斬-the no-side in our life-

#朱里-RED EYES-

 では語ろう。
 夜の街を守護していた知られざる戦士―――“朱里《しゅり》”の話を。




 巨大な騎士像がひとりでに動き出して襲いかかってきた。その手に握られた3倍サイズの巨大剣が、俺をハエ叩きみたくプレスしようといままさに振り下ろされるところだった。
「だッ!」
 咄嗟に跳んだ。神回避と呼ぶに相応しい逃げ足だ。しかし、直後の直下型地震は洒落になっていなかった。
「おい……おいおい……」
 天井が崩れ落ちてくるかと思った。たちの悪い夢を見ているのかと疑うも、見上げた屈強すぎる騎士像の幻影は消えない。白い石で出来た超級騎士は、通常の人体の3倍ほどの高さでもってちっぽけな俺を堂々と見下ろしてくる。
 勝ち誇るように、腰に手を当てて顔を寄せてくる。
 この巨大鎧甲冑はとある公共図書館の中庭で剣を掲げて永久停止していたはずの石膏像なのだが、1人懐中電灯片手に夜の図書館の廊下を見回りしていたら、そいつがひとりでに動き出して俺の背後から襲いかかってきた。
 意味、不明。
 懐中電灯はついさっき、奴の巨大な足に無残に踏み潰されてしまった。
「えーと…………まぁ何だ。ここが、夜な夜な妄念の徘徊する幽霊図書館だったって噂はマジみたいだな」
 くるりと短刀『落葉』を回して逆手に握るが、あの3倍サイズの巨大剣と比較すれば、爪楊枝か何かに思えてきて頼りないことこの上ない。
 鎧甲冑が稼働を始めて一歩後退。質量が違いすぎるので防御は放棄だ。その背中から大気に染み出す黒色――――“呪い”。どこの誰が抱いた妄念なのかは知らないが、本当に迷惑極まりない。
 この世には呪いという幻想が実在している――いや、半分ほど存在している。質量皆無、化学変化皆無、あらゆる検査や精査に反応せず役割を終えれば即・蒸発……それがあの黒い染み“呪い”なのだ。あれらは結局のところ、現実に爪痕を残しうる白昼夢でしかない。
 もっとも、その辺は俺の中途半端な知識による憶測なのかも知れないが――とかく俺が先生に教えられた知識はただひとつ。それは、過剰な知識など戦闘時には枷にしかならないのだということだ。
 窓ガラスが大破する。なるほど確かに、こうやって大剣をかいくぐり、建物の外に転がり出て犬逃げする際に、知識なんてものが何の役に立つだろう? 本当に必要な生命力は逃げ足と回避スキルだ。
 あと悪知恵。あの巨体、一度建物内に入ってしまえば出てくるのは大変だろうなーという予想が的中した。狭い窓から腕だけを突き出しこちらを掴もうとしていたが、それきり巨体が引っかかって出て来れなくなっている。胴が太すぎるのだ。
「はっ、バーカ! 納豆ダイエットで激痩せろ! 放送翌日に主婦がスーパーに殺到して訴えられてしまえ!」
 あるある。そのような虚勢なんかも張りながら、足を止めないまま恐怖に震える手で携帯電話を取り出した。息が詰まる。ここで落ち合うはずだった先生にコールするも、まるで繋がりやしない。
「くそ……また家に置いてきたんじゃないだろうな」
 拝啓ズボラ師匠、頼むからケータイ電話を携帯してください。かと思えば中庭の中腹で、ようやく通話が繋がるのだった。
「! もしもし、先生――ッ!」
『おい、遅いぞ少年、どこほっつき歩いてる』
「―――は?」
 思考が漂白されるというのはまさにこの事だろう。今この瞬間、俺は間違いなく『無』の顔をしている。
 どういうことだ? 図書館集合のはずだったんじゃないのか?
「えェと先生…………本当の集合場所、は」
『あん? だから図書館だろう、市立の。市民公園の近くにあるだろうが』
 なるほどもしかすると、公園と図書館をご近所に設置しているのかもしれない。市立公園。どこだろうそれ、俺が今いる図書館は割と山の中なのだが。
『そうか分かったぞ少年――お前、市立じゃない方の図書館へ行ったな。この愚か者が、とっとと来い。10分待ってやる…………ブツッ』
「あちょっと! 先生!? 先生ぇえええ!!」
 はむらむざん。通話はぶっつりと途切れてしまった。怒りを買ってしまったのか、再度掛けてもまったく出ない。俺は中庭を駆けながら、状況を理解しつつあった。
 要するに、先生たちは街なかの図書館へ行っていて?
