斬-THE NO-SIDE IN OUR LIFE-
#雑踏-HERE-
この世に生まれ落ちた時点で私には、生前の記憶が一切遺されていなかった。
遺されていないっていうことは必要ないっていうこと。父や母に始まり家族の顔・記憶、通っていた学校に友達、幼い頃から早すぎた終焉までの津々浦々――ぜんぶ、すべて私には不必要なのだということだろう。
必要がないってことは縁がないってことだ。つまるところ、朧気な記憶の残滓はなんだか他人ごとのようで、それが本当に他人のものだったのだから笑えない。
――――私は、“私”ではないらしい。
考えれば考えるほどに頭が痛くなってきそうな事実だけれど、そういった不快感の一切合財を忘れたことにして街の片隅に立ち尽くしていた。
誰も私の存在には気付かない。私なんかいてもいなくても同じ。私のことなんて誰も知らない、私はただの≒《ニアリーイコール》空気。道端には錆びた空き缶なんかが落ちていて、膝を抱いて見下ろすのだけれど、私ってこの空き缶と同じなんだなぁなんて考えていたら悲しくなってしまった。
仕方が無いので諦める。立ち上がって私は、託されたたったひとつの“願い”を叶えるためにふよふよと歩き始めた。
ようし、とらしくもない気合いなんて入れてみる。腕相撲では誰にも勝ったことない腕だけど。
記憶不備、結構。
I am not "I", OK.
誰一人として気付いてもらえない、仕方ないでしょう。
――そりゃあ淋しいですけども。
でも幸いにも、いまこの瞬間の私自身も“私”と同じ事を願っていたところなので、だから“私”が託した願いを叶えることに私は一切異存ないのです。
「…………」
ふっと振り返れば、清掃のおばさんが火バサミで錆び空き缶を拾っていく場面だった。なんとなく食い入るように見送ってしまった。おお空き缶さん、あなたにも行くべき場所があったのね、私と違って。
オバサンが背負ったかごの中に消えていく空き缶さんが、なんとなく私を見ていたような気がした。
――グッドラックお嬢さん。
長く聞こえるアルミ缶の残響。
†
え、呼んだかアユミ?
「はい?」
などと、小首をかしげてパンダ型フライパンを洗浄する手を止めた相方。疑問符。俺も同じような顔してただろう、しかし、よくある事だ。
「聞き間違いか。悪い」
「うん、聞き間違いだね」
相方はゴキゲンに洗い物に戻った。俺も読書に戻る。若者の読書は少年漫画と相場決まっているのだが、これはついさっきアユミに借りた少女漫画だった。ドロドロで欝になりそうだがたまに読むと面白い。
さて――と周囲を見回せば昼食後の弛緩した大気。先生の姿はない。学校へ行っていらっしゃるのだ。
平日昼間っから少女漫画読みふけった暇人たる俺。鼻歌さえ交えながら当番をこなす相方。洗い物終わったらコーヒーでも淹れてやろう。ところで、ついさっき俺は誰かに呼ばれたような気がしたのだが――
「…………」
口元を開いた単行本で隠すようにして、目だけで周囲を見回してみた。窓の外は真白く、対して日陰になった屋内で、テレビのカドにだけ日光が反射している。
キラキラ舞うホコリなど気にもかけずに、箱の中の司会者がにこやかに名前も聞いたことないようなアイドルと談笑している。中年と年頃の娘が新型掃除機に感嘆符浮かべるなんてなカメラが回ってる時だけの話。
「ねぇ羽村くん、今日はどこかへ出かけるの?」
「……んぁ?」
顔を上げれば、早々に洗い物を終えたらしいアユミが笑っていた。今日はいつにもましてカジュアルというか森ガールというか、課外授業のたまにしか私服姿を見せない女子学生みたいだ。――ああ、つくづくこいつは平常通り、だからこそ俺もつられて“戻って”これる。
部屋の隅に、人影を見てしまったような気がしたのだ――そんな疲れてひんやりした気分に埋もれていてはいけない。
「おう。どっかへコーヒーでも飲みに行くか」
俺は漫画の単行本を置いた。インスタントなんかとは違う深い香りを想像すれば、胡乱な感情はすぐにどこかへ消え去っていった。
†
「…………ん」
