#朱里-RED EYES-


「あいつさ。蠍と向き合った時、震えてたんだよ」
「震えてた?」
 深夜のリビングで、隣に座ってテレビを見上げているアユミに今日の出来事を語っていた。真っ暗闇のリビングで、テレビだけが煌々と深海魚みたいに光源だった。
「手が、こう、本当に弱ってるみたいに震えてるんだ。なんでだと思う?」
 そっか、と淋しそうな顔をした相方は、あっさりと真実を指摘してみせる。
「怖いからでしょ。そんなの、怖いに決まってるよ」
 予想通りの回答。俺も同感だった。
「だよな。怖いに決まってるよな、普通。」
 朱里は、蠍と向き合った時に確かに手が震えていたのだ。狂った悪意の固まりと対峙して、無敵なはずの少女は本当は怯えていたのだ。怖くて怖くて仕方なかったのだ。怖いに決まってる。例え力を持っていようが朱里はただの善良な人間で、恋愛ドラマや試験勉強に一喜一憂するような年頃の娘でしかない。なのに、何かの間違いでどうしようもないほどの悪人と出会ってしまった朱里は、そいつの底なしの悪意に対抗して強がらなくてはならなかったのだ。
 何故かって? それは、朱里が戦士だったからだろう。見知らぬ他人を守るためにたった一人で戦うしかなかった朱里は、あのイカれ犯罪者を前にしても退くことはまるで許されなかった。そんな選択権など、他人の命を背負ってしまっていた朱里にはなかったのだ。
「…………ひでぇ話だよな」
「でも、もう大丈夫。羽村くんがついてるから」
 まぶしいくらいの笑顔でそんなことを言われた。




 夜になった。今日もマクドで朱里と待ち合わせている。急いで約束の場所に向かわねばなるまい。
 午後7時台の夜の縁条市中枢は、まだ少し明るい。国道沿いだけを見ていれば意外にも都会なような気がしてくるが、本当に都会に出ればこの街がいかに田舎か理解してしまうことだろう。
「………………」
 後方三十メートルほどに、ぴょこんと建物の影から顔を出す赤髪の相方。昨日のように唐突な空間浸食に飲まれたりしない限りはこれで安心だ。
 で、相変わらずまったく同じ位置で朱里と一日ぶりに再会するのだった。同じ駐車場の縁石に腰掛けてるのはお気に入りなのか何なのか。
「……エサやるのはやめとけ。野良犬が居着いちまったら怒られるぞ」
「う――」
 キャットフードの反省を生かし、昨日と同じ野良犬に今度はドッグフードをやっていた最強少女なのだった。相変わらずあんまり激しくない程度の動作で犬を追い払い、さも無関係ですという顔をして髪を掻きあげる。
「な、何のことかしら。私、犬なんてまったく興味ないのだけど」
「今度、近くのデパートで動物展やるらしいから行ってこい」
 こほこほと咳払いする朱色。気のせいか今日は顔まで朱色な気がした。
 で、なんとなくマクドに入店し、窓際の席で味気ないハンバーガーセットを食すのだった。目の前の少女が静かに黙々とてりやきバーガー食っていやがったので、どうにも本当にバーガーが気に入ったらしい。
「食事《おたのしみ》中に悪いが、聞いてもいいか」
「え?」
 頬にてりやきソース付けた美人を見ながら、昨日の出来事を回想する。蠍《サソリ》と名乗る巨漢の道化師。筋肉の鎧を纏った、殺人鬼だった。
「……蠍。あいつは何なんだ」
 朱里が黙りこむ。あの道化師は、田中さんを炊きつけてわざと暴走させた。もともと精神的に不安定な亡霊の背中を押して大量虐殺を行わせようとしていたのだ。
「田中さんを暴走させて、虐殺を行わせてあいつに何の利点がある。ただの快楽殺人者にしても、他人に他人を殺させる意味が分からない」
「……それは、きっと騒ぎを起こしたかったから。大騒ぎになって、犠牲者が出れば出るほどあの男にとっては都合がいい」
「都合がいい?」
 どういうことだ。他人の犠牲で何が得られる。
「私が、止めようとするから」
 俯いて湖面のような目をして、朱里が消え入りそうな声で呟いていた。俺は奥歯を噛む。
「……思い出した。あの野郎、人が死ねばヒーローが現れるとか言ってやがったな」
 机の上で、朱里の手が震える。
「私……ヒーローなんかじゃ、ない……」
 本当に弱り切った様子で、少女が言った。美しい朱色の娘は、疲弊しきっているように見えた。縋るように顔を上げ、目に涙をためて言ってくる。
「ただ、おかしな能力を持っていただけ。それ以外はまったく普通で、別に成績がいいわけでもないし、何が優れてるわけでもない。ただ闇雲に走り回っていただけ。誰かが戦い方を教えてくれることも、誰かが指示してくれることもなかった……!」
 切羽詰まった顔。本当に追い詰められていたんだろう。きっと酷い目に遭ってきたはずだ。バケモノ狩りというのはつまり、頭がおかしくなるくらいバケモノとばかり関わり続けるということなのだ。
「ああ、知ってるよ。ただの一般市民だろ。だからお前はもう、戦わなくていい」
「え……?」
 当然、狩人の方針は決まっている。いかな実力者とはいえ、一般市民を前線に立たせるなんてのは有り得ない話だ。――そして一般市民に害為す外道がいるなら、そいつの末路も決まっている。俺は椅子にもたれ、まるでそこに奴がいるかのように前方を睨み据える。
「あの野郎は、俺の――狩人の敵だ。必ずどうにかしてみせる」
 あの男は轢かれた猫のように死ぬ。それはもう、決定事項だ。
「だから、朱里は安心していてくれ。好きなだけ動物園でもバーガーでも楽しんでればいいさ」
 しかしながら、狩人というのは相変わらず暴力の体現だ。邪魔だから、有害だから殺してなかったことにして蓋をする。――こんなものは、悪人と大差ない。
「? どした?」
 ふと見やれば、朱里が唐突にしおらしい顔をしていた。ぶんぶんと、子供のように首を振る。
「……とても、怖い顔をしていたから」
「あ」
 ――よくない。
「悪い。いやなんつーか、悪かった。ちょいと嫌なこと思い出しちまってよ」
 ははは、と軽薄に笑う。田中さんのことも。田中さん以外のことも。悲しい末路を辿るしかなかった者たち。それを悲しいと感じる自分自身と――――それを喜ぶ、醜悪な仮面の笑顔。
 仮面はどっちだ。愛想のいい振りをして、悪人と変わらない暴力を振るいながら正義を自称する狩人と。正義と変わらない暴力を振りかざし、嘘偽りのない欲望のままに開放的に生きて死ぬ悪人と。
「ころすの?」
 朱里が、不安そうな顔をしてそんなことを言った。親の袖を掴んで離さない子供のような、そんな純真な憂いだった。
「――――――、」
 言葉に詰まりそうになる。何かを言ってしまいそうになる。でも、この口は平気で嘘を吐く。
「ハハッ、馬鹿言うなよ。正義の味方が、人殺しなんてするわけないだろ?」
 山田の心臓に刃を投げつけた。
 田中さんの胸に短刀を突き立てた。
 それ以外にも、何人も何人も。この手で殺めた感触を覚えている。この両耳を覆う音色は、いつもいつも雨のように木霊する残酷な音色は―――。
「そう――」
 よかった、安心した――と顔に書いてあった。穏やかに笑ってくれたことに、俺も喜んだ。純粋に嬉しかった。ようやく、自分の役割《しごと》を少しは果たせたと安堵する。

 斬《ザン》。

「…………」
 残酷な幻聴が聴こえた。命を絶たれたように意識が漂白される。
「どうしたの? 早く行きましょう」