 俺は1人、この山奥の図書館で出会うはずのなかった巨神兵に追われているわけか。巨神って何だろう。知るか。
「なッ、」
 途方に暮れていたら、急激に月光が遮られて影に覆われる。空飛ぶクジラでも現れたのか? メルヘンな妄想が展開していくよりも速く、この鍛えぬいた狩人の体は反応・即座に回避行動を試みるのであった。
「ぐぅ、おォオオ――!?」
 またしても直下型地震、ただし今度はマグニチュードが違うのであった。紙くずみたいな俺はふっ飛ばされるように地面に手をついて、恐る恐る背後を振り返るのだった。
 ――先ほどまで3倍鎧甲冑が悶えていた窓枠。壁ごと大破。墓石を倒したような無残な脱出跡を晒している。そこから3歩進んでクレーター、どうにも跳躍痕らしい。ならばもう、俺のすぐ背後にそびえ立っている山のような存在が何なのかは改めて問うまでもない。
「……おい……待て?」
 巨大鎧甲冑が既に、墓標《モニュメント》みてぇな鉄の塔つまり巨剣を、大上段に振り上げてこの俺を平面にしようとしている衝撃的映像だった。
「冗、談――っ!」
 背中が撫でられたように冷たくなった。そんなでもまだ狩人の体は動く。ほとんど自動回避じみてきたが、これもすべてウチのスパルタ師匠の功績である。実に危うい1秒以下のラインでなんと、まだ躱す。
 衣服を掠めた超重量がアスファルトに4割ほど埋没し、跳ね逃げていた俺の真下でスピーカーの振動膜みたくアスファルトを揺らす。
 もはや別世界を覗きこんでしまっているような気さえする超破壊力。そんなものに足場を叩き割られて、俺は木偶の坊のようにおぼつかない足取りで後退した。
「ぐ……お、いッ!?」
 アスファルトが砕けていたために、引っ掛って無様に尻餅なんぞついてしまう。それは一巻の終わりだった。
「――――――――、」
 大気が残らず酸性に取って代わってしまったような感触。大剣を捨てた鎧甲冑が、俺に向かって右手を伸ばしていた。あっさりと虫のように掴まれる。死の腕に。
「いぎ……ッ!」
 聖火のように持ち上げられる。漫画でよく見る構図だろうが、自分視点ではまな板の上の鯉、逃れられようのない崖っぷち、石膏みたいな材質で出来た手はどんなに藻掻いてもビクともしやがらない。
 それどころか、軽く持ち上げられただけで握りつぶされそうになっている。
「てめ……はな、せ、コラ……!」
 動かない。まったくもって動かせないまま、ソフビ人形と化した俺を、鎧甲冑は掲げ、地面に叩きつけるための予備動作に入る。やばい。至近距離で頭から叩きつけられればさすがに俺でも受け身どころじゃない。首が直角に曲がっちまう。
 やばい、やばい。焦燥してる間にいよいよ逆さまにされてしまった。遮蔽物など皆無。両手両足を握られていては防御も回避も有り得ない。
 だから、俺に動かせるのは顔だけだった。目が、視界の隅に赤い色を見咎める。もしかして相方が助けに来てくれたんだろうか、なんていう馬鹿な期待。
「……は?」
 ――――それは馬鹿な期待だった。だって、相方はいなかった。代わりに、白く煌々と輝く街灯の上、そこに見知らぬ赤色の幽霊がいたのだ。
 幽霊と見間違う。色素の薄い長い髪、見知らぬ学校の学生服、そして、どうやっても無視することが出来ない鮮烈な緋色の瞳。そのアカイロが、まっすぐに俺を観察していたのだ。
 かと思えば、その姿が忽然と消滅する。緋の残照、視たことのない赤い呪いなんつー怪奇を残して。
「―――おい、」
 いまの動き、まるで先生だ。消えたのではなく、早すぎて認識が追いつかなかっただけ。俺は視線を巡らせる。あの長い髪の何者かは、うちの先生じみた人間外の速度で翔けたらしい。
「なッ!?」
 全身が、掘削機に抉られたような衝撃を感じて身震いした。いや違う。いまのは、鎧甲冑の腕が切断された感触だ。俺は背中側から、切り落とされた手のひらをクッションにして墜落する。―― 一瞬、また赤色の呪いを視た気がした。
 俺は這い出る。オーラは奔る。縦横無尽に、凄まじい速さで舞って鎧甲冑を翻弄する。確実な剣撃が一斬、また一斬と鎧甲冑の全身をなます切りにしている。そのたびに緋色の呪いが散った。
 鎧甲冑が、剣を振るう。しかし虚しく空を切り、断末魔の足掻きが狩猟者を捉えることはついぞなかった。
