで顔を上げる。黒い鳥居――“冥鬼の扉”は、既に見上げるほど近くなっていた。
「――もう、あと少しですね」
「ああ……でも、ここまでかも知れない」
 緊迫感の滲む声。雨宮さんらしくもない。けれど、悪夢のようにトラックが近づいてくるのが見えた。変わらず障害物をまき散らしながら、ぐんぐん迫る。あと数秒もすれば追いつかれるだろう。
「そんな……どうして!」
 重量もまるで違う。あんな鈍重そうな乗り物に追いつかれるはずがないのに。
「そりゃあ、排気量が20倍ほど違うからね。いや、これは不味いな――」
 冷静そうに聞こえるけれど、ここ数日で耳にしたどれよりも深刻なのが分かる。そして、もう一度ミラーを見た時――
「――――え?」
 トラックは、いなくなっていた。視界から消えた。何故か月光が遮られている。
「あ…………」
 びくり、と手が震えた。すい、と頭を出すイルカのように、私たちの真横に、死のトラックは並走していたのだ。近くで見ると、なんて重量感。生きた怪物のようなその巨体に、まるごと影に覆われる。そして、血塗れた窓ガラスの向こうで笑う氷の死神が見えた。
「つかまって――ッ!」
 悲鳴を、あげていた。死神が思い切りハンドルを切ったのだ。進路を変えたトラックは、側面をコンクリの塀に叩き付け、火花と瓦礫と破片を散らした。雨宮さんが急減速したお陰で、私たちは辛うじて潰されるのを回避している。
「……痛……」
 頬に触れる。破片がかすったのか、血が流れていた。目の前の出来事が信じられない。一歩違えば、私たちはトラックの巨体に潰されていたのだ。そして、その巨体はいまも目の前にいる。ぎゃりぎゃりとコンクリの塀を削りながら駆けている。
「っ!」
 今度は、悲鳴を上げる暇もない。急減速して接触しに来たトラックを、二輪車は急旋回して進路をねじ曲げることでかろうじて回避し、横を抜けて前に出る。トラックの側面をなめるような回避だった。私のシャツがトラックをかすめ、後部の方向指示器がパンと音を立てて弾け飛ぶ。
 再度、今度は斜め後方から私たち目掛けて突っ込んでくるトラックを、逆方向に進路を曲げることで躱し、トラックはまた塀に激突して高速道路全体を揺るがすような威力を振りまいた。そのまま止まってくれればいいものを、バランスを崩して一瞬タイヤが甲高い音を立てたかと思えば、すぐに復帰する。
 風が叩きつけてくる暴速の世界の中で、私は何度も振り落とされそうになった。無我夢中で雨宮さんにしがみついてた。
「しんみり終わりたいですよね。最後くらい」
「同感だ。アクション映画はTSUTAYAで借りたDVDだけでいい。実体験するものじゃあない」
 まったくそのとおりだ。こんなのは、悪夢でしかない。
「……ストーカーに追われるのはうんざりだ。もう、終わりにしないとね」
 また、すんでのところで回避する。まるで生きた心地がしないのに、心のどこかが冷静だった。全身の震えが止まらないくらいだけれど、それを自覚すまいと必死だった。
「あら。ストーカーはあなたじゃなかったんですか?」
「そうだった。でもね、僕は男に追われるのは嫌いだということがよく分かったよ。特にあの手の異常者は一等好かない」
 死神は、運転席で笑っている。何が楽しいのか、笑っている。怖ろしい速度。吹き付ける暴風。自分自身が死ぬかもしれないこの状況で。
「知ってるかい。自動車は乗り心地が格別だ。外の風景が架空の映像に思えるくらい」
「羨ましいですね。そんななのにどうして二輪車なんて乗ってるんですか。何の利益もないじゃないですか」
「ははっ。そんなこと言ったら、持ち主に怒られるよ」
 それはいけない。命の恩人だというのに。
「さて――そろそろ、終わりにしようか」
 もうじき終わりに差し掛かる。私の帰るべき鳥居がだんだんと近づいてきた。変わらず、死神がむちゃくちゃな運転で私たちを潰そうとしてくるけれど。
「勝算はあるんですか」
「あるよ。幸いにも、僕は遠投が得意だからね」
「遠投?」
 そう言った雨宮さんの左手には、真っ黒なナイフが握られていた。角張っていてサメみたいで、外国の軍人が使っていそうな無骨なものだった。
「問題は、自分自身が躱せるかどうかだけどね」