 見やれば、朱里が立ち上がって背中を向けている。制服姿の少女は、今回の件が片付けばようやく普通の学生に戻る事ができる。――その美しい緋の眼以外は、同い年の少女と何も違わないはずだから。
「ああ、悪い。今月の家計に絶望してた」
「ふふっ――それは大変ね。アルバイトでもはじめたら?」
 つまらない話をしながら、夜の縁条市を朱里と並んで歩く。胸の中の、一抹の毒に目を伏せたまま。

 誰かが死ぬ瞬間の、最期の音色を思い出していた。



 アンパンマンは強い。それはもう、最強無比と言っても過言ではない。

「………………」
 月明かりに、長く伸びる陰。怪盗ルパンが駆けるような夜のレンガの街角を、朱里と二人、影になって駆け抜ける。
 妖怪自分の顔食わせマン。
 あのヒーローは、敵を殺さない。何度でも追い返すし、何度でも許す。そして永遠に勝ち続けるっていうんだから、心身ともに強靭極まりない。
 だが、忘れてはいけない。顔が汚れた時、追い詰められてどうしようもなくなった時の、あの悲しそうな声。
 ところで、目の前を駆けるヒーローの背中に俺は言った。
「帰れ。」
「……え?」
 ナニ イッテンダロウコノヒト、とふんわり髪の朱の目が告げる。振り返った少女は不思議そうだ。俺は壁に手をつき、反省する真似をする猿の真似をする。――余談、人間以外の動物に反省なんて概念はない。
「いや……そんな、普通に俺の前を走ってるのがおかしいんだが。あんた、一般市民だろう」
「ああ――!」
 ぽん、と手を叩いて驚きを表現する美少女。何やっても画になるってのは認めるが、それはなんつーか、ずるいだろう。
「……ごめんなさい。つい、いつもの癖で」
「さすが、1人で突っ走ってきたやつは違うね」
 まったくあきれたもんだ。前だけを見て走る少女の背中は、なんていうか、目を離せば遠くにいってしまいそうだった。
「いいか? 俺は狩人だ」
「そうだったわね」
「でアンタ、一般人。分かる? オーケイ?」
「もちろん。これでも、物分かりはいいほうよ」
 オーケイ、オーケイと俺は頷く。当然ながら狩人は、一般人を戦場に連れてくなんてしないし、ましてや前を走らせるなんて有り得ない。学生は明日に備えて寝るのが仕事だ。
「つーわけだ。帰れ」
「うん、分かった」
 てくてくてく、なんてお手本的な擬音付きで去っていく朱里。背筋がまっすぐだった。それを見送り、俺は不承不承で歩き出す。
「………………ったく」
 後方十メートルを高速移動する謎のポリバケツ。朱色の軌跡が無意味に華麗で、怪現象だった。



 夜は深い。底の無い沼のごとく、潜れば潜るほど深淵に沈んでいく。
 長い長い、閉ざされた商店ばかりの夜道の奥を見る。俊敏な黒猫が駆け抜けていった。不揃いな店が並ぶ小道は、片付いた部屋のように余計なものが何もない。この辺りで潰れていない店なんて数件だろう。誰一人として歩く者のいない夜を歩きながら、周囲に視線を巡らせ歩く。
 この街の夜は無人のようだ。退廃の街、縁条市。自治体が経済破綻なんていう日本有数の大恥事件も何のその、今日も今日とてその錆びれた姿を晒す廃墟街。そう、この街はあちこちが錆び付いている。
 売れない古本屋のしおれた文庫本、退屈そうに自転車を二人乗りする学生カップル、平凡なその他大勢に、人生楽しそうなお洒落な女性。そんな真昼の穏やかな情景に隠れ潜むようにして、見えない箇所からカビに侵食されていくように、街は少しずつ腐敗していた。
「…………」
 闇に沈んだアスファルトの沼から。真っ黒い人影が、植物のように生えだしてくる。人間という造形は、自分たちに似ているぶん、一歩間違えばこの上なく不気味になる。これらは、この街に巣食ったカビだ。人の住む街に生える、呪いという名の妄念の蓄積。ゾンビのように寄ってくる。人が人である限り、どうやったって逃れようのない、目を背けたくなる“影”の部分。沼地のようなこの場所で、まっとうな人間に出会うことなど決してない。
「こんばんは。散歩かな?」
 だから、目の前に立つ朗らかな男は間違っている。地味な色のセーターに、眼鏡と痩せこけた頬の初老の紳士。この場所に、こんな穏やかそうな人間がいること自体がおかしいのだ。思わず口の端が吊り上がる。獲物を見つけた爬虫類のように。
「――ああ、こんばんは」
 退屈な返事を返すと、奇妙な男は、にっこりと微笑んだ。その背景に蠢くヒトガタの影たちを、まるで見ないふりしながら。男は、シャッターを閉ざされた店の前に立っている。錆びた看板には、平坦な書体で「丸橋商店」と書かれている。
「ここは私の店だ。潰れてしまってね」
「そうかい丸橋さん。そいつは大変だ」
 ああ、と気を良くしたように男が頷く。表情に反して、話の内容は悲惨だったが。
「返せない借金の代わりに、すべてを差し出した。差し出さざるを得なかった。最後は百円玉のひとつも残らなかったよ。まったく、こんな話がこの時代にあるものかね」
 穏やかな、満ち足りたような表情。その眼球がバチリと霞む。
「商売に失敗して地位を失うのは仕方ない。自業自得だ。だが、貧困とは恐ろしい。この世でひとつきりの家族さえも、私から奪っていってしまうのだから」
 それは、この現代のどこにでも潜む落とし穴。俺たちは今日明日、朝起きて食パンにバターを塗ってコーヒーを味わう余裕があるのが当たり前だと思い込んでいる。それらが、薄紙一枚の差ですべて失ってしまう日常だなんて誰も自覚しない。
「金さえあればいいんだ。金さえあれば、きっとすべてが元通りになる」
 それはその通りだ――否、少しだけ違うけれど。でも、きっとやり直しをすることは可能になる。地道に働いて、借金を何とかすれば、新しい人生を探すことも出来る。
 だが。
「いい仕事を紹介してもらってね。人間の死体を差し出せば、一体百万円になるらしい。これは、と私はビジネスチャンスを感じ取ったというわけだ」
 男は、選択肢を間違えている。田中さんの時と同じ圧迫感を感じて、俺の足は一歩後退する。
「おい、やめとけよ丸橋さん。それは裏稼業だ。たぶん給料も支払われない」
「その可能性はある。だがしかし、君はまだ若いから分からないだろうね。ここまで追い詰められた人間はね、もう、それがどんなに怪しく思えても縋るしかないんだ」
 藁を掴んでいる。いや、男の手にあるのは鉞《まさかり》だった。枝を折るような気軽さで、俺の脳天を割ろうと振り降りされたそれを、大きく後退することで回避。続く横薙ぎを手元を叩き返して押さえ、殺人鬼と化した店主とすれ違う。
「――そんなヤミくせぇ仕事、どこの誰に教えてもらった?」
「ヤケにガタイのいい男でね。ヤクザのようだったが、妙な仮面をつけていて、実にユニークな男だったよ」
 また、顔めがけて飛んでくる凶器を、顔を逸らして十センチほどの距離で回避。背中を見せないよう、跳ねて向き合いながら距離を取る。だが、背後には地面から生え出した影たちがいることを思い出す。
「私は近所付き合いは悪い方ではない。みんな、家族同然の仲間たちさ。」
 大仰に腕を広げる男。俺の背後には、無数の意思すら不確かな人影。ゾンビのように集まってくる。
「そうかい。仲良く草刈りでもやっとけよ」
 よりにもよって、ご近所総出で人間狩りか。昭和日本のようなホラーと化した、寂れた商店街。その真ん中で、刃物を持って生き残ろうとする弱者が俺だ。一心に大勢に敵意を向けられることによって、本能的に竦みそうになるが。