 最後に、少女は巨体の頭上に現れていた。その西洋剣の刀身に色濃く纏わりつく赤色の呪いは、やはり見間違いなんかじゃない。それどころか、呪いは少女の全身までもを覆い、その動きを強化・加速させているように視えた。
 ――――――なんだ、あの呪いは。
「終わりよ」
 斬、と終末の音が鳴る。
 縦一閃、深々と鎧甲冑を割り裂いた剣は留まることを知らず、切り抉るように股下まで切断した。
 最後は地面を穿つ。それでもまだ、終わらない。後方に崩れ落ちていく鎧甲冑を緋の呪いが包んだと思ったら――
「なッ!?」
 まばゆい光芒、そのあまりの熱量に思わず目を覆った。
 ――発火した? なんだあの火力。ただごとじゃない。あまつさえ、鎧甲冑を突き動かしていた呪いに悲鳴を上げさせ焼却している。あっさりと千切れて消えた。
 残ったものは、キャンプファイヤーみたいな篝火だけだった。
 季節は秋。枯れゆく小枝が葉を落とし、死に果ててゆく夏と冬の間。こちらを振り返った少女は美しい、出会ったことのない高貴な何かを纏っていて。
 ……舞い散る火の粉が美しい。聖なる業火が中庭を真紅に染め上げている。その少女の白い肌さえも。
 なんて速度。なんて剣技。なんて強力な呪い。まったく馬鹿げているだろう。俺は、ほんの一瞬でも先生の領域に届く動きをしたこの女に、心底の畏怖を抱いていた。
 こっちに気付いてやってくる。そいつは長い髪を耳に掛けながら声を発した。
 どうにも俺は、ヒーローってやつに出会っちまったらしい。
「――――大丈夫?」
 心配そうに差し出された手が、本当にヒーローって言葉を連想させたのだ。



 男子たるもの、英雄譚のような強者に出会えば興奮するなってのが無理ってもんだろう。俺は惚れ込んでいた。異性としてではなく、1人の戦士として。その少女の剣技と呪いの強力さに、まったくもって感服していた。
「いやすげぇな。まったく凄かったな。何なんだアンタ、一体どこの所属だよ本当。」
 羽村リョウジ、俺こと無能。隣を歩くのはたおやかな雰囲気を纏った少女――いまは心なしか緊張したように表情が硬いが、俺の目にはクールにしか映らない。
 山奥図書館ユーレイ騒ぎ事件にピリオドを打った俺たちは、事後処理を担当の鷹町美空に電話で押し付け、長い長い山道を徒歩で下っている真っ最中だった。街灯の明かりだけを頼りに心霊スポットじみたアスファルトの上を歩いて行く。この時間帯ではバスもない。
 で、俺の関心は目下・隣の最強さんにあった。ふわりとカールの掛かった髪。まるで金持ちのご令嬢みたいだってのに、鋭利な愛らしさを湛え、その実力は異次元、左手の鞘袋に包んだ西洋剣は名刀(推定)、全部が全部ヒーローじみている。謎の美少女。まるでゲームのヒロインのようじゃないか。顎に手を当てて、少女のパーフェクトさに俺はうんうんと頷くのだった。
「その強さ、一割でいいから分けて貰いたいねぇ。あ、俺、縁条市所属の羽村だ。よろしく頼むぜ、最強サン。」
 畏怖とか尊敬とかを込めて右手を差し出す。足を止めた少女はしかし、硬い表情のまま俺の右手を見下ろすに留まった。
「あ……そういや気になってたんだが、あんたはどこの街の狩人なんだ? なんでこの街に? 管轄外で任務なんて大変だよなー」
 少女は答えない。言葉に詰まっているのか、あるいはいつかの兎ちゃんのように極度の人見知りなのか。なるほど分かるぜ、実力があったって人間だもんな。むしろ、そのくらい偏っていないとバランスが取れてなくておかしいだろう。
「………………ない……」
「んぁ?」
 だが、少女が子供のように手をもじもじさせて恥ずかしそうに言って来たのは予想外の言葉だった。
「所属なんて、ない。私、ただの一般市民だから……」
「…………………………………………………………………………………は?」
 イッパンシミンってなんだろう。聞いたこともない。あれだろうか、スーパーマンとかウルトラマンとか仮面ライダーとかの親戚なんだろか。少女は、切羽詰まったように縋り付いてくる。泣き出しそうな切実さだった。
「ねぇ、狩人って何? あなたは何者なの? もしかして、あなたもさっきのヨロイみたいな怪物たちと戦っているの?」
「え……? お、おう……」
