斬「毒花」編

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 赤の他人を気に入ることがある。それはもう、話したこともない相手が気に入ってしまってどうしようもなくなる。
 私は髪の長い、無口で、無害で毒のない人間だった。教室にいても孤立していることが多かった。本当に一人きりなのではないけれど、ただ、当たり障りの無い関係を保つ友達とも呼べないような女子が数人いるだけ。
 そんな私は寂しがり屋だからか、教室替えをする度に大体一人、なんとなく気に入ってしまう相手ができる。
 それは男子か女子かなんてどうでもよくて、ただ、喋ったこともないその相手に好意のような憧憬のような念を抱くのだ。少し不思議。よく知らない相手の優しげな仕草とか、愛嬌のある部分にすごく惹かれる。――――それは、遠目から見た印象でしかないのだけれど。
 自らその人に近づきたいとは思わない。この憧れが、近づいてしまっては別物に変質するような感情だっていうのは分かっていたから。
 ただ、遠くからなんとなく、その人の姿を視線で追ってしまう。そしてなんだか幸福になる。恋愛とはまた違う、言葉にはし難い固有の感覚。
 実のところ私はその人本人はどうだっていいのだろう。単に自分の中の幻想に浸っているだけ。だって、知らない相手はどんな聖人君子にだって見える。知ってしまったらきっと身勝手な幻滅なんかをしてしまうのだろう。
 そんな自分に少しの罪悪感を抱いていて――
 もしかして迷惑なんじゃないだろうか、なんてことを考えながらも、独りよがりな憧憬は膨らむばかりだった。
 まぁ、別に遠くから眺めているだけなんだからいいだろう。きっと気付かれてさえいない。
「なにアイツ…………またこっち見てる」
 そんな認識は甘かったらしい。当然のように私は嫌われてしまった。人間は、案外他者の視線に敏感であるらしい。感覚の違いって恐い。私なら、そんなの気付きもしないのに。
「ねぇ、いっつもいっつもなんで私のこと見てるの? アンタもしかしてさ、アレなわけ?」
「え――」
 アレとは、アレのことだろうか。全く違う。残念ながら私は――――私は?
 この感情を何と呼べばいいのだろう?
 恋でもない。愛でもない。憧れのようでいて何かが違う。私の机に手をつき、嫌悪を隠そうともしないで嘲笑を浴びせてくる、きれいな誰か。

 ああ……と納得した。数週間後の夜に私は、通学路の途中でその人を昏倒させ、一人暮らしの自宅に連れ帰った。

「………………」
 両手両足を縛り、猿轡してあげた。丹念に準備したので不手際はない。きちんと狭いリビングにブルーシートまで敷いて、肉切り包丁も用意して、その人が目覚めるまで待ってみた。
 憧れた人の寝顔は天使のようで、本当にいつ見ても綺麗な人だなとドキドキした。日々無感動に生きているので感動もひとしおだ。私は、こんなにも素敵な人と一緒にいる。初デート気分でその人が目覚めるのを待ったのだ。
 目覚めた瞬間の恐怖の瞳も忘れられない。一生心のアルバムの奥に仕舞っておくことだろう。
 あんまりにも愛おしいその人を、丹念な凌遅刑で殺した。知らない? 生きたまま少しずつ肉を削ぎ落して殺すっていうやつ。3日かけて400回以上、愛をこめて止血しながら肉をそぎ落とした。最後の方はお腹を空かせた様子だったので自分の肉を食べさせてあげた。生は危ないからフライパンで焼いて。私も食べたけれど、人肉って豚に似ていてけっこうおいしい。
 でも結局、最後は失血死してしまった。
 その瞬間の落胆は計り知れない。私は泣いた。ブルーシートの上で、黒く固まった血液も冷たくなったその人の死体にも構わず子供みたいに泣きじゃくった。

 ――――ああ、こんなにも満たされている私は何なのだろう……?