「ふん――」
 緩慢に駆け込んできた影が、鈍い動作でゴルフクラブを振り下ろす。どんなに鈍くても脳天に直撃喰らえばただでは済まない。俺はそれをゆるりと躱し、駆け上がるように影の首を腕で絡め上げ、重力に引き戻されるのに合わせて後頭部からアスファルトに叩きつけた。
「…………」
 DVのような暴力的な痛打。影は頭が潰れ、俺の頬に黒い返り血が付着する。頭を潰され消えていく人影を、俺はひどく冷めた心地で見下ろしていた。
「ははっ、」
 そして、顔には軽薄な笑みが浮かぶ。ずらりと押し寄せてくる影の大群。大規模対戦ゲームのような現実味のなさ。数の暴力に、あっさりと殺されてしまいそうだ。
 昨日の朱里を思い出す。俺の手は震えているか? 回答はノー。迷わずこの手は、腰の後ろから無骨な短刀・落葉を引き抜いて握る。ただただ麻痺したような現実感のなさと、まるで温度のない氷の鼓動を自覚する。なんて無感情。だからこそ、感情に似た何かをひねり出す。つまらない雑談程度でいい。
「なぁ丸橋さん。あんた、体が透けてるけど」
 それでやり直しがきくのかい、と聞いてみる。いよいよ目の前に迫った影たちに向け、しっかりと忍者のように短刀を構えながら。丸橋さんは、自分の半透明な両手の平を見下ろし、ああ、と明日の天気のように朗らかに笑った。
「本当だ。これは気が付かなかったな、はは。」
 俺も、口の端を吊り上げる。救いなんてどこにもない。それでも、男は一歩を踏み出した。まるでハイキングのような足取りではあったが、その手に握るものはゴルフクラブだが、しかし、きっと丸橋さんにとってはとても前向きで希望に満ちた前進だったのだろう。顔が、目が眩しいくらいにまっすぐだった。
「ははは。」
 皮肉で皮肉で笑ってしまう。襲い来る影共を千切って斬って殺害しながら、まっすぐ歩んでくる中年を見ている。曇り一つない前向きな表情だが、その存在自体がまず後ろ向きだった。
 社会の底を行く狩人は、怪物の首に刃物を突き立てて後退する。また一体殺す。一体殺す。こうやって、生きれば生きるほどに何かを失っていく自分自身の在り方に疑問がないわけではない。しかし、得てして秩序の維持者というのはこういうものなのかもしれない。誰かが見ない振りし続けるために、代わりに何かを直視し続けるのだろう。
「らぁあああっ!」
 影が振り下ろした包丁を、腕ごと斬り飛ばす。返す刃で、殺人事件のような乱雑さで胸の中央を串刺しにして終わらせる。
 そして、目の前には丸橋さんのあたたかな笑顔が迫っていた。手にある鉞(まさかり)なんて何かの間違いだとばかりに、本当に真っ直ぐな目をしている。思わず微笑み返してしまう。そして、まっすぐに迷いなく心臓めがけて刃物を突き出す。
「……………」
 丸橋さんは、声を上げなかった。ただ穏やかに、驚いたように自分の胸に突き立った刃物を見下ろす。そして、また微笑んだ。
「いいんだよ。私は君を責めはしない。よくやったね」
 ぱん、と肩に手を置かれる。教師のようだと思った。俺はため息を吐きながら、右手の短刀を強く握り直した。
「言い残すことがあるかい」
 ふっと柔らかに微笑んで、丸橋さんが横薙ぎに鉞を振るう。
「お金、貸してくれないかな」
「い、や、だ、ね。」
 丸橋さんの胸から短刀を抜き去り、蹴飛ばす。間合いが開いて鉞は空振りして、丸橋さんが転倒したところで終劇。哀れな店主の残留思念は、暗黒色の蛍の群れになってあっさり消失した。
「……………………さて」
 丸橋さんが消えた後のアスファルトを見つめ、声を発する。わざと聞かせるように。夜の商店街に響かせるように。
「出てこいよ。クソ野郎」
 呼びかけると、くつくつくつと笑声が聞こえた。奴は、高い場所に立っていた。電柱のてっぺんで、ピエロの仮面を付けたスーツ姿の巨漢が腹を抱えて笑っている。
「ご挨拶だな少年。いきなりクソ野郎呼ばわりとは」
 鼻で笑い捨てる。高い場所に立つ男を、地面に引きずり下ろすように。
「てめぇなんざ、クソ野郎でもヌルいくらいだ」
 蠍が笑うことをやめ、仮面の奥の視線で俺を射る。爬虫類が獲物を見つけた時のような、明確な殺意が顔を覗かせていた。
 大地が揺れる。巨体が、アメコミ映画のようにアスファルトを陥没させながら着地した。
「いい覚悟だが――少年、お前は一体何が目的なんだ? どうしてそうまでして死にたがる」
 緩慢な動作でやってくる。全身が鋼鉄で出来たスーツでも着ているような圧迫感。
「人の恋路の邪魔をしないでくれるかい」
 目が点になる。悪鬼羅刹が、仁王立ちしてそんなふざけたことを言った。思わずくつくつと悪人のような笑いが漏れてしまった。
「誰が、誰に恋してるって?」
 仮面の怪人は、自慢するように胸を張って宣言した。その首を見据えて俺は短刀を握り直す。
「無論――朱里が、俺に、殺されたがっているのさ」
 不快だった。ただただ不快だった。足が勝手に地を蹴り、蠍を狙って跳んでいた。腕は吸い込まれるように、蠍の首に短刀を向かわせる。
 俺の腕を、蠍の腕が受け止めていた。
「…………血の気が多いな少年。なんだ、嫉妬か? 男の嫉妬は醜いぞ」
「つくづく――――つくづく、気色の悪い野郎だな、アンタ」
 理解不能な言動。いや、理解してしまえば同類か。分かってはいても、聞いているだけで神経を逆撫でされるのだ。追い打ちをかけるべく後退した蠍を追うが、右足に重力を感じた。
「な……っ!?」
 俺の脚に、しがみつく子供がいた。青白い、悲痛な顔で俺を見上げる子供の幽霊だった。そのいまにも泣きそうな顔と、震える手に一瞬意識を奪われたのが一巻の終わりだった。
「飛べ」
 まとわりつくような声を聞いた。咄嗟に腕を挟んだが、次の瞬間、交通事故のような重すぎる質量が俺の胴をプレスした。
「あがッ!?」
 ワイヤーで引き上げられるように、軽々と吹き飛ばされる。内臓への痛打。背中からアスファルトに墜落する。無意識に受け身は取ったようだったが、転がり終わる頃には腕一本動かせなくなっていた。
「いい反応だ―――が、それで防ぎきれるわけもない」
 胴への直撃は、腕を挟むことによって防いでいる。が、それでも行動不能になるには十分な威力だった。身動きできない俺の前に立ち、俺にしがみついて動きを止めた童女の霊が言った。一瞬だけ、泣きそうな顔をして俺を見下ろしてから。
「言うこと聞いた……おねえちゃんに会わせて……っ!」
 仮面の奥の顔が、にたりと笑った気がした。逃げろ、と叫ぼうとしたが激烈な痛みで声が出なかった。
「ああ、会わせてやるとも」
 振り上げられる、大きな大きな岩のような拳。それを見上げて、恐怖に身をすくませる童女の霊。こわばった華奢な体は、もう動かない。台風のように振り下ろされる拳を見上げたまま、一歩も逃げることが出来ない。だから、彼女は顔にそれをまともに浴びてしまった。
 俺はようやく叫んだ。でも意味はなかった。雷のような衝突音と共に、顔が陥没する。首が曲がる。人形のように骨が折れる。枝のような細い腕がだらんと揺れる。無残に地面に倒れこむ寸前に、すでに存在ごとこの世から消失していた。
「ぁ……」
 血に染まった手。しかし、血は幻覚のように消滅していく。自分の手を観察しながら蠍が言った。
「ダメだな。幽霊では死体が残らない。死体がなければ殺人にはならない。殺人にならなければ、朱里は現れない」