「あなたは、1人なの? 仲間がいるの? ねぇ、あなたは何者なの? 警察とは別? 所属って、任務って、一体……」
「……………………」
 少女は必死だったが、俺は目を奪われてぼんやりしていた。だって仕方ないだろう。容姿とか実力とかをすっ飛ばして、何より強く印象に残る、この少女を象徴するシンボル……
 朱色の瞳。その鮮烈な彩度が相方を連想させて、なのにあいつと違ってこいつは孤独そうな気がした。
 孤独は人を不安にさせる。少女はあんなに強いくせにひどく不安そうで、まるでずっとずっと1人で彷徨い歩いてきた野良犬のようだった。なるほど、こういう時に取るべき行動は知っている。
「よし分かった。落ち着いて話をしよう」
「え――?」
 俺は笑った。面食らって絶望でも浮かべそうなその瞳を、孤独な赤を安心させるように。
 あの月のように、夜道を明るく照らしたい。みなが安心して街を歩けるように。俺たち狩人は、心からイッパンシミンの味方なのである。
「大丈夫だから、ひとまず落ち着けよ。人間、“落ち着いて対話する”ってのが何よりも重要なんだからさ」
 羽村リョウジの一言格言、対話のない状況とは人を殺す真空状態である。宇宙はダメだ。血が沸騰して死ぬ。内から破裂して死ぬし、太陽が眩しすぎて死ぬ。
「マクド行こうぜ。ラスベガスバーガーまじ絶品」
「…………そう。」
 ヘンに焦っていた自分が恥ずかしくなったのか、ようやく、ホッとしたように微笑んでくれた。いやまったく、誰かを笑顔にするというのは実に心地が良い。
 ――その時、少女が隠れるように瞼をこすっていた意味を、俺はまだ知らない。



 深夜にマクドナルド玄関は開いていなかった。代わりに裏側の駐車場から入るドライブスルーだけがこじんまりと、ラーメン屋台のように朧気に明かりを灯していた。しょうがないので俺は、徒歩で進む自動車と化す。具体的には、少女を連れてスピーカーの前に立ってやった。
『ピ――ガガ――いらっしゃいませ、お客様。誠に申し訳ありませんが、ドライブスルーは徒歩では……』
「今日は金曜日だ。シフト入ってんだろお前、ネタは挙がってんだよ」
『ち……グランドキャニオンバーガー終わったと思ったらこれだよ。っていうか、また違う女の子連れてるんですけどぉ?』
「訳ありだラスベガスバーガー、セットで2つ。どうぞ」
『訳あり? ああそう、仕方ないから飲み物は両方コーヒーサービスにしといてあげるよ。バーガー単品の金額だけご用意して前へお進みくださいどうぞ』
 そこでスピーカーの音声はブツリと途切れた。なんて気前のいいアルバイトだろう。俺はルンルン気分でドライブスルーを前進するのだが、背後から、まるで初めてデパートに来た子供のようにトテトテと付いて来る少女に気付く。
「悪い、コーヒーで良かったか?」
「……いえ。何でもいいけど、変わった注文の仕方をするのね。このスピーカーは何?」
「ん……?」
 朱い子の指先は、メニューの真ん中から突き出した拡声器に触れていた。おかしな質問のような気がしたが、エスプリの聞いた冗談だろうと思い直す。
「まぁ確かに、ドライブスルーを徒歩で注文できるのは、俺みたいな過剰にも程がある常連客だけだろうな。金はいいから、聞きたいことでも考えといてくれよ。事情はよく知らんがほら、色々と、あるんだろ?」
 難しい顔してああ、うん、そうね……なんて考えこむ少女。それを余所に財布を開ける。
「げっ」
 最近グランドキャニオンバーガーばかり食っていたせいか、思っていたより札《さつ》が少なかった。



 深夜のマクドの駐車場隅で、並んでバーガー食すの図。縁石を椅子にさせるなんていいのだろうか、と隣のふんわり髪のお嬢さんを盗み見ながら思い立つ。当人は、バーガーの箱を開けて何故か目を白黒させていたが。
「まるで宝箱みたいだよな」
「え……」
「この箱。バーガーひとつ梱包するには過剰だ」
 俺はバーガーをひと掴みにし、かぶりつく。ところで今回のマクドのキャンペーンは個人的にかなりイカしてると思うのだが、どうだろう。(ステマではない)
「さて、んじゃまずは何から話すか」
 勇気を絞ってバーガーにかぶりつこうとしていた少女の、そのルビーの瞳が俺を見た。まさかとは思うが、バーガー食ったことないわけじゃねぇよな?