また誰かに呼ばれた気がして振り返るが、行き交う雑踏はいつだって俺に無関心だ。残酷なくらいの隔絶――本当は他人っていう無関係の壁一枚だっていうのに、こうして全員と無視しあっているとテレビでも見ているような気がしてくる。
そこにいるのに、そこにはいない人々。そいつらだって色々なことを考えているはずなのに、自分っていう狭い視点にとってはそれらは臓器のないマネキンと同じ。
「マクド以外ねっ」
アユミが笑った。俺も笑った。あっちは満面、こっちは刑事に「お前やったか?」と問われた時のすっからかん。いやひどいね、大した推理力。
「……だめ?」
「だめだよ。羽村くん、ここ3日ずぅーっとグランドキャニオンバーガー食べてるよ?」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「いやそうか?」
「だからそうだって」
マクドナルド通過まで残り三十メートルを切った。俺は本屋の窓ガラスに大きく「本」という字の形で貼り付けられたビニールを観察。木屋になる日もそう遠くなかろう。
そのガラスの向こう側で、占いでも読んだのかJKが雑誌立ち読みして厳しい顔してた。あれも他人だが、偶然にも心境は同じである。
「いやそんなことはないぞ? 俺、ああいうゴツイ系バーガー苦手だし。なんて言うかさ、食べにくいし高いしソース濃いし? へっ、全っっ然キョーミねぇよ。食いたくもねぇ。あーグランドキャニオンバーガーこわいグランドキャニオンバーガーこわい」
「長いよ。だんごと違って語呂悪いよ」
「あ分かった。カリカリしてるやつオニオンフライだ」
「すっっごい食べてるよ! みんなが一度は考える謎の正体を一人で掴んじゃったよ! 隠れて何個食べたの!?」
厳しい追求。逃れるように目をそらし、容疑者《おれ》はのたまった。
「…………あ、甘辛いステーキソースが俺を呼んでる」
「おいしいコーヒー飲みたいね。豆から淹れてるのがいいね」
「ぬぉッ!?」
だんご屋さんに入店しようとしたら、すさまじい剛力で引っ張られて抜けるかと思った。腕を掴まれてて振り払えない。抵抗むなしくそのままずんずん連行される。
「ぐ……ぬぬっ」
ビクともしない。巨人に手を引かれてるのかと疑うが、目の前にあるのはか細いアユミの背中である。当然だが後頭部まで赤髪だ。
「このっ、アユミ! はなせ! GCBが! GCBが俺を呼んでいるぅうう――!」
「そうだね、また今度食べようね。本当は知ってるよ羽村くん、4日前から1日3個ペースで食べてるでしょう。だめだよ本当、ソース中毒で浸透圧変わって突然死するよ」
「バカ言え! だ、だってポテト食ってるから大丈夫だ! 知らないのか、本場アメリカではポテトは野菜扱いなんだぞ!?」
「そうだね。ピザも小麦入ってるから野菜だね。お米だって、植物だから野菜の一種だよね」
「そうだ、バーガーのパンの部分だって小麦なんだから野菜だ! 絶対メタボったりしない! はっ、そもそも食べたいもの食べて身体に悪いわけがないだろッ!」
「………………」
えっ、なにその本当に困ったような顔。やめてくれ。思わず反省しちまう。
「ねぇ羽村くん。わたし、わりと本気で心配してるんだよ? ていうか病的。三食同じバーガー食べるなんて、一体どうしちゃったの?」
「いやまぁ、一理あるどころかまったくの正論なんだが――」
俺自身にもよく分からない。もしかすると何か、どこか変調をきたしてしまっているのかも知れない。ふっと気を抜けば食べたくなるのだ。それ以外がひどく虚しいものに感じる。
――ぐらりと不自然に心が傾いでしまって、不意に背後を振り返る。
もしかして俺は、グランドキャニオンバーガー大好きな亡霊にでも憑かれちまったんじゃあるまいな?
「……………背後霊の仕業だ」
「そうだね、ジャンクフード食べたくなるのはユーレイの仕業だね。CDばっかり買っちゃうのも金運が悪いのもぜーんぶ呪いのせいだね」
「あ、おい待てよアユミっ。いでっ、いででででっ、抜ける! すっぽーんといい音立てて腕が抜ける!」
アユミちゃんにこにこ、思わず引きつってしまうほどに恐怖の笑みだが違う。優しいアユミんはまったく怒ってなどいないのだ。ああ怒ってない。怒ってないよな?