「て――めぇ……ッ!」
 腹の底で溶岩が燃えるようだった。殺人鬼は、スポーツでもするような気軽さで言った。
「よし、次は少年の番だ!」
 動けないまま、髪を、掴み上げられる。
「少年には、死ぬまでアスファルトに頭突きしてもらおう。なぁ少年、石頭な方か?」
「ち……ぃ!」
 目の前にあるアスファルト。俺の髪を掴み上げる殺人鬼。こんな奴に、消費されて終わるっていうのか。たくさんの人間が、消費されて来たっていうのか。一人一人の悲惨な最期が、その悔しさに染まった顔が目に浮かぶようだった。
「てめぇは、死ね……」
 俺の怨嗟は、怪人の笑いを誘うだけだった。
「死ぬのはお前だよ、少年」
「そこまでよ」
 蠍が目を見開く。俺の頭部が、スイカ割りのように潰される寸前――それは、夜空から現れた。
「!」
 緋の残照が視界に映る。オーロラのように煌めいている。長髪を振り乱し、その手に握る鉄パイプにレッドオーラを纏わせる。蠍の、仮面の奥の悪鬼の双眸が、狂喜した。
「朱うううう里ぃぃいいいいいいいいい――っ!」
 重い重い衝撃の火花が散った。朱里が振り下ろした鉄パイプと、蠍の鋼鉄のような手のひらが衝突する。地に降りるまもなく、朱里が衝突した鉄パイプを振り抜く反動で後退する。
 そして、ヒーローと怪人が対峙した。
「――――あなた、」
 かたや、朱色の少女は激烈な怒りを湛えて、
「やっと現れてくれたな、俺の朱里」
 かたや、仮面の道化師は一方的な親愛を表現する。この二人の関係性はつまりはこういうものだった。
 朱里の目が、立ち上がれないでいる俺を見る。俺は平気だと笑ったが、朱里は悲しそうな顔をするだけだった。
「………ごめんなさい。助けに入るのが遅れてしまった」
「謝んなよ……おまえには何の責任もない」
「…………っ」
 朱里が、苦しそうな顔をして蠍に向き直る。鉄パイプを剣のように真っ直ぐ構えて。
「さあ朱里、いつものように遊ぼうか。これからもずっとずっと続く、二人だけの至高の時間だ」
「いいえ。もうこれ以上続くことはない」
「何……?」
 決然と、朱里が背の高い怪人を睨み上げる。鉄パイプから、炎のように緋のオーラが立ち上っていた。
「今日こそ――――終わりにしてみせる。」
 決別の意思を、悪の怪人に突きつけた。
「今日まであなたに逃げられ続けてきた。でも、もうそれも終わりよ。」
 朱里の瞳の緋色が熱を増す。しかし、それは危険だ。あの男と同じ土俵に立つべきではない。それじゃ、同じ場所に引きずり下ろされるのと同じだ。
「だめだ、朱里ーー!」
 朱里が、俺を振り向く。死にゆくような高貴さと優しさを纏って。
「そこで見ていて。あなたには、面倒ごとは残さないようにするから」
 そして、怪人は朱里の決意を歓迎する。爬虫類のような甲高い声を上げて。
「ひ、ひひひあはははははははははははははーー!」
 腹を抱えて笑っている。
「く、くくくくく………ようやく! ようやくだ! ようやく殺し合いをしてくれる気になったか、朱里!」
 ずん、と重々しくアスファルトを踏んで、蠍が拳を構えた。
「いいぜ、さあ楽しもう! どこまでも底無しに突き詰めようじゃないか!」
 2人が、向き合って構える。だめだ。止めないといけない。なのに、かろうじて持ち上げた腕は空を切るばかり。俺の指先が届くより先に――朱里は、駆け出してしまった。
 重金属同士が衝突するような音。蠍の掌と、朱里の鉄パイプが衝突している。
「どうした? こんなもんじゃないだろう」
 手のひらと鉄パイプが弾け合う。舞踏のように旋回する二人が再度衝突し合い、一歩距離を取って構え合った。
「さあ見せてくれ朱里。お前の美技を!」
 朱里の双眸が、感情を失い機械のような冷たさを帯びる。反して、全身から吹き出すレッドオーラは高熱。続く斬撃は、ジェットコースターのように止めどなくノンストップの曲線を描いた。
「はッ、」
 蠍が、歓喜なのか苦鳴なのか分からない声を漏らす。その腕足で血華が咲く。しかし、意に介した風もなく、大振りの拳を朱里目掛けて振り回す。
「!」
 丸太のように振り回される腕を見上げて、朱里が目を見開く。その腕を伏せて躱し、続く台風のような回し蹴りを、宙に舞うことで飛び越える。翻った少女が、遠心力のままに蠍の仮面へと踵を振り下とす!
「いいねぇ。それでこそのヒーロー様だ」
「!」
 蠍は、朱里の踵落としを受け止めている。朱里の踵を弾き返し、ネジを巻き戻すように朱里が空中で逆回転させられる。が、その回転に乗せて朱里が鉄パイプを下から顔めがけて振り上げる。大きくのけぞって回避した蠍が後退し、構え直すと同時に朱里が猫のような俊敏さで着地する。鉄パイプを懐剣のように低く構え、目を見張る速度で直線の突きを繰り出した。
 蠍は、後退するが、躱せないと理解したようだった。掌を突き出し、鉄パイプの先端と正面衝突・再び工業機械のような轟音を上げて停止した。
「………………あなたは一体何がしたいの」
 仮面の奥の双眸が、暗く嗤う。そして気障な態度で欲望を述べた。
「朱里――お前を手に入れたいのさ」
 対する朱里は、眉一つ動かさずに対話を諦める。そして回転した。朱里と戦い慣れた蠍は何かを察知したのか、低く回転する隙だらけの朱里から、距離を取ろうと後退した。回転する朱里の鉄パイプの先端が、アスファルトとこすれて火花を散らす。そして、静かなる緋の目が一人事のように告げる。
「燃えて」
 剣閃が、濃い緋色を描いたように見えた。火花を散らした鉄パイプの先端から、まるで地面が燃え上がるように――発火する。
「!」
 高濃度のレッドオーラによる灼熱の舌。いかに頑丈だろうが防御することの叶わないそれを、蠍は強く嫌って後ろに逃げる。それでも、ねばつくような軌跡を描いた灼熱は、蠍のスーツの一部を焦げ付かせていた。苦鳴を漏らした大男へと、跳ね上がった朱里が頭上から隕石のような一打を見舞った。
「ぎぁっ!?」
 轟音が響く。大地を陥没させて、蠍の頭部が撃墜された。死んだのではないかと思うほどに、まったく動かなくなった。
「………………」
 怪人を鮮やかに沈黙させた少女は、とても静かにその後頭部を見下ろしている。髪とスカートがかすかな風に妖精のようにたなびく。
「どう……し、た?」
 地の底から、仮面に亀裂の入った怪人は朱里を見上げる。そして呪った。
「トド……メを、刺せ……ほ、ら、」
 一歩も動けないのに、まだ、少女を揶揄する。その醜悪な怪人の言動に、高潔な朱里は視線をきつくする。
「俺を殺さない、と……また、」
 呪う。ただ悪意によって呪う。
「いらない、死者が……でる……ぞ?」
 それを聞いた瞬間に、朱里が明確に震えた気がした。そして、泣きそうな顔をした気がした。
「ぁ……」
 何かを、思い出したのか。蠍との戦いで、犠牲になった誰かのことを。そして、美しい朱の目が絶望に曇る。
「…………そうね……」
 鉄パイプの先端を、蠍の頚椎の辺りに押し当て、力を込める。
「守らないと……私が」
「ひ、ひひ……そうだ。殺すんだ、朱里……!」
 割れた仮面の隙間から血泡を吐きながら、怪人は目を剥いて美しいヒーローに言葉の泥を浴びせかける。
「後戻りできなくなる……すべてを妬ましく思うようになる……普通に、のうのうと人生を謳歌してる奴ら、を、心の底から許せなくなる……」