 少女はバーガーを箱のなかに仕舞い、しばし星の光を数えるように無心の表情で中空を見たあと、落ち着いた声で言って来た。
「あなたは………………何者?」
 それはこっちが聞きたい。しかしお互い様だろう。異常現象狩りの途中で、自分と違う勢力の人間と出会うなんてまず無いことだ。
「俺は羽村リョウジ、ただの小卒だ」
「しょうそつ……?」
 言ってから考え直す。よく考えると間違ってた。
「悪いウソ言った。本当は小学校中退」
「――――っ」
 絶句される。あまりの低学歴っぷりに。あまつさえ、立ち上がって責めるような厳しい眼まで向けられる。いいさ笑いたきゃ笑え。ちっくしょう。
「……どういう、こと? 義務教育課程を免除されているの?」
 笑われるかと思ったのだが、違ったらしい。苦いように眉間にひとつ皺を寄せている。
「ん。小学校から逃げ出して、放浪してたら拾われたんだよ。俺の先生に。先生ってのは、異常現象狩りの先生な」
 全身が気怠い。こちらは極度の疲労、あちらもあの戦闘で疲労しているはずだろう。多少の知識を与えたら明日以降に回そう。
「全部話してたら朝になっちまうから、今日のところはあの時計の針が30分になるまでにしとくか」
 少女は小動物のように無言で時計を見上げる。どこか心細そうな気がした。
「明日はもっと細かく話せるだろ。こっちも、あんたに聞かなきゃならんことが山ほどあるからな」
「…………」
 あの赤い呪いのこととか、一体何者なのかとか。本当にUnknown極まりない。何か思う所があったのか、コクン、と難しい顔したまま頷いてくれた。緊張してるんだろうか。
「オーケ、まずはそうだな……」
 決まり文句を頭に浮かべる。まだ幼かった見習い時代に、相方と並んで体育座りして、先生から幾度と無く聞かされた説明だ。
「“呪い”って呼ばれるものがある」
 怨嗟が生み出す異常現象。苦痛憎悪絶望渇望、それら人間の負の感情は、行き過ぎればやがて堆積し、いつしか現実を歪める異常現象と成る。
 例えば、地下牢に軟禁され飢えた人間がいるとしよう。胃を焼く胃酸、朦朧とする意識、脂肪を燃やしきって骨と皮だけになってしまった痛ましい腕。死体のように床に転がり、ただひたすらに飢餓の妄念に苛まれている。食いたい。もはや何でもいいから食いたい。24時間虚空を見つめながら、彼はただひたすらに呪うのだ。食いたい。食いたい。喰らいたい。
 そしていつしか彼は死に、その代わりに一匹のバケモノがこの世に産み落とされてしまった。即ち悪霊、その牙は鋭く、その口でこの世のありとあらゆる存在を食す事ができる怪奇現象を帯びて。
 ――“呪い”。
 行き過ぎた呪いはやがて現実を侵食し、他者を食らうバケモノになってすべてを破壊する。いわば現世の影。俺たちは、その間違った幻想を狩り殺す勢力、その名も“狩人”だ。
「…………呪、い?」
「そう、呪いだ。この世に存在するほとんどの異常現象は、この呪いに起因するといっていい。言葉は悪いけどな。例えば――」
 興味深く、食い入るように俺の話に聞き入っていた少女。その気高い朱の瞳を見据え、俺は一つの事実を口にする。
「――――アンタのあの、朱いオーラ。あれも“呪い”だ。間違いない」
 俺の言葉に、少女は絶句したように目を見開いた。あ、やばい。地雷踏んだ感触が俺の心臓を握りしめた。
「ふ……ふふっ、」
 しかし予想に反して、少女はなぜか、子犬のようにころころと笑うのだった。
「呪い……そう、呪いか。確かにそうね――……」
 何故、笑っているのだろう。少女の無邪気さに、俺は暗い気分になった。少女は本当に腹を押さえて笑い転げ、楽しそうだったが。体育座りのまま顔を伏せ、落ち込むかのようにひとりきり笑っていた。
「――――力は、呪い。ええ本当にその通り。皮肉すぎて笑ってしまう」
 満足したのか、爽やかに髪を耳にかけ、少女はそんなことを言った。その晴れやかな顔が嫌だった。
「……悪かった」
「どうして謝るの? 本当のことを話してくれてありがとう。ああ痛快だった。――ああ、もう、約束の30分ね」
 少女は颯爽と立ち上がる。憑き物が落ちたかのような空元気に見えた。
「明日、またここに来ればいい? 時間は何時がいいかしら」
「……じゃあ、夜の8時でいいか」
「分かった。じゃあまた明日の8時に。今日は本当にありがとう、狩人さん」
 手を振って、満足気な足取りで去っていく。幻のように遠のく後ろ姿に、俺は本気で何も言えなかった。ふと見やればバーガー屋の壁に、コラボ商品だかなんだかのゲームのキャラクターが描かれていた。そいつも確か正義のヒーローだ。