 異常だとは思っていたけれど、まるで躊躇がなかった。嫌悪も抵抗も始めから壊れていたようにまったくなかった。途中でやめようと迷うことさえ無く、私は自分の人生と蹂躙の多幸感とを比較して、あっさりと後者を選択していた。
 正直なところ何事にも執着がなくて、だから、私にとってはあの憧憬のような感情だけが人生のすべてに等しかったのだ。
 雨の中、泥だらけになって遺体処理していた。古典的だけれど、刻んであちこちの山の奥に埋めることにした。
 真っ暗で光のない雨空を見上げた。この先には何も無いと思った。未来なんてまるでない。私は遠からず裁かれるだろう。だからこれまでの人生を振り返って反省しておくことにした。
 少し変わった環境だけれど、それだけ。きっと原因はどちらかといえば私の内面に昔から根付いていて、そしてきっとよく分からない感情や行動にも現れていた。
 ああ、私、異常者だったのだなと簡単に理解した。事実なんだから抵抗なんてない。この抵抗感のなさが私の中の欠陥なのかも知れない。
 雨の中で泣いた。何がいけないのかよく分からないけど、私は、恐らく狂っているらしい。普通に生まれたかったなと思った。死体処理はつらい作業だ。本当に、何もかもが面倒になってしまって――
 そんな時、天罰を与えるように鬼が現れたのだ。
「……ほぅ。こんな夜更けに殺しかぇ。えれーもんに出会ってしもうたな」
 人に見付かった。死体を捨てて逃げなきゃいけないと思った。けどそんな感情は、目の前の相手の姿を認識した瞬間に別のものに変わった。
 間違いなく殺される。
 その人は2m近い長身の着物姿で、現代日本にあるまじき妖怪じみた佇まい。顔には鬼のお面までつけていたのだ。
 その全身が返り血で真っ赤になっていて、豪雨に濡れてもまるで流される様子がなくて、一体どれだけ殺せばそんな風になるのかと私は当惑した。
 悪夢を見ている。こんなの、いるはずがない。私はきっと分けのわからない幻覚を見ているのだろう。
「なんじゃ主、その目。本当に人間か――?」
 赤く染まった日本刀の切っ先、やはり、鬼は私を殺すらしい。その辺りで私は何が正しいのか何が悪いのか分からなくなってしまった。
 私はここで裁かれる?
 たった一人殺しただけで泣き濡れていた私が、
 何十人殺してきたとも知れない赤鬼に?
 震える喉を引き絞って、なんでもいいから言葉を叩きつけるべきだと思った。屈したら殺されるしかないと思った。けれど、どのみち助からない気はしていた。
「えぇぞ。話せ小娘、興味が湧いた」
「え――?」
「話さねば殺す。儂を退屈させるなよ?」
 雨の中、鬼は泥の地面にべしゃりとあぐらをかいて座った。その手は変わらず血濡れの日本刀を握っていて、捕食の途中の余興でしかないと言外に告げていた。
 逃げ切れるだろうか――?
 不可能だ。日本刀持った怪人を相手になんて、何かの訓練でも積んでないと絶対に無理。私はまだ前科一般のか弱い女子高生でしかない。我ながら、この細腕はなんて脆弱なのだろう。
「………………」
 どのみち助からないのだから、そこでふっと緊張が解けてしまった。自分でもどうかしていると思うけど、それを言うなら始めから故障してる。むしろ、ずっと溜め込んでいたものを吐き出せる喜びさえあった。
「えと……始めから、ですか?」
「応、始めから。まぁ殺しの始めからでよいぞ。さすがに、お主の生まれ故郷恋しまでは興味がない」
「じゃあ……はい、クラスメイトの…………」
 クラスメイトの女の子が気になっていたんです。それは恋愛感情でも潔白な憧れでもなく、もしかしたら性欲か食欲みたいなあからさまな感情だったかも知れなくて。
 3日かけて殺して、その泣き顔と恐怖をたくさんたくさん味わいました。甘い少女の肌を舐め回すような甘美な体験で、私はとってもとても満足したのでした、おしまい。
 初めての殺人《おつかい》を話すのは、なんだか無性に照れくさかった。
 他にも性癖というか他人を視線で追ってしまうとか、日々なんとなく他人が分からないとか、電車で痴漢に会った時は本気で泣いたとか、だいたい普段話さないことをありったけ話した。
「主は怪物じゃの。自覚のない怪物だ」
「怪物?」