 人殺し。その境界を一度でも超えてしまえば、もう二度と元の位置には戻れなくなる。そのボーダーを踏み越えて自分の側に来い、と怪人は嗤っていた。
「人々を、守りたい、んだろ、う……なら、自分の人生を犠牲にし、ろ……それが役目だろう……そして、俺を殺し……」
 朱里の手が、震えている。正義の為に、人を殺すことを迷っている。
「次は……お前が、怪人《おれ》にな、る…………」
 怪人は、歓喜している。美しい戦士に殺されることを。そのことによって、自分が勝利することを。朱里を、執着した少女を同じ泥沼に引きずり込めることを。
 鉄パイプに力を込める朱里。その手にレッドオーラが滲む。頚椎を破壊するなんて簡単だ。彼女の力をもってすれば、悪を殺し、人々を守るなんて簡単なことだ。悲痛な顔をして、朱里は、震える自分の手を抱きしめた。
「――――できない」
 鉄パイプを捨て、その場に立ち尽くす。倒れた大男を前に、追い詰めた悪の怪人を目の前にして、しかし何も出来ずにただ怯えた顔をする。俺は、どうすることもできなくなった少女に向けて必死で声を絞り出した。
「…………それで、いい……」
「え――?」
 意識が、闇に沈んでいく。
「殺すな、朱里……絶対に…………」
 何も見えなくなっていく。朱里が駆け寄ってくるのが見えた。暗黒の中で、ただ、一心に叫び続けていた。
「殺すな……」
 正義のために悪を殺し、その呪いごと残酷な音色とともに斬り捨てる。
 救うことができないから、殺すことで蓋をする。
 悪の怪人にトドメを刺して、そして二度と犠牲者が出ないようにする。
 そんなことを繰り返していたら、いつのまにかたくさんの人間を殺し続けていた。
 ネバーランドの王。怪獣オタクの山田。円環自殺に囚われた奴らに、そして――罪の炎に焼かれた狐面。呪いに憑かれ、どうすることもできずに死んでいった奴らの顔が次々と浮かぶ。
 そんな奴らを残酷に斬り殺して物言わぬ死体に変えてきた。ああ、腰まで血溜まりに浸かった死神のような連中。

 朱里は、狩人《おれたち》のようになるべきじゃない。



 甘い香りで目が覚めた。まず、初めに、体が熱を持っていることに気付く。
「あ……つい」
 なんだろう、高熱を持ったように体の芯から火照っている。燃えるように熱い。特に何故だか右手が熱い。目を開けて、見覚えのない天井に少しずつ焦点が合っていく。
「………………」
 何か、甘い香りがする。すぐ近くだ。目を向ければ、美しい少女がベッドにもたれて寝息を立てていた。ふわりとした質感の髪も、長い睫毛も、傷一つない頬もまるでよくできた人形のようだった。
「………………ああ」
 右手が、強く握られていた。その手に炎のような熱を感じる。それで、昨日俺が蠍に負わされた傷がひとつ残らず消えている事に気がついた。握られた手に、理解する。
「……レッドオーラか」
 寝ている間に、俺にレッドオーラを流し込んで治癒を促していたのだろう。だが、きっと朱里の負担は軽くはないはずだ。眠り続ける朱里の目尻に、涙のあとがあるのを見つけた。
「………………」
 不安だったのだろうか。恐ろしかったのだろうか。俺が、死んでしまうと思ったのかもしれない。それはすべて、俺の責任だ。
「あ………」
 朱里が、不意に目を開ける。顔を見合わせるなり、不安そうな顔をした。
「……傷は、大丈夫?」
「お陰さまで。そっちこそ、大丈夫なのか」
 ――こんな、無茶な治癒をして。
「大丈夫。眠ったから、もうなんともない」
 健気に微笑み、右手を離す。その姿が貞淑なシスターのようで、どこか痛々しかった。
「ここは……朱里の部屋か?」
「ええ。何もないけれど」
 何もないというか、本当に何もない。人が住んでいる気配すら感じない。家具は少なく、娯楽なんてゼロ。こんなのは、ただの直方体の箱だ。
「…………あいつは……蠍はどうなった?」
 朱里が、顔を曇らせ首を横に振った。
「気が付いた時には、もういなかった」
 歯噛みする。逃げたのだろう。あの状態で逃げおおせるとは、忌まわしい。
「……悪い。世話かけたな」
「いいの。それより……」
「ん?」
 顔を伏せる。表情は窺えなかった。
「…………あの時、守れなかった。あの幽霊の女の子を……」
 昨夜、蠍に顔を潰されて死んだ霊。間近にいながら、どうすることもできなかった。
「……俺のせいだ。悪い」
「私こそ……まるで動けなくて」
 長い重い沈黙が部屋に満たされた。謝ってもどうにもならない。終わったものを、どうすることもできはしないのだ。
「……ご飯、食べる?」
 朱里が、無理に笑った。美しい少女の顔に疲れの影が見える。
「……いや、いいよ。それより少し付き合ってくれないか」
「え?」
 狩人は、必要以上の情報を一般人に与えてはならない。だが、それはあくまでセオリーだ。いまにも潰れそうな朱里を、これ以上このままにしておくことは出来ない。携帯を取り出して、電話をかける用意をしながら朱里に笑いかける。
「一緒に来てくれ」



「……なあ朱里。この街の狩人は、俺だけじゃないんだ」
 街を歩きながら、朱里に狩人事情の説明を施す。真昼の縁条市は平穏そのものだった。
「当然だけどな。俺一人で街一つなんて守れるわけもない」
 そして、朱里一人に守れるわけもない。
「あと、もちろん狩人はあちこちにいる。それこそ、日本全国にな。だからまず、俺の仲間を紹介しようと思う」
「―――そう」
 嬉しそうに、弾むように笑った。その裏に、いままでどれほどの不安と重圧があったのかを俺は薄々気付き始めていた。
「楽しみね。どんな屈強な戦士なのかしら」
 鼻歌さえ歌い出しそうな軽快な足取り。バーガー屋の自動ドアをくぐる。アルバイトに適当に手を振りながら、店の奥を親指で示した。
「ついて来てくれ。俺の仲間を紹介する」
 で、マクドの隅で慌てふためいたようにガサゴソ音を立てるのが我が天使。大慌てでチーズバーガーをトレーに置き、前髪を整えている。その隣に立ち、まだ呆けたようにこちらを見ていた朱里を手招きして呼んだ。
「高瀬アユミ。小さい時から一緒に鍛えられてる、俺の相方だ」
「こんにちは」
 姿勢を正し、ピンと背筋を伸ばしてお手本的な笑顔を見せるアユミ。朱里は目を見開いて、魂が抜けたような顔をするのだった。
「相……方…………?」
「そう相方。俺みたいな弱小が一人じゃあっさり死んじまうだろ? アユミが一人で何かあっても困る。だから、本来俺たちは二人一組《ツーマンセル》で活動してるわけだ。具体的にはバケモノ退治をやったり、呪いの原因となってるこじれた状況を解決したりする。」
 険しい目をして、まじまじとアユミを観察する朱里。本日のアユミちゃんは実にお洒落さんである。襟元の広い、ふわりとした白系の服で甘いカジュアル感を演出。少し無造作気味にセットした髪もナチュラルで大変宜しい。全体として、お洒落かつ柔らかそうな雰囲気を演出している。
 学生服の朱里が、そんなアユミをただじっと観察し続けているので、観察される側はいよいよ目を点にして疑問符を浮かべてしまう。かと思えば朱里が俺を半眼で見てくる。
「……私を騙しているでしょう」
「あん? なんでだよ」
「ただの普通の女の子。あんな怪物たちと戦えるわけがない」
 なるほど確かに、目の前の美容院帰りとしか思えないカジュアル系の少女を見て、戦闘員である狩人だと思えないのは当然だ。