「…………何なんだよ、『力は呪い』って……」
 本当に悲しそうに、笑い転げていたのだ。



 帰宅すると、別な図書館に行ってた先生と相方も帰宅していた。先生にどつかれるかと思ったのだが、既にご就寝だそうで、少し安心した。深夜の暗いリビングにて相方と並んで深夜テレビの眩しい光を見上げながら、今日の出来事を話し合う。
「おかしな女でさ。めちゃくちゃ強いのに、どうにも一般市民みたいなんだ」
「へぇ、すごいねえ。世の中そんな人もいるんだ」
「けどさ……」
「?」
 考えこむ。記憶にある情報と姿は一致するし、言動や出で立ちも間違いなく同一人物といえよう。
「あいつ、どう考えても朱里なんだ」
 ぽやんと相方が小動物のような疑問符を浮かべた。
「え、知り合い?」
「まぁ、知り合いっつうか――」
 単に俺が、以前からあいつを一方的に知ってただけだ。



 夜になった。
 今日は、朱里と会う約束をしている。早々に約束の場所に向かわねばなるまい。家を出て、見慣れた近所を抜け、少し急ぎ足で約束の場所へと向かう。
「一緒に行こうか?」
 ……街を歩きながら、アユミの言葉を回想する。実にありがたい。そして相方というのは2人で行動するもんだろう。狩人という仕事柄・無駄に意地を張れば死ぬこともあり得るので、素直に頼んでおくのが妥当だ。
「…………」
 そんなわけで20m後方、アユミは後ろから他人のフリをして付いて来てくれているのであった。基本的には俺1人だが、何かあったらアユミにフォローを頼む。今夜はこの体制で行く。
 で、待ち合わせの場所にはちゃんと、件のふんわり髪の少女がいるのであった。8時台のためまだ駐車場内を車や人が行き交うというのに、気にせず昨日とまったく同じ縁石に腰掛けている辺り、律儀なのか几帳面なのか。ところでなんか、キャットフードやってた。
「………何やってんだ、アンタ」
「!」
 しかも犬に。袋詰のやつを3時のポテトチップス食べる時みたいに左手で持ち、右手で犬に差し出していたのだ。俺の声を聞くやいなや跳び上がるように立ち上がり、中途半端な挙動で(あまり強くやると犬に嫌われるからだろう)犬をしっしと追い払っていた。
 キャットフードを背後に隠し、さらりと髪を掻き上げて少女はスポーツ漫画のライバルキャラみたくクールに微笑んだ。
「フ――どうしてここが分かったの」
「待ち合わせしてただろ。落ち着けよ」
「ち、違うから。決して餌をやっていたわけじゃないから」
「別に俺はマクドの店員じゃねぇから、隠す必要ねぇだろ落ち着けよ」
「どどどうしてそんなに責めるような目で私を見るの? 私が、何かした?」
「落ち着けよそして落ち着けよと言いたいところだが、強いて言うならドッグフードをやれドッグフードを」
 ぐぬぬと歯噛みしている。子犬のように唸る少女は、熱が冷めたのか不意にしゅんと俯いた。
「…………ごめんなさい。犬が、喜ぶから」
「太るぞ。つーか知ってると思うが、体に悪いんだぞ」
 そうなの? と、真剣に疑問を向けられる。遠く後方で猫使いLv40くらいのアユミが難しい顔をしていた。大丈夫だ、任せろ。
「? 急に遠い目をして、どうかしたの?」
「おう、遠くを見てただけだ。移動するぞ」
 歩き出す。すると、少女は何故だか「え」と大きく声を上げた。
「……マクド、入らないの?」
「ん? 昨日食ったろ、別な店いこうぜ」
「そう……」
 ラスベガスバーガーが気に入ったんだろうか。んな馬鹿な。



 薄暗く、雰囲気があって、まるでどこぞの穴蔵か宮廷にいるような気分にさせられるレストランだった。こういうオサレな店をレストランと呼ぶのが正しいのか否かも庶民こと俺にはよく分からない。
 店員までオサレだ。近寄りがたいというのは高級の証明だろう。今日のお勧めはモッツァレラのトマトパスタ。この店にしては王道すぎる気もするが、そこが逆に美味いのだろう。我ながら悪くない店のチョイスだ。これで、目の前の最強さんもきっと満足してくれることだろう。
 が、チラリと視線を向ければ、少女は緊張したような、しかし変わらない涼し気な顔で言って来た。
「こんな店、来たことない……」
「ああ、そう……」
 盛大にスベってる俺こと無能は、最強さんの向こう側の席に相方の姿を確認する。早々に注文を済ませ、とっとと本題に入ることにしよう。
「あんたは……その、本当に一般市民なのか?」
 朱里は難しい英語の問題を解くように黙考して、答えを出した。