「……ま、もういいや。さすがに俺も飽きた。なんつーか……冷静になってみれば不思議だよな。なんであこまでバーガー依存症になっちまってたんだろうな?」
「添加物だよ、こわいよー。それぜったい添加物中毒だよ」
そういうこともあるか。確かに、単に食いたくなるだけなら分かるがわざわざ行動に出てしまってたってのは何か不穏だ。思い立ったが最後・それ以外がまったく考えられなくなるのだ。添加物依存やら何やら、何がしかの要因が働いていたとも考えられる。
「でも、もう乗せられないぜ。俺のグランドキャニオンバーガー中毒はここで終いだ」
「うんうん、じゃまずはこのミルクティが美味しいお店で一杯」
お、いいね。なになに、ロイヤルミルクティー? ティーバッグとは違うんだよティーバッグとは?
店に入る瞬間俺は、また背後のストリートを振り返ってしまった。当然雑踏が流れているだけだった。
†
爽やかに夕食を終え、爽やかに洗い物を済ませて俺は、
「――先生、格ゲーしましょ格ゲー」
「ん。ああいいね、食後の運動――じゃないが、退屈しのぎにはちょうどいい」
にっこりセールスマンの微笑みでゲームの用意を進めた。ほどなくして夜のリビングで、アユミも混ぜて3人勝ち抜き戦をやる。
ルールは単純明快、対戦して負けたら交代っていうゲーセンアーケードと同じ方針だ。
「むぅ……」
コントローラー手にして目を真横一文字にするアユミ。KO。誰にだって得手不得手はあるものだ。
俺が6連勝したところで先生に敗退、らしくもないハイテンションで声を上げて勝ち誇っていた。そのような騒ぎに乗じて俺は、ひとしきり悔しがる演技をしてから切り出したのだ。
「あそうだ。なんか、喉乾きましたよね」
「んん? あぁ、そうだな」
「だねー」
アユミも先生も格ゲー画面に夢中だ。俺は二人の背中を見ながらにへら暗黒微笑。
「ジュース買ってきます」
†
「ありがとうございましたー」
「……………………」
ふと気が付けばストリートに立っていた。
「え? ……え?」
訳がわからない。驚いて周囲を見回すと夜、手には見慣れた紙袋、どうにも俺は背後の自動ドアから出てきたところだったらしい。
マクドナ●ドだった。右手に紙袋、中身は小さいのに重い。いわゆるGCBである。
「……おう。やべぇな」
またしても俺は、添加物中毒を発症してしまっていたらしい。しかも記憶がない。これは重症か?
「本当に重症だ……」
ふらふらと灯籠の明かりに誘われる蛾の感じで夜の街へと吸い込まれていく。本当俺は何やってんだ、ついさっきまで先生たちと格ゲーやってた気がするのに。
「…………」
だんだんと歩いて行くに連れて、夏祭りが終ったあとのような侘しさ静けさを感じることに気付いた。
人がいない。点々と街灯だけが灯っていて、触れるような距離の街路樹を照らし付けるそれは葉を緑色に輝かせていた。それがボヤけて、緑色の溶けた飴のように見えてくるから不思議だった。
カラコロなんて下駄の音と、遠く反響する笑い声たちを聞いてしまった気がして立ち止まる。
「…………………………おい」
街灯、木、街灯、木、街灯、木。
アスファルトには「止マレ」の8m先にまた「止マレ」の標識、その8m先にまた「止マレ」の標識。それがまた、マの字の欠け方までぴったり印刷してきたように同じだから歪んでる。
なぁこの道路――どうして、100m先まで合わせ鏡みたく同じ風景が何度も何度も繰り返されているんだ?