 俺は「フ」と唇を歪め、最強さんに素敵な提案をしてやることにした。
「腕相撲やってみろ。レッドオーラ使ってもいいぞ」
「…………は?」
 朱里がいよいよ、信じられないものを見るような目を俺に向ける。そんな正気か? みたいな顔しないで欲しい。
「あー」
 そういえば赤と朱だな。どうでもいいことを考えながら、にこーとヤバイ笑顔を浮かべるアユミを見ていた。しかしここで引き下がったところで何も始まらんので、半ば無理やり朱里をアユミの対面に座らせた。
「いいか、本気でやらないとケガするぞ」
 ビシと指を突きつけて朱里に言った。ぱちくりと瞬きした朱里は、団扇のように手を振って言った。
「何言ってるの? そんな怪我させるほど力入れるわけない」
「いや、あんたがケガするって言ってるんだが……まぁいい。とりあえずやってみようぜ」
 悪いな、とアユミに謝っておく。はぁまったく、と溜息つかれてしまう。渋々朱里と手を合わせて腕相撲の構えを取ってくれた。本当に、朱里も大概だがアユミほど腕相撲が似合わない人間もいないだろう。介護士のような折り目正しさでご挨拶してくれた。
「はい、よろしくお願いします」
「あ、ええ……こちらこそ」
 朱里がチラチラとこっちを見てどうしようかと悩んでいる。しかしもう、既に腕相撲の構えになってる以上、あとは俺がスタートの合図をするだけなのである。
「さてお二人さん。いまの心境は?」
 朱里が本当に困った顔をしている。
「えっと……その、悪いけど、ごめんなさい。先に謝っておく」
 アユミの細い折れそうな腕に、朱里が申し訳なさそうにしている。
「OK。アユミは?」
「勝てる気がしないなー」
 アユミちゃん棒読みである。肩をほぐしているが、そんなん必要ないだろと言いたい。そして腕相撲が始まり、
「用意はいいな? んじゃレディ、ゴー」
「!?」
 見なくても結果は分かりきっていた。アユミの怪力で大破するマクドのテーブル。紙くずのように貫通し、朱里の右手が床に押し付けられる。アユミは格闘家のようだった。朱里は、投げ技を食らったように浮遊して無の表情になっていた。宙を舞うフライドポテト、厨房から文句を投げてくるアルバイト。
「なぁアユミ。加減したか?」
「う、うん。でもちょっとはその、レッドオーラ? とやらの抵抗を期待してたから、軽く力んじゃったのかも」
「だよなー」
 勝負あり。可愛い右手を握ったり開いたりしている。さすがは我が愛しの暴力天使(攻撃意思ゼロ)。もはやクシャミで小屋を吹き飛ばす系事故の域である。天板が剥がされ脚だけになった机の無残さなど、最近はあまり見てなかったお約束。いやまったく、やっぱりアユミはアユミだったというわけだ。
 骨折でもしたのか、手の甲を抱いて床で丸まり震えている朱里ちゃんに声を掛けることにした。
「無事か? 折れてないか?」
「大丈夫?」
 しゅばっと振り返り、眉間に皺を寄せてアユミを見るのだった。



「ここが……アジト?」
「おう」
 と言ってもただの一軒家である。コンクリ製の安っぽい塀に囲まれた、愛しい我が家。庭の隅っこに雑草とか生えつつあったので、今度刈っておこう。家はそこそこ綺麗だが玄関口はそんなでもない、という辺りが何かを表現してるような気がした。ちなみにちょっと右方へ回れば2階に俺の部屋があり、どっかの爆破馬鹿に割られた窓ガラスをガムテープで補修してあったりするのだが気にしない。
「私を騙しているでしょう」
「なんでだよ」
 ふ、とクールに髪を掻きあげるミス最強。腕相撲ではアユミに負けてしまったが、ヒーロー性は健在だ。
「普通の家。それ以上でも以下でもない」
「あんた、怪物退治はトニー・スタークばりの豪邸に住んでなきゃいけないとか考えてないか」
 俺たち狩人だって人間なのである。当然人間の家に住む。
「じゃ、入ってくれ。靴は脱げよ」
 玄関を開けて当たり前のことを言ったら睨まれた。キニシナイ。
「中も普通の家ね」
「ところが、普通じゃないんだよな」
「紅茶入れてくるね」
 家庭的の権化がキッチンに向かっていく。俺は携帯画面を見つめ、メールのログを確認。
「地下で先生が待ってる。行くぞ」
「先生?」
「ああ。それなりに覚悟はしておいた方がいいだろうな」
 何せ、うちの先生は朱里と手合わせしたいと仰っているのだ。



 ひやりとした大気がうなじを撫でる。朱里を引き連れ、一歩一歩と階段を下っていく。周囲は暗く、本当に何の明かりもなかった。
「……民家に地下があるなんて、確かに普通ではないわね」
 不敵な顔をする朱里ちゃん。何を隠そう、我が家である。うちの家は実に狩人らしい作りをしていて、一見普通に見えるが、実は隠し階段で地下の鍛錬室へと繋がっているという秘密的構造だ。
 ひやりとしたコンクリートの感触。まるで地獄へと続く階段のようだった。それを下りきり、手探りでスイッチを押せば、端から次々と蛍光灯に明かりが灯される。暗闇は塗りつぶされ、いよいよ板張りの、俺たちの地下鍛錬室が顕になるのだった。
「!」
 朱里が、何かを感じ取ったようだった。それもそうだろう。鍛錬室の最奥には、カラスのような背中があった。圧倒的な気配を纏う魔女。それが正座を辞め、立ち上がってこちらを向いた瞬間に大気が通電した。
「……………………来たか」
 痺れるほどの威圧。雨夜のような切れ長の瞳が、いまは昏い狂気を携えて朱色の少女を威嚇していた。有り体に言えば「ブチ殺すぞ小娘」という言葉を目で語っている。しかし、先生が朱里に怒りを抱く理由も関係性もないはずなので、いつもの気まぐれだと断定、俺は呆れた。
 朱里はただ、必死な顔をして負けないようにと強く睨み返していた。そりゃ、誰だって出会い頭に敵意を向けられれば警戒するだろう。
「……なに、あなた。」
 朱色の瞳が発光しているようにさえ感じる。先生は、いつになく涼しい顔をして朱里の言葉を受け流すのだった。
「お前が朱里か。話は聞いているよ。なんでも、たった一人でバケモノ狩りをやっているのだとか」
 その左手に、鞘に収まった日本刀。重々しい黒色は数多のバケモノを切り伏せてきた兵器だ。先生のその怖ろしく邪悪な気配に、朱里は疑わしそうに困惑していた。
「……あなたは、狩人なの?」
「ああそうさ、狩人の中の狩人さ。なにせバケモノを狩るんだぞ? 大量に狩って来た。聖人君子をも上回る、最高の悪人殺しだ」
 にたりと唇を歪め、浪人のように低い抜刀の構えを取る魔女。ふわりと膨らむ黒セーラー服。いきなりの攻撃体制に朱里が驚き、俺は壁に立てかけてあったそれを朱里に押し付けた。それは、鞘に収まった西洋剣。
「え……何?」
「持ってろ。じゃないと、死ぬぞ。」
 コンマ五秒後に現実化する非現実。三日月の笑みを貼りつけた黒い魔女が、ギリギリ視認出来る速さで、つまりかなり加減した速度でハロウィンのお化けみたく跳んできて朱里にいきなり斬りかかった。
「!」
 馬鹿げた一足飛びの、自身が飛び道具になるような悪夢みたいな中距離剣撃だったが、受け止める方もなかなかに奇跡の持ち主だった。あの一瞬で鞘から剣を半分まで引き抜き、先生の斬撃を受け止めてみせたのだ。突然の出来事に朱里本人は呆然としているが、先生は剣呑な笑みを深めるばかりだった。
「そら、躱せ! 首が惜しかったら抗ってみせろ!」