「一般市民という言葉が何を示すのかは少し曖昧だけど、確かに私は一般市民よ。どこに所属してもないし、誰かに鍛えられたわけでもない」
 俺の脳裏に、あの苛烈な緋色の呪いがよぎる。にわかには信じがたい話ではある。あの呪いは強力だったし、あの実力は本物だ。
「昨日はあの図書館で何をしていた」
「幽霊が出る、って噂だったから。火のないところに煙は立たないでしょう? なんとかしないといけないと思って」
「じゃあ……その、昨日の高そうな剣はどうしたんだ? 狩人でもないのに、どこで手に入れたんだ」
 朱里が、刀剣袋に入れて持ち歩いていた剣。昨日見たが、美しい西洋剣だった。
「あれは、お爺さんの家の蔵で眠っていたものよ。誰が飾っていたわけでもないし、ちょうどいいから使わせてもらっていた」
「今日は持って来てないんだな」
「ええ――少し悩んだけど、素人が武器を持っているなんて罰せられるかもと思って」
「ああ、それは正しいかもな。別に俺はわざわざチクろうとは思わんが」
「それに、もう……私には必要ないのかも知れない。少し淋しい気もするけれど、剣を手放して夜の街を歩くなんて何年ぶりかしら……」
「何?」
 朱里は、静かに貞淑に微笑んだ。空虚なような、晴れやかなようなそんなかなしいものを纏って。
「…………」
 それを俺は、頬杖つきながら見ていた。食事が運ばれてきて、らしからぬご機嫌さでそれを食す。そしてすごい美味しいと舌鼓をうつ。次元違いに強いはずの少女が、空元気で何かを真似ているようで俺は少しだけ複雑なものを感じた。
 俺は無能。こいつは天才で、掛け値なしの戦士だ。牙を捨てた狼なんて哀しいだろう。
「あんたさ……なんか、昨日と雰囲気違うよな」
「え、何が?」
「なんか『吹っ切れちまった』って感じだぜ」
「………………」
 パスタを食す手を止め、フォークを置いて少女がしおらしい顔をした。
「そうね。私も………………案外、少しだけ、『普通』っていうものに憧れていたのかも知れない」
「そうかい。そいつは良いことなんじゃねぇの」
「そう? とても悪いことのように思えるけど」
 背伸びしながら考える。悪いこと? 普通とやらに憧れることが?
「……何言ってんだあんた。普通が悪いことなんてあるかよ」
「え――」
「『普通』ってのは素晴らしいだろ。それは満ち足りてるってことだからな」
 特別なんて何もいいことはない。そう、きっと苦しいだけなのだ。
「…………」
 少女はフォークを口にあて、なぜだか嬉しそうに俺をじっと見ていた。この容姿でそういう仕草をされると気圧されてしまう。
「私も聞いていい?」
「おう、何なりと」
「あなたはどんな能力を持っているの?」
 なるほど能力。俺だって狩人だもんな、能力という呼称はおかしいが、何かしらの呪いくらい保有してるのが当然なんだろう。
「草野球する程度の能力」
「……はい?」
 わくわくしているように見えた少女に、俺は現実の無情さを突きつける。すなわち、世の中には無能力で戦ってる人間だっているのだということを。
「あと、無能の呪い。まだ何か質問はあるか?」
 ぱちくりと目をしばたく少女。もう質問はないらしい。
「じゃ、聞くが。あの呪いは一体何なんだ?」
「呪い?」
「あんたのあの赤いオーラのことだ。あれは超能力じゃなくて呪いだろ」
 むしろ、これが最も重要な質問なのかも知れない。ああ――と頷いて、朱里は、フォークを握りしめた手を差し出してきた。その手に、フォークに緋色の炎のような揺らめきが生じる。まるで陽炎。そして幻影。これこそは、昨日、俺を窮地に追い詰めたあの鎧甲冑を打倒した必殺だ。
「“レッド・オーラ”――――って、私は呼んでた」
 レッド・オーラ。見たままだろう。分かりやすくていい。
「持ってみて」
「…………」
 朱里の手から、銀のフォークを受け取った。その瞬間にレッド・オーラは幻のように蒸発する。そして俺は、受け取ったフォークの感触に驚いていた。
「――――熱いな」
「ええ。少し曖昧な定義だけど、レッド・オーラはつまり、加速や活性化を誘発するエネルギーなのだと思う」
 なるほど――分かった気がした。昨日の、先生もかくやという動きを見せつけた朱里の戦闘能力の秘密。
「自分の肉体を加速させ、活性化させる……あるいは直接的に推進力に変えているのかも。詳しいことは私自身にも分からない。けど、確かなのはこのレッド・オーラが私に大きな力を与えているということ。単純な力比べでも、走力でもなんでも、レッド・オーラさえ使えば私は無敵になれる。その気になれば視力や聴力を強化することだって可能だし、剣で鉄塊を斬ることだって出来る」