 洗いざらいぜんぶを打ち明けたら、赤鬼さんはそう言った。お面を被っているから分からないけれど、おじいさんのようにしわがれた声だった。
「――ほれ、お主、自分が如何に鬼畜であるか理解しておらんだろう。当然だという顔をして、ボケーッとそこに突っ立ているわけだが」
「はぁ」
「お前さんはな、ただそこにいるだけでクラスメイトを殺した。気に入ったから殺した。殺意などまるでないのに殺して埋めた。ただ喰らいたかったからじゃ。それが、怪物でなくて何だという?」
「…………あ、」
それはその通りだな、と思った。そうやって他人の口から言われてみれば、確かに、本当何が気に食わなくて殺したんだろうって思う。
気に入ったから殺した? 好きだから殺した。殺したくて殺しただけだ。死体処理はつらいけど、主観的にはどこにも何の曇りもなかった。
人間って、こんなだっけ。刑事ドラマの犯人は憎悪に満ちていて、こんなじゃなかった気がする。
「私…………やっぱり、おかしいんですかね?」
「おかしいなんてもんじゃぁない。お主、どこで歪んだ? それほどまでに辛い人生だったか?」
「…………両親は、いませんでした。けどおじさんとおばさんがすごく良くしてくれて、迷惑かけないように一人暮らししてるけど、別にそんなに不幸だとは」
「人生に不満があったか」
「強いて言うなら、ぼっちなくらいです。なんだか、分かり合えなくて……」
喋れば喋るほど分からなくなってくる。私は何? どうしてこんなにズレているの? 一体、どこに原因があるっていうの?
「フン……怪物め。理由などないのじゃろ。」
「かいぶつ……」
「お主はな、そういう風に生まれちまったんだ。生まれつき片腕がないやつと同じ、生まれつき良心の呵責が足りてない。それは奇形じゃぞ。治しようのない病気のようなものだ」
 私は病気、脳の一部が欠けた怪物。なら、誰とも相容れないのも当然だったのかも知れない。気に入った人間を殺す怪物が、どうやって健常な人間と仲良くなれって言うのだろう? 相容れない。昔からそういった感じの違和感はあったのだ。
 まるで別種の生物たちの飼育籠《ケージ》の中に、一匹だけ間違って入れられてしまってるみたい。
 なんだか背中がそわそわしてきた。
「…………あの、聞いてもいいですか」
「なんじゃぇ」
「殺しました?」
「ああ、20人ほど殺してきたばかりじゃ。追われていてな」
「なら――」
 いま、ここで聞くべきだろう。どこか灰色だった日々の答えを。もしかして、私、入る檻を間違えていたんじゃないかって。
「じんせいって、たとえ人殺しでも楽しいものなんですか?」
「当然じゃろ。殺し最高、犯罪は幸福、強盗監禁殺人とかチョー楽しいぞぇ? すべてを取り上げ奪い尽くした奴を日本刀で串刺して終わらせる」
「うわ……」
「串刺し刑を知ってるかぇ? 人間は頑丈でな、うまく内蔵の間を抜ければ、口から切っ先出しても数日はそのまんま生きておる」
 うわぁ。どうしよう。うわぁどうしよう。そわそわはゾワゾワに変わりつつあった。
「拷問ですか」
「拷問だとも」
 なんて、妬ましいんだろう。私もやりたい。気に入ったダレカをそこまで壊しつくしたい。
 ほわほわ火照っている私を見下ろして、鬼の素顔が、仮面の下でニヤリと笑った気がした。
「――さて。儂は見ての通りの大悪党でな。追われているが、都合よく、仲間を募集しておるのだが?」
「それは奇遇ですね。私も行き場を失くしてしまって、あとはもう、死ぬか逃げるしかないかなって考えていたんです」
 腰を上げた鬼に、サインをねだるように縋る。雨の中、傘もささずにフードを被って、その大きな怪人を見上げた。
 ぜったい逃がさない。恐怖などとっくに忘れていた。だってこの人は先輩だ。間違いなく、異常者としての私の人生の大先輩なのだ。
「えぇじゃろ……覚悟しておけよ。鬼の手を取れば、行く末は間違いなく破滅じゃ。ひとたび踏み込めば、もう2度とどこへも逃れられはせんぞぇ?」
 そんなこと。もとより帰る場所も逃げ道もない、既に殺してしまっているし、踏み外したといえば生まれた瞬間から踏み外してる。

「――――はい、望むところです。」

 土砂降りの雨の中、月も星もなく、けれど私は生まれて初めて意味を手にした。