 先生の体が黒い竜巻のように一回転を描く。暴速で大気を引き裂いた一閃は、一部の迷いもなく朱里の首に吸い込まれていく。それを、今度こそ完全に抜剣した朱里が弾いた。銀の音色が鳴る。地下の冷えた大気に、ナイフを突き刺すように悲鳴を上げさせる。
「いきなり、何を――!」
「黙って死ね。嫌なら抵抗してみせろ」
 再生速度を間違えたような怖ろしいリズムで先生が刃を振るう。朱里は両手で剣を支え、苦しい顔をして防戦一方だった。
「このっ!」
「む」
 連続剣撃の隙に切っ先を突き出し、かなり強引に先生を下がらせる。朱里らしくもない、竹やぶに棒を突っ込むような乱雑な動きだった。あまりの猛攻に疲労したのか、よろよろと後退した朱里は、息を切らしながら言ってくる。
「どういうこと? なぜ狩人が斬りかかって来るの。私、何か狩人と敵対するような地雷を踏んでしまった?」
「さぁ。単にお前の実力を見たいんじゃね? 昨日の夕食の時、できるだけ話を盛っといたから」
「は……?」
「先生気合い入れてたぜ。『その小娘がビルを一刀両断すると言うんなら、オレは阿蘇山を一刀両断してみせよう』ってよ」
 横目の朱里に、軽蔑するような目で睨まれた。石膏像がコンクリビルに変わったくらい気にするなよ。似たようなもんじゃないか。
「どうした小娘? 自慢の呪いは使わないのか」
 余裕の笑みで、先生が手招きして挑発してくる。肩に担いだ名刀・小笹はいつでも鏡みたいに輝いている。朱里はその死神みたいな銀の輝きと先生の不敵な笑みに、険しい顔をした。
「……あなたは、どこか不吉。というか性悪の匂いがする」
「お褒めに預かり光栄。じゃ、とっとと本性を現せ小娘。オレはどうでもいい相手をいたぶっているほど暇じゃないんだ」
「――――――」
 剣を強く青眼に構えた朱里から、緋のオーラが滲み出る。それを見て先生が批評するように顎に手を当てている。苛烈な、赤い炎のようなそれ。
「ほう? 悪くないな。なかなか力の篭った呪いのようだがさて――」
 レッドオーラが、朱里の全身に行き渡る。一般人である朱里に怪物退治の奇跡を与えてきた無敵の呪い。凄まじい圧迫感が地下鍛錬室を支配していた。――この瞬間、朱里は人間から超越者にスイッチングする。あの図書館で巨大甲冑をなます切りにした超高速剣撃の再来だ。迎え撃つ先生は、どこまでも不敵で挑発的で上から目線だった。
「いいだろう。見掛け倒しかどうか試してやる。来い」
 応える、爆速のロケットスタート。地下鍛錬室を揺るがす砲弾のような跳躍。濃い緋色を纏った朱里の姿が一瞬で掻き消えた。弾丸のように高速で跳んだ先、既に両者は剣を打ち合っていた。
「!」
 凄まじい鋼の悲鳴が大気を割り裂いた。まるで超音波みたいな衝撃。ただの一撃の余波だけで、天井に並ぶ電球が四つほど割れた。刃を押し合う両者だったが、先生は不敵な笑みから一切表情を変えず、朱里の方は驚愕に目を見開いていた。その時点で俺はこの勝負の結末を悟る。
「……渾身の一撃を受け止められたのが、そんなにショックか?」
「――っ!」
 レッドオーラが加速し、押し合っていた剣を力ずくで振り抜く。後退した先生に向かって、朱里が返す刃で弾けるように迫る。跳ね上がる一閃、またしても目にも留まらぬ超速剣技。緋の軌跡が美しかった。魔法みたいなその剣を、しかし先生は当然のように受け止め、流し、体勢を崩させて、隙だらけの朱里とすれ違う。反撃もせず、耳元に魔女の囁きを浴びせながら。
「そら、これでお前は一度死んだ。この場で殺されないことに感謝しろよ」
 呆然とその場に崩れ落ち、膝をつく朱里。先生はケラケラと嗤う。朱里は跪き、愕然と声さえ失っていた。
「……………………」
 信じられないものを見るように、先生を見上げた。悪魔のように立ちはだかる最凶剣士。気持ちは分かるさ。先生は怖い。朱里は無敵だが、先生は極限なのだ。いままでの勝負に勝ち続けてきただけの者と、これ以上が存在しない者とでは立ち位置がまるで違う。レベル75とレベル99の間には絶望的な差があるのだ。
「ま、だ……!」
「ほう?」
 ゆらりと立ち上がり、声を上げて再び剣を振るう朱里。レッドオーラを纏った本気の剣だ。いままで、ひとたび発動すれば決して負けることのなかった能力。徒競走では1位になれたし、怪物退治では必ず圧倒した。非力なはずの少女を最強に仕立て上げてきたシンデレラの魔法が――――――無残に破壊されていく。
「くぁっ!?」
 肩を掠める鋭い一撃に、再び崩れ落ちて肩を押さえた。戦士の顔に苦渋が浮かぶ。防御も回避もまるで追いついていなかった。ひとしきり打ち合ってもう飽きたのか、先生が退屈そうに言った。
「勝負あったな。もう分かってるだろうが、お前ではオレには勝てない。所詮は呪い頼みの素人剣だ。確かに速いが、そんな程度じゃうちのクソ弟子2号の怪力に潰されて終わる」
 先生判定、朱里よりも上の階で鼻歌交じりにお料理してるアユミちゃんのほうが腕っ節強いらしい。本人はきっと「ないない」と手を振って否定するだろうが、そういえばあれはあれで魔王みたいなものなのだった。片手で四tトラック持ち上げられる。見た目に騙されてたまに忘れそうになるが。
「…………さて、もういいだろう」
 先生が、刀を振り上げる。それを色の抜けた瞳で朱里が見上げていた。俺は、先生が何をしようとしているのか直感して制止に入る。しかし、間に合うわけもない。
「待ってください先せ――!」
 鈍くガラスの砕けるような音を立てて、刃は振り下ろされていた。完全に直撃している。朱里の髪がふわりと舞い上がる。確かに、間違いなく、先生の日本刀は――――朱里の西洋剣を破壊してしまっていた。俺は必死で悲鳴を飲み込む。あの西洋剣、通販で二十万円だぞ。
「………………」
 朱里は、尻餅ついたまま、魂が抜けてしまったような顔をしてバラバラに砕けた剣を見下ろしていた。石みたいに砕けている。まるで戦士の誇りを砕かれたかのよう。まるで、朱里の戦いの終わりを告げるかのようだった。
「この縁条市はオレの仕事場だ。お前が手を出していい場所ではないし、お前が必死で守る必要性もない」
 死の宣告を告げるような残酷さで、魔女は少女に警告したのだった。それはいっそ荘厳でさえあるほどの不吉さで。
「戦いをやめろ。一般市民にそんな権限はない。お前は、“戦ってはいけない”んだよ」
 死の化身。そもそも、狩人というのはそういうものだった。朱里は歴戦の死神を見上げ、ほんの一瞬だけ歳相応の仕草で手を震わせた。それは、恐怖。そして、同時に安堵でもある。
「…………戦いを……やめる……?」
「そうだ。そうすればお前も、自身の呪いに食い殺されることもないだろう」
 朱里が、真実を見抜かれたように自分の胸に手を当てる。
「あの呪いは自責だ。お前は、このまま自責の呪いを使い続ければいずれ致命的な支障を来たすようになるだろう。予兆はあったはずだが?」
 自責? 朱里は自分を責めていた? 呪いが具現化するほどに。その理由には俺も気付いていたし、同時に俺では親身になって共感してやれないような気もした。立場が違うのだ。
「レッドオーラは……命を削る?」
「そうだ。なにせ呪いだからな。日に日にやつれていって、いつか呆気なく死ぬなんてよくある話だろう」
「は、は……っ」