 ナイフが、飛んだ。カラスの飛翔のようだと思った。運転しながらの左手のアンダースローだというのに、不思議なくらいに飛距離は伸び、看板を支えていた鉄骨に向かっていく。――そして、不思議なことが起こった。
「――!?」
 ・・・
 崩れた。何の間違いか、ナイフの衝突した鉄骨や看板が、まるでネジが外れてしまったように一斉に落下。緩慢に墜落したそれは、高速道路を大きく揺るがし、長い尾を引いて道路上に散らかった。
「何が――」
 たったのナイフ一本きり。そんなもので、雨宮さんは一体何をしたというのか。
「ど、どうするんですか!?」
 進行方向は、看板や鉄骨が跳ねている。こんな状態でも、怖いもの知らずの死神はこちらを押し潰そうとしてくる。雨宮さんも、死神を振り払うように更にスピードを上げる。このままでは障害物に正面から突っ込むことになる。その状況で、雨宮さんはついに秘策を口にした。
「――――――――さぁ? どうしようか」
 爽やかに笑って、そう言った。私は強烈に酸っぱい梅干しを噛んだ時の顔をする。
 ばか、と私は叫んだ。雨宮さんにしがみついてとにかく長く長く叫んだ。その直後に起こった出来事は本当に一瞬で、たぶんただの偶然だった。
 死神の目が、爛々と輝いて私たちを見下ろした。障害物が目の前に迫るこの状況で並走した。ブレーキを掛けるどころか、ここ一番とばかりに加速したのだ。それに対し――雨宮さんもまた、決死の瞳で死神を見返した。グリップを捻り、二輪車が吠えたけり、そうして何故か、左手をパーカーのポケットに突っ込んだのだ。――――その時、どこからか、花弁を乗せた風が吹き込んだ気がした。携帯電話を取り出し、雨宮さんが不敵に笑った。
「……二時四十七分ジャスト。すべての未来的日記の呪いを集めた携帯が、ついに爆発する」
 遠く木霊する、少女の笑い声。何かが、起きた。黒い二輪車が、まだ余力を隠し持っていたのか最後の超加速を見せた。ぐんとトラックの前に躍り出て、そして雨宮さんが携帯電話を捨てる。暴速の世界の中で宙に浮遊する携帯。無表情になる死神の、そのトラックの下に潜り込み、そしてアスファルトに着地するより早く、――――大気が膨らんだ気がした。
「っ!?」
 私が見えたのはそこまでだった。熱波が吹き付け、背後が輝く。それどころではなかった。目の前は障害物が散らかっている。二輪車は、落下した看板に前輪を乗せる。看板は、鉄骨を踏んでいた。斜めになった看板を踏み、駆け、二輪車が重力から解放される。
「い――っ!?」
 雨宮さんにしがみついていて正解だった。目に写ったのは夜空だけ。障害物を飛び越える。私の腰は二輪車から離れる。空中で、本当に浮いてしまったのだ。繋ぎ止めるものはただ雨宮さんにしがみついていた腕だけ。そしてタイヤがアスファルトに跳ね、私たちは地面に帰還する。私は悲鳴を上げたくった。雨宮さんさえ声を上げた。それほどまでに、間一髪の出来事だった。
「………………」
 奇跡のように、走行を再開する。ミラーを見ると、歪んでいてちゃんと背後が見えなかった。代わりに、重々しい質量が障害物たちに激突する音が、この世の終わりのように響いて高速道路を揺るがした。
「……………振り落とされてないかい。たぶん振り落とされてると思うけど、一人で走り続けるのも悲しいからひとまず生存確認を」
 あきれた人だ。こちらはもう息絶え絶えで、いまにも気絶しそうだったけれど、涼しい夜風が混乱を拭い去ってくれる。だから、不思議と冷静に、私は雨宮さんの背中に頬をつけるのだった。
「………こんな時までケータイ頼みだなんて。現代人は本当に病気です」
 雨宮さんが笑う。大きな背中。私もなんとなく笑ってしまう。そういえば、ここは吊り橋の上だった。



 高速道路で二輪車を停止し、雨宮さんと向き合っていた。すぐ背後には、巨大な黒鳥居がそびえ立っている。終点の直前で、私たちは夜風に身を浸す。
 夜景を見ながら思い出す。シャッターを切るのを忘れてしまっていた。そんなことにも気付かないほど、怖ろしい状況だったのだと再確認する。
「う……」
 心臓が痛い。恐怖体験にも限度があるのだろう。
「カメラは無事かい?」
「ええ。不思議なことに」