「はぁ……マジかよ、また、」
またあのアホ双子のイタズラか。はらりとどこからか注いだ花弁。本当、何度雪音さんや先生が言っても聞かないんだ――。
いいかげん腹立たしくなって、無意味と分かっても歩き出そうとした俺の前に、意外にも下手人どもはあっさり姿を表わしていた。
「! おいお前ら、いいかげんにっ」
藍色の眼と碧色の眼の童女たちだった。似たような着物着て似たような下駄はいた、いつもいつも周囲を困らせる悪ガキ共。
「……? どした、おまえら」
しかし今日はヤケに、静かというかしおらしいというか、無表情だった。
「――はむら、こまった」
「あん?」
藍の言葉を復唱するように、栗毛の碧の胡乱な眼が続ける。
「ぐうぜんみかけて、隔離したなのです。でもながくは捕まえてはおけない」
「……はぁ。そうなのか」
「だから、おまえに任せる」
「あとはおまえに任せるなのです、このむのーかりうど」
「…………」
よく分からんが、それきり大気に溶けこむように消えて行ってしまった。追おうと考える間もない。
無限回廊と化した夜道にひとり取り残されて。
「狩人《おれ》に、任せる? ああ――」
どこからか染み出してくる、夜闇よりもなお真っ黒い暗黒。耳がかゆくなるような囁きを伴って。
おそらく藍と碧の無限回廊の呪いによって閉じ込められてしまったのだろう。墨が水に流されるようなゆったりとした速度で漂うそれは、俺の背後方向で収束して具現化しつつあるようだった。
――――みる ナ 。
なるほど、あいつらもたまには仕事するらしい。金切り声の吐息が聞こえる。そんな声聞いたこともないが、事実そういう金属質な憎悪にまみれた呼吸だったのだ。
――――ワタシを 視ル ナ
「……んなこと言われてもな。お前みたいなのにずっと背中向けてたら、いつ後ろからぐっさりやられるか分かったもんじゃないだろ?」
果たして、それは見たこともないような醜悪な容姿をしていて。
焼け爛れた褐色の肌、あるいは褐色より濃い色に変色したケロイドをミイラのような全身包帯で隠したヒトガタだった。
ゾンビのように俺を憎んでいる。眼が、全身から噴出する黒色がその憤怒と憎悪の深さを物語る。
強盗殺人の現場みたいな、生々しい夜道の真ん中でそれは実像を成した。
――――咆哮、なんていいもんじゃない悲鳴じみた悲痛な濁声。
「ふん……」
ただただ悲しそうだった。声って、意外にもどんな顔より如実に感情を反映するよな。そいつはどこまでも凶悪で鋭利で、だけど何より地獄のように悲しいケモノの声を上げて俺に突進してきたのだ。地面を踏み抜くような巨体の走破、それだけで重々しい音が鳴る。
だがそこで――――不意にそいつの姿は消滅した。
「え……」
いない。目の前にいるはずなのに、気配もあり足音だってちゃんと聞こえるはずなのに消えた。
近づいてくる気配が、再び目の前で具現化――距離はもう無い。頭が真っ白になった。
ミイラ怪人の腕が俺の顔めがけて振り下ろされ、その辺りまでぼうっとしてしまっていた自分に気付く。
『ミルな――見るな、ミルナミルナミルナミルナァァあああ――ッ!!』
「は――ッ!?」
危うく首から上をミンチにされる寸前で身を反らして回避、髪をかすめて振り下ろされた腕はハンマーみたいな豪風だった。
視線が出会う。包帯でぐるぐる巻きにしていても分かってしまうような醜い顔、溶け崩れたまぶたの下の血走った眼球が俺を射て、消えて、また具現化する。
『ワタしをォォオオオ、ミル、ナァァああああアアアアアア――!!』
がむしゃらに振り回される拳の嵐を掻い潜ってなんとか間合いの外へ退避・革靴の底を滑らせて慣性を終了させた。
腕をぶら下げ、既に手負いのケモノじみた呼吸で俺を憎悪するバケモノ。ばちばちとノイズを交えて明滅する。それにしても俺は驚いていた。この声、この言動、そして大柄だがこの体型――
「――――お前、もしかして、女なのか……?」
悲痛に、絶望したようにバケモノが血走った両目を剥く。
『ウゥうウワアアア嗚呼あああああああああああああああああ嗚呼あああAhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhァァァアアアア――ッ!!!』
禁句《タブー》だったらしい。呪いによって蹂躙され青く通電する大気。頭を抱え、考えなしで特攻してきたそいつは、横転して躱した俺の横を通りぬけ、
「逃がすかッ!」
俺は腰から短刀を抜いて振り返るのだが。
「…………あ?」
消えた。跡形もない。振り返ればすぐそこにいるはずなのに、瞬きの間にいなくなってしまった。
また透明化して襲いに来る気か――?
「………………」
耳に残った悲鳴の残響が、いつまでも響き続けてるような気がした。しかし遠い。
よくよく見れば、周囲の風景も無限ループなんかじゃない正常を取り戻している。しかし目を凝らせばパシパシ放電してる大気、まさか。
「……おいあほ、にげられたぞ。呪いをやぶられた」
「たおすのがおせぇなのです、このタコ。おめーのせいで頭にがっつーんときたなのです。くらくらしやがるのです」
花を散らして現れた双子の足元で、俺は土下座するように地面に這いつくばった。
「……? なにやってる。」
「あやまってすむとでも思ってるなのですか、このむのー。まったくおとといきやがれなのです」
「……うわ……うわぁあ」
食えるわけもない――アスファルトの上で、さっきのバケモノミイラに踏み潰されたらしき紙袋が無残な姿を晒していた。