 実に興味深い話だ。だって、そいつは“逆”なのだ。普通、呪いっていうのは外に向かうものだろう。誰かに対する激烈な怒りが呪いとなり、そいつを殺すための力を与える。それに引き換え……。
「この力が呪いというのなら――――私は、“自分自身を”呪うことで戦っていることになる」
 内向きの呪い。それは、なんて危ういことなのだろう。だって間違いなく、こいつのレッド・オーラは“呪い”なのだ。自分の戦闘能力を呪いによって向上している。そんなの、腕力を増やすために毒物を飲んでいるようなものだろう。
「…………いつからだ」
「小学校低学年の頃には、すでに力の自覚はあった。ほら、子供の頃ってアニメや漫画に憧れて、自分もビームが打てたり不思議な魔法が使えたりするんじゃないかって空想して、実演しようとするでしょう? 私の場合はそれが妄想でなく現実だった」
 妄想でなく現実だった。普通でなく特別だった。幼少時代の、本当は叶ってしまうべきでない空想が容易く実現されてしまった。それは、危うすぎることだ。
「体育の徒競走でズルをしたことがあるの。負けず嫌いでレッド・オーラを使った私は間違って新記録と思しきタイムを出してしまって、大騒ぎになって危うく露見するところだった」
 嘘がバレそうになった子供のように、朱里は自分の真実を隠したのだろう。誰にも見付からないように。固い固い、孤独の金庫の一番奥に。
「そして……小学校高学年になって、私は怪物に襲われ、それがきっかけで一人怪物退治をするようになった」
 わずか十歳そこそこの少女が、たった一人で。己の使命に気付いてしまったのだ。不確かな緋色の祈りだけを武器に、世にも怖ろしいバケモノ共を相手に“戦い”を始めてしまった。
 そんな無謀なことを何年も何年も、ずっと一人で続けてきて――そして、そんな子供の成長した姿がいま目の前にいる朱里なのだ。少女は美しい。本当に、愛らしいくせに高貴な輝きをまとった姿は、稀代の英雄のように近寄りがたい。だからこそ俺は嫌な気分になった。意味もなく強いということは、本当に孤独なのだ。
「……ずっと、その力を使ってやってきたのか」
「自覚はしてた。レッド・オーラを使いすぎて起き上がれなくなった事があるの。このまま力を使い続ければ死ぬんじゃないかなってあの時思った。けど……」
 だけど、少女は戦い続けたのだろう。何故? 何のために? それは、狩人である俺にしか分からないような気がするし、狩人である俺には決して実感できないような気もした。
「…………知ってるか。呪いには原因がある」
「原因――?」
 暴食の呪いを得るのは、腹が減っていたからだ。丑の刻参りが心臓を射殺すのなら、それはどうしてもそいつに死んで欲しかったからだ。だが朱里の呪いは自分自身に向けられている。つまり。
「あんたが自分を“呪って”いるというのなら、そこには何か重大な意味があるはずだ。人間は理由もなく何かを呪ったりはしない。あんたは…………」
 朱里の持つ、どこか危うい空気に理解する。こいつの戦闘能力の行く末は自滅だ。あるいは、無意識の自殺と呼んでもいいのかもしれない。
「自分を恨んで、責めてたんだ。なぁあんた、一体何をそんなに背負っているっていうんだ? ただの一般市民が、どうしてそこまで自分を嫌って強くなっちまったんだ」
 強ければ強いだけ、呪いが深いということだ。朱里が一瞬だけ中身の入っていないマネキンのような顔をしたのを、俺は見逃さなかった。
「…………私は、」
 その瞬間、俺は見た。小さくなって俯いた少女は、本当に、ようやく歳相応の――
「……………………気付いた?」
「ああ」
 同時に、俺たちは察知していた。いま、怖ろしく嫌な気配が背筋を撫でていったのだ。それは、まるで、真っ黒な波紋のように。レストランの店内を見回すが、どこにも異常はない。
 そもそも距離的にはかなり離れているだろう。なのにはっきりと実感できる、焦げ付くような異様な存在感。
「呪いだ」
「そう……これが、そうなんだ」
 朱里は静かに瞑目し、胸に手を当てていた。何かを祈っているようにも見えた。俺は席を立ち上がる。
「すまんがこれで代金を――」
「行くのなら、私もついていく」
 祈ることをやめ、少女はまっすぐに俺を見ていた。その手に剣すらも持っていない少女が。
「ついて来てどうする気だ。武器もないのに」
「あら、武器ならあるわよ?」
「何?」
 少女は自分の腕を抱いていた。本当にヒーローのように静かに微笑んでいたのだ。