 非難の目を向ける。気にした様子もなく、いつまでもこの人は飄々としている。それがとても憎らしくて、少しだけ羨ましかった。
「…………雨宮さんは、平気なんですね」
 とても、勇敢だった。はじめから最後まで。雨宮さんだけが、揺るぎない希望だった。
「平気なことなんて何もないよ。僕だって、怖ろしいと思ったし、本当に死ぬかと何度も思った」
「なら――どうして」
 恐怖しながら、人間はあんなにも勇敢に抗えるものだろうか? しかし雨宮さんは、いつもと変わらず優しげに笑うだけなのだ。
「恐怖に屈せず、あの死神と張り合えた理由かい? それはなんていうか、まぁ――覚悟とか、諦めとか、何より守るものとかのお陰なんじゃないかな」
「………………」
 名残惜しい。この最後の場面になって、そんなことを考えてしまった。
「ぁ――」
 とくんと胸が震える。この人は、とても知性的で優れている。生き残ることに長けているし、頭だっていい。雨宮さんは、この現代の中に在ってけれど孤高だった。利便化され、飼いならされた現代人の中で生きているのに、なのにこんなにも力強い。それはとてもずるいように思えた。
「…………はぁ」
 いつもいつもそうだ。彼だけは、一人だけ違う場所にいる。彼だけがとにかく先へ行く。
「……短かったですね。」
 もう別れの時だ。周囲を、極彩色の蝶が無数に踊り始める。黒鳥居の奥へと誘っている。残された時間は、もうほとんどない。
「最後に一枚、いいですか?」
 私はカメラを掲げ、雨宮さんに提案した。
「ああ。恐怖の死神から逃げ切った記念に。出来れば一緒に撮りたいね」
「そうですね、仕方ありません――」
「え……?」
 呆気にとられた雨宮さんの横に並ぶ。しがみつくように雨宮さんを引き寄せて、自分たちに向けてシャッターを切った。まるで恋人か何かのように。雨宮さんの腕は、細い見た目にも関わらず筋肉質だった。
「――――………」
 これで、おしまい。本当に、おしまい。
「……帰るのかい」
「そうですね。そのようです」
 私の体から、きらきらと輝くものが溶け出ていく。それは私自身。“冥鬼の扉”へと帰る時が来てしまったのだ。
 短い数日間だった。いろんな場面があったけれど、それらはつい一時間前の事のようで、けれど遠い昔のようで。――黒鳥居が発光し始める。まるで地上に落ちた太陽。幾億の蝶が溢れ出す。観測者“わたし”を迎え入れるために。
「ああ、そうだ。月並みではありますが――」
 極光の中で、最後に雨宮さんに笑顔を向ける。ずっと伝えなければいけないと思っていた。それは本当に、本当に月並みでありふれた言葉だけれど。
「助けて頂いて、ありがとうございました。何度も何度もあなたに命を救われました。何もお返しは出来ませんが、これでお別れです」
 雨宮さんが、何も言わずに淋しそうな顔をする。そんな顔しないで欲しい。適度な距離を保ち続けた私たちは、最後はさっぱりドライにお別れするべきなのだから。
「…………よかった。お礼も言えずにどこかで終わっちゃうんじゃないかと、ずっと心配だったんです」
 心残りは消えた。あとは、彼の未来があるだけだ。死人である私には、そんなものはないけれど。
「――どうか、無茶だけはしないでください。あなたは、あの邪悪な怪物たちの側に、とても近い」
 それは死神であり、火を噴く怪物であり、緋の眼の少女の敵であり。彼にはどこか影がある。気付いていはいけない闇がある。その暗黒は、きっと彼自身の呪いだ。雨宮さんが、痛いところを突かれたとばかりに笑う。
「……仕方ないだろう。呪い持ちなんて、そんなものだよ」
 カメラを掲げる。光を放つ。
「――――あと、恋人のこと、大切にしてください。あんまりほったらかしにしちゃダメですよ?」
 カメラは、蝶になって霧散した。それが、私。私の正体はカメラだったのだ。だからそこでぷっつりと、肉体の運用は終了する。たくさん買い集めた洋服たちともこれでお別れだと思うと泣きそうだ。
 光の中を、蝶に成った私は翔ける。五つの物語の記録、五色の蝶を引き連れて私はこの黄泉の国、“冥鬼の扉”へと帰還する。
 果たして私の観測がどのような意味を持つのか――それは私には、知れないけれど。