#朱里-RED EYES-

 その後、いつものように事後処理屋に処理を任せ、俺は夜の街を後にした。玄関を開ける辺りで、先生とアユミもちょうど帰ってきたところだった。既に事後処理屋から連絡がいってたらしく、二人とも既に事情を把握していて、特にアユミの方は心配してくれた。
「大丈夫? どこか傷めたりしてない?」
 暗澹としていた心が少しだけ晴れる。しかし、それですべてが報われるわけもない。開いた右手の中には、言いようもない無力感だけが残されていた。
「……結局、朱里なんて人間は存在していなくて、全部幻だったってことだろう」
 いつでも冷静な先生は、そう言って事件の振り返りを締めくくるのだった。アユミも曇った顔をした。真実など誰にも分からない。一体、俺たちの知る朱里が何者で、どこから来た者だったのかも不明だ。ただひとつ確かなのは、朱里は確かに俺たちと出会い、そして死体も残さず消えてしまったのだということ。
「…………なんか、淋しいよな」
「そうだね。せっかく出会えたのに、お葬式も出来ないなんて悲しいよ」
 そんなことは、今に始まったことではないのだが。
 翌日真昼、自室でアユミと過ごしていた俺はふと思い立って立ち上がる。
「行ってくる」
「え、どこか行くの?」
「ああ。散歩だ」
「そう……」
 読書していたアユミは、静かに気遣うように笑ってくれた。
「いってらっしゃい」
 伊達メガネのアユミに送り出された。家を出た先、真昼の縁条市は残酷なくらいにいつも通りだった。
「さて……」
 ペットショップへ寄って行こう。別に、犬や猫が好きなわけではないのだが。



 一人、マクドでブロードウェイバーガーセットを買って食べた。顔見知りの店員に接客される。
「店内で?」
「いや、今日は持ち帰りだ」
「あら珍しい。病気? そうそう、この前一緒だった女の子はどうなったのよ」
 苦笑いするしかなかった。すると、女は不思議な顔をした。心配そうな、気遣うような、しかし羨ましそうな不思議な顔だった。
「元気だしなよ。フラれたって、また次があるって!」
 そのつまらない勘違いをしかし、なんとなく都合もいいので放っておくことにした。マクドを出て、なんとなく駐車場の縁石に迷わず腰を下ろすのだった。
「なんでまた、俺はジャンクフードなんか食ってるんだろうな」
 実に美味い。健康をドブに捨てて味わうものほど享楽的で旨いものはないだろう。人間というのは、程よい毒物が大好きなのだ。
「って、なんだコラ。やんねーぞ」
 見覚えのあるようなないような野良犬が、物欲しそうに寄ってくる。クンクン言っても知ったこっちゃない。そも、犬に人間の餌をやるのはまずいのだ。玉ねぎとか入ってる可能性も大いにある。噛み付かれない程度に煮え切らない動作で犬を追い払い、真昼のマクドに野良犬が現れるという田舎ぶりに呆れる。
「はぁ。誰だよ、犬に餌をやった奴」
 きっとこの場所に居着いちまったのだろう。きっと、どっかの誰かがくれてやった餌で味をしめたんだ。馬鹿なやつ。
「…………………」
 ガリ、と湿気ったポテトを噛み潰す。青空の下で食べているとホームレスにでもなったようだ。奥歯に広がる苦味が染み渡り、唾液に溶けて味が薄れて感じなくなった頃に、不意に誰かがやってきた。
「………………」
 見覚えのない、地味そうな少女だった。面識はまったくない。メガネを掛け、地味な生い立ちで、私服だってどこか冴えない。磨けば光るタイプなのかも知れないが、磨くにはなかなかに手間が掛かりそうな娘だった。年齢は恐らく、朱里と同じくらい。
「よう。ここに座りたいのか? 悪いがここは指定席だ。隣なら空いてる」
 眼鏡の少女は何故か、ぜぃぜぃと息を切らしていた。まるでここまで一直線に駆けてきたみたいだ。悪の怪人にでも追われていたのだろうか? どうして俺を見て、そんな愕然とした表情をしてるのかも分からない。まるで幽霊でも見たふうじゃないか。少女は、休憩するように隣の縁石に腰を下ろすのだった。
 真昼に、見知らぬ少女と横並びに座る。少女は何かを言いたそうだった。初対面なはずなのに。
「あの……羽村クン、ですよね?」
「そうだが、アンタ誰だ」