 力なく、壊れてしまったように朱里が笑う。かたかたと震える自分の両手を見下ろしていた。その手のひらから零れ落ちていくものは何なのだろう。泣き笑いのような声。今日までずっと、戦いたくもないのに戦い続けてきた少女。ただ、みんなを守りたかった――いや、単に犠牲を見逃せなかったのだ。それは強迫観念なのだと思う。そんな意思なき意思に突き動かされてきた少女の、自身を縛り付けていた呪いを先生は壊したのだ。朱里の目の前で、銀の鋼が粉々に砕かれていた。剣とは誇りだろう。それを見下ろす朱里の心境は、きっと一言では言い表せないような、本当に複雑なものだったのではないかと思う。
「…………そっか……終わりか……」
 両目を手で覆いながら、故障したように項垂れる、戦闘しか知らない少女。戦いから解放された戦士は、果たしてどこへ向かうのだろう。放心したような顔の少女を、先生は憐れむように見下ろして、興味を失ったように背を向けた。



 深夜の公園で、ブランコに腰掛けた朱里が真正面にいた。俺はパイプ柵に腰掛け、どこかしおらしくなった気がする朱里を見ていた。きこきこと、ほんの五センチ程度ブランコが揺れる。
「どこ見てるんだ?」
 澄んだ目をして遠くを見ていたので、呼びかける。朱色の瞳は夜でも朱い。深く落ち着いた、しかしルビーのような不思議な瞳。それが今は、無気力に虚空を眺めていたのだ。
「……夜って、静かなものね」
 意味深な言葉を零す朱里。オレは先生のようにニヒルに肩を竦めて応えた。
「そりゃ、目の前に呪い持ちの敵もバケモノもいないからな」
 静かなのは当然だった。ここに「戦闘」の二文字はない。虫の音と風ばかりが聞こえるほどに、湖面より静まり返った縁条市の片隅の児童公園。朱里の気品ある美貌は、こんな錆びれた公園には到底似つかわしくない。いつだって少女は、血で血を洗う過酷な戦いを生き抜いてきたのだ。
「役割を終えた気分はどうだ? せいせいしただろ」
「そうね。とてもすっきりした。戦いなんて好きじゃなかったし、肩の荷が下りた気分だわ。本当に晴れ晴れとしていて、本当に――」
 冗談めかして明るく言おうとした朱里が、言葉に詰まる。何も言えなくなって、誤魔化すように目を伏せてしまったのだ。こうして見てれば、本当に歳相応の少女でしかなかったのだと実感できてくる。
「……雑談だけどな。なんで、実力のある人間って神様みたいに見えるんだろうか」
 虚を突かれた顔をして、朱里が苦笑いを浮かべた。
「なに、それ。」
「ただの雑談だよ。どう思う? 実力のある人間は神様に見えるって」
「よく分からないけど……でも、少しだけ分かる気もする。確かに自分より腕の立つ人間は神様か魔法使いのように見える」
 その物憂げな微笑で、朱里は一体誰の切っ先を思い描いているのだろう。きっと怖ろしくて凶悪な魔女なのではないかと思う。
「魔法にしか見えなかった……あんな流星みたいに速い剣、対抗できるわけがない。ねぇ、あなたの先生も私と同じように、何かの呪いを使っているの?」
 ブランコに手を突いて肩をいからせ、少女はそんな事を言った。
「……いや。呪いなんかじゃない。先生は生身の平常運行でアレなんだよ」
 口にしながら、自分の師匠のあまりの常識外っぷりに怖ろしくなる。どう考えたって呪いよりあの人の方が摂理を捻じ曲げているだろう。
「確かに、自分より優れた人は神様か魔法使いみたいに見える。同じ人間なのに、何故なのかしら?」
「そうだな。それを考えるにはまず、『すごい』って言葉の意味を考えにゃならんな」
「すごい?」
 大した話題でもない。俺の思考もつまらなかった。
「『すごい』ってのはつまり、想像を超えてるってことだよな。じゃあその想像ってのが何かと言うと、これは自分の中のニュートラルな価値観なんだと思う」
「……ニュートラル?」
「ああ、中庸《ニュートラル》。人間ってのは単純なもんでさ、今までの経験や見聞きしてきたあらゆる価値観の、そのすべてを二で割った真ん中を自分自身の思考にするんじゃねぇかな?」
「ザックリすぎるけど……でも、確かに一理あるかも知れないわね」
「更にザックリ言うと、自分の知る限り最悪の価値観と最高の価値観を二で割ったものが、自分の中のニュートラルになるんじゃねぇかな」
 自分自身、喋りながらあんまりにも大雑把すぎるだろうと感じる。しかし実験的に単純化して考えてみるのも悪くはないだろう。俺は大げさな手振りまで加えて乗りかかった船を目的地まで運ぶ。
「で、そんな最悪と最高と中庸の価値観に対して、『すごいもの』ってのはたぶん、その三つの枠を超えるモノってことなんじゃねぇかな?」
 そいつは価値観の破壊だ。自分自身の常識を超える、想像もしなかったもの。それが目の前で実演された時。あるいはそこまで大袈裟でなくとも、自分自身のニュートラルを大きく変動させてしまうものに出会った時――
「そのとき人間は、その常識外の存在を『神様みたいだ』『魔法のようだ』っつって称賛するんじゃねぇかな」
 朱里が難しい顔をしている。いつもの、眉間にひとつ皺を寄せた顔だが、今日はどこか感心しているような雰囲気があった。
「………つまり、『すごい』というのは『圧倒的に想像を超えてる』ということ? よく考えてるのね。そんなこと、考えたこともなかった」
「そりゃそうだろ。意味のない思考だからな」
 話し終えて、この話がどこにも着地できないことに気が付いた。
「まぁその、なんだ。アンタだってさ、いままで想像もしなかった『すごいの』に出会ったわけだろ? 先生と出会ったことによって、もしかするとどっかで、アンタもいい意味で価値観が壊されちまったのかもな」
 ぴた、とまるでユーレイでも見たような顔をする朱里。猫みたいだと思った。俺は自分自身要するに何が言いたかったのかと頭を掻いていた。
「………驚いた。真っ黒な目をしてるくせに、意外と見てるのね」
「何?」
 くすくす、と朱里の柔らかな口元が微笑んだ。あどけない微笑みだった。
「おい、誰が死んだ鳥類の目だって?」
「ええ真っ黒。あなたの目にはまるで光がない。何も信じてないって顔してる」
 心外だ。別にそこまで冷め切ったつまらない人間になった覚えはない。そう、冷めた人間はつまらない。熱のない生物ほど面白みのないものはない。だからこそ俺は、ほんの少しだけ残念に思う。隣のブランコに腰を下ろし、分かりきった問いを投げる。
「お前はもう、戦わないよな」
「ええ、もう戦わない。」
「バケモノ共は、俺たち狩人に任せるんだよな」
「ええ、任せる。邪魔しないように大人しくしている」
「レッドオーラは二度と使うべきじゃない。呪いは身を滅ぼすもんだ。分かってるよな?」
 膝の上に手を置いた朱里が、俺を見た。本当に、いつ見ても魔法のように美しいルビーの瞳で、いつになく真っ直ぐに言ったのだ。
「ええ、理解した。私はもう剣を取らないし、レッドオーラも使わない。ぜんぶ、すべて、あなたたち“狩人”の方針に従います」
 それは、とても貞淑な、女騎士のような宣言だった。これにて問題は解決し、俺は安堵し、そしてほんの一欠片だけ抱いてはいけない寂寥を覚える。
「そうかい。じゃ、もう安心だ」
 言いながら俺は、まるで普通の少女のように笑う朱里を見ていた。
 ――――炎の中を駆け抜けた孤高の戦士。有限の命を朱く散らすような、そんな短命な炎の華の在り方。命を削る戦い。それを捨て、朱里はただの凡庸な少女になったのだ。