「そう。やっぱり、羽村クン、なんだ……」
 だから、どうして。
 そんな風に、泣きそうな顔をするんだって。
「い、いきなりこんな、じじ地味なメガネに話しかけられては迷惑でしょうけど……」
「そんなことはねーよ。話し相手がいなくて退屈してたところだ。暇だし、長話でもしてくれよ」
 出来れば、うんと眠くなるようなのを。悲しい話でも構わない。こくこくと一人で勝手に頷いたメガネは、唐突に意味不明なことを語り始めるのだった。何かと決然と戦うように、まっすぐに前を見据えて。
「毎晩、夢を見るんです。赤い瞳の女の子が、剣を振るって、怪物たちを退治する夢」
 それはどこかで聞いたような話だな、と思った。
「きっかけはたぶん、私が“怪物”に出会ってしまったから。大きな、大きな怪獣でした。火を噴くその怪物が人間を食い千切っている場面を、私は学校帰りに見てしまったんです」
 それはきっと、哀しい声で啼く怪物に違いない。口元を血まみれに汚したその怪物は、きっと圧倒的な死の恐怖として目に映り、壮大な威力でもってそれまでの常識を破壊しただろう。
「必死で逃げ延びました。でも、あの頃から私は目がおかしくなってしまって、幽霊とか、それ以外にもいろんなものが視えるようになってしまったんです」
 稀にいるそうだ。一般人なのに、霊視に目覚めてしまった不運な人々。
「私、知らなかったんです。世の中には、自分の知らない異常なものが実在しているんだっていうコト。世の中は呪いで満たされていました。夜になると、まるで街の排熱機構でも働いたかのように、負の感情の塊が、怪物の形になって夜を闊歩してました」
 それは、この世界が悪意に満ちたお化け屋敷だと理解してしまった瞬間。たちまちに恐ろしくなる。そうして、夜の街という巨大な鯨の正体を見てしまった人間は、畏怖し絶望する。
「毎晩、震えながら眠りました。日が暮れるたび、いつどこで怪物に食い殺されるのかと怯えながら家路を急ぎました。だってこの世には怪物がいるんですから。私たちは、ライオンよりも恐ろしい生き物の檻の中にいたんです。毎晩毎晩あの日見た怪物のことばかり考えて、どこかしこに怪物の影を感じて、恐怖で精神が擦り切れそうになっていました」
 それは当然の反応だ。どうしようもない絶望に出会ってしまった時、人間は価値観を破壊され、心の底から恐怖する。毎日毎日、追い詰められた気分で過ごしたに違いない。
「…………いつしか疲弊して、気が付かない内に、私自身も呪いを抱いてしまったみたいで。おかしいですよね。呪いに怯えた私自身が、その恐怖から呪いを生み出してしまうだなんて」
 そうして――“一般人”の、怪物に対する恐怖心から、“アレ”が生まれたのだろう。
「毎日怪物に怯えていた時、一人の女の子に出会ったんです」
 それはきっと、赤い目をした少女に違いない。
「その子は架空の存在で、ヒーローでした。毎日怯えていた私とは正反対。バッタバッタと怪物を倒して、たった一人で強く生きていたんです。画面の中のその子に出って衝撃を受けた時から、私は願望混じりの夢を毎日見るようになりました」
 メガネの少女は、祈るような穏やかな表情をしていた。このひだまりの場所で。
「朱里が、この世に実在していて、毎日怪物を退治してくれている」
 そんな、幻想《ゆめ》を見たのだろう。
「時に迷い、時に恐怖し、時に悩みながらも気高く強く」
 怪物の危機に晒される人々の前に颯爽と現れ、何も言わずに救って去っていく。そんな英雄を渇望した“一般人”の理想像――最強の戦士が、呪いという映写機を経てこの世に降誕していたのだ。
「……じゃあ、アンタは」
 こく、と頷く眼鏡の少女。よく見れば目元に朱里の面影があった。決して緋色の瞳などではないし、あくまでも別人でしか無いが、恐らくは無意識の内に自分自身が反映されていたのだろう。
 ――――この眼鏡の少女は、朱里という名の亡霊をこの世に産み落とした、呪いの保有者だった。
「………そうかい」
 本当は気付いていた。朱里が普通の人間ではないこと。架空のヒーローと特徴が一致していたこと。――皮肉な話だ。普通になりたいと心の隅で願っていた少女は、その存在からして普通ではなかったのだから。
「……なんていうか、からっぽだ」
「え?」
 空虚で無責任な昼空を見上げる。朱里は例え幻想だったとしても、実際にたくさんの怪物を屠って大勢を救ったはずだ。でも、誰も朱里を救わなかった。誰も。
「結局、なんもしてやれなかったな」
 無力な自分の手のひらを見つめる。俺は蠍を殺したが、朱里の命を取り返したわけではない。
「私は、朱里にとても残酷なことを強いてしまいました……」
「別にアンタは何も悪くないだろ。夢は夢と忘れて、明日からも普通の生活を続けてればいい」
 じゃあな、と手を振って立ち上がる。分かりきっていたことだ。ヒーローの結末なんて虚しい。何の見返りも与えられないまま、轢かれた野良猫と同じようにあっさり忘れ去られていくだけ。視界に入る機会すらほとんどない。孤独で哀しい、まったく報われない生き方なのだ。
 それでも朱里は、その生き方を選んでしまった。俺は知っている。朱里の心の奥底にあったもの、レッドオーラという呪いの正体――――それは“強迫観念だ”。
 強く強く、どこまでも強く。自分が強くなければ怪物がみんなを食い荒らす。それこそが朱里にとっての絶望だった。この街のあちこちが死体で溢れかえることをこそ恐れていた。その絶望への恐怖が、急かされるような強迫観念が朱里を追い立て、怪物と戦い続けるという危険で偏った生き方に縛り付けていたのだ。
 故に、蠍の言った朱里の内面分析はすべて間違っている。あの男は単に、朱里を自分の同類だと思いたかっただけだ。
「待ってください!」
 くだらない考えに浸っていたら、背後から呼び止められた。切羽詰まった声。まるで朱里みたいだと思った。朱里に少しだけ似ている眼鏡の少女は、悲痛なまでの必死さで言葉を伝えてくる。
「朱理はずっと孤独だった。この世界で、あのバケモノたちと戦っているのは自分一人なんじゃないかってずっと不安だった」
 それは、そうだろう。だって朱里は一人で戦い続けていたのだ。
「……救われてない人たちが、日本中にいるんじゃないかって――自分は、世界中を相手にたった一人で戦っているんじゃないかって……」
 孤独は恐ろしい。精神を枯渇させる真空なのだ。そんな真空状態の中で、命を賭けさせられ、朱里は自身のちっぽけな祈りだけを頼りに戦い続けたのだ。そんなもの、地獄じゃないか。
「でも、朱理は最後に、あなたに救われたんですよ――羽村クン」
「…………は?」
 俺? こんな無能狩人に、最強の戦士がどうして救われるっていうんだ。
「朱里は負けたけど、見ていたんです。あなたがあのピエロと戦っているところ」
 何も出来なかった。何も言えなかった。本当は伝えたい言葉があったのに、それすら伝えきれずに終わってしまった。
「痛くて苦しくて辛かったけど――でも朱里は、あなたの背中を見ながら、最後の最後にほっとして消えていったんです。自分の役目を、任せられる人がいるんだ、って――」
 気が付かなかった。どうしてあの時、俺は振り返らなかっただろう。血まみれの朱里は、どんな顔して俺を見ていたのだろう。きっと泣いていたに違いない。不思議な気分で涙を流しながら、穏やかに微笑んでいたに違いない。
「ああ、一人じゃなかったんだ――って。これで安心して、眠りにつくことができる」
 頭上に光が灯るような最後。看取ってやることができなかった。責められたって仕方ない。なのに。
「――――“ありがとう。あとは、お願い”」
 そんな言葉を、朱里そっくりな声で言った。その言葉を伝えるためにわざわざここへ来たのだろう。そして少女は一瞬だけ迷い、背を向け、朱里の思いを汚さないように潔く去っていく。その後ろ姿に朱里の面影が過ぎる。言われるまでもない。
「ああ――」
 任せてくれ。この街のことも、この世に蔓延る怪物たちのことも。だから安心して普通の学生になればいい。二度と戦いなんてない普通の日常を生きればいい。いままでずっと他人たちのために我慢してきたんだから、そのぶんこれからはもっと自分のためにわがままに生きればいい。――――たったこれだけの言葉を、あの赤い目の少女に伝えてやりたかった。



-Red Eyes-