カナヅチ
グシャリと目の前で、ハンマーシャークが魚の下半身を食いちぎったのだった。
「うわ……!」
思わず目を逸らす、って小説の描写によくあるけど、いま初めて体感した。見ていられない。血を、視界に入れてしまうことを避けたんだ。
それはほとんど生理的な、嫌悪と言うより恐怖に近い。それはそれは小さなものだったけど、温和な僕が目を覆うには十分だったのだ。
――だって、いきなりなんだぜ? こんなザンコクな場面を目にするなんて考えてもいなかった。
周囲を見回せば、青い。薄暗くて洞窟の中みたいな、建物のつくりだってそんな感じ。色名はディープブルー、ここは深海に沈んだ水槽に囲まれた場所。
なんと、水族館だった。
「どうかした?」
冴えない僕の隣で、何も知らない彼女が小可愛い疑問符を浮かべた。彼女はさっきから、巨大水槽の中を優雅にたゆたう小魚の群れに感動していたところだった。
確かに、あの銀色の群れは美しい。水の中に流星が瞬いてることを初めて知った。海を模した水槽の中には、色とりどり、サイズもいろいろ、種類は千差万別な魚類たちがいる。
「……なんでもないよ。ごめん」
「あ、見て見て。カメだよカメっ、カメカメカメ!」
親戚の子供の名前みたくカメ連呼。彼女がウミガメ萌えなことを初めて知った。たぶん、今日限りなんだろうけど。
水槽のなかに夢馳せている彼女の横顔なのだけど、さっきまで見入っていた群れの一匹が、こっそりハンマーシャークに食い千切られていたことを知ったらどんな顔するのだろう……?
当の惨殺者は悠々と、まるで素知らぬ顔で水槽を泳いでいるけれど――あんなバイオリンみたいに小さいくせに、小魚を食いちぎるには十分だったらしい。
何度だって回想できそうだ。ついさっき、ひらひらと上の方から木の葉みたく舞い降りてくる銀色がいて、それは小魚で、ケガでもしたのかなー、ていうかこいつたぶん死ぬなーふわふわ漂ってるしなーってぼぅっと観察していたら、奥のほうから現れたハンマーシャークがいきなり歯を剥いて食らいついたのだ。
突然のことだった。“がぶり”なんて滑稽な擬音が、この上なく的確に動物の捕食の瞬間を表していた、リアリティたっぷりな言葉だって思い知らされた。
下半身を、噛み潰す。ねじ切るようにも見えた。閉ざされたサメの口、下半身をがっちりくわえ込まれてしまった被害者、どんなに足掻いたって二度と逃れられることはない。――だって、もう尾びれなんて機能しないのだから。
ついいままで死にかけていたくせに、一体どこにそんな力があったのだろう――小魚の最後のあがきは、びっくりするほど力強かった。僕の握力だって跳ね返してしまうくらいの暴れようをしかし、ハンマーシャークはしっかり噛んだまま決して離さなかったのだ。余裕さえ感じるままに、ぐしゃ、ぐしゃと少しずつ小魚を口の中に引きずり込んでしまった……。
首下まで潰れかけの魚を目の前で見せつけられるような構図になって、その辺で僕はほとんど目を覆ってしまったのだけれど、去っていくサメの優雅さだけはハッキリ覚えてる。冗談じゃない。彼女と一年記念のデートになんてもの見せつけやがるのだろう、あのひとでなし。
「あ、イルカだー」
ぬるぬると、愛想よく遊泳していく海生哺乳類。しかしアイツもまたザンコクな海の住人なんだってことを僕はすでに知っている。もう信用などできない。そう、こいつらも所詮は動物だったのだ。
ラッコがにたりと僕を見ル。
「…………こぇー」
「え? なんで? 可愛いじゃん」
そう言ってラッコさんを激写しまくる彼女。それでいい。まかり間違っても海の真相など知るべきではない。なんたって休日、始めたばかりのバイト1ヶ月目に苦労している彼女の癒しデイ。
僕にとって唯一のセーブポイントであるペンギンコーナーに至り、スマートホンによる撮影作業に没頭する。あはは面白い。あのペンギン2匹、さっきから5分近くずっとポーズとってエサが来るのを待っている。面白い。
しかしガラスの向こうで、飼育員さんがペンギンに与えるための小魚を持ってきた辺りで僕は、やはりさっきの衝撃的な光景を回想してしまうのだ。
…………そういえばあの時は、ちょうどエサやりの時間だったかも知れない。あの小魚は水槽の中で弱っていたのではなく、そもそも瀕死になってから投げ入れられた、サメのための餌だったのかも知れない――なんて。
だとすればいっそう悲劇だ。様々な種類の魚たちが遊泳していたあの広い水槽は、サメもエイも互いに干渉し合うこともなく気楽そうにやっていた。そんな気楽な水槽のはずなのに、あの小魚にとっては地獄だったのだ。
想像してみればいい。意識も朦朧としている状態で、瀕死の自分はいまかいまかとエサを待つ奴らの水槽に投げ込まれるのだ。水質が変わった? ここはどこ? 暗いよ寒いよ助けてよ。でも、なんだか心地いい――
そんな風にまどろみに落ちようとしていたところへ、後ろから下半身に食いつかれてしまう。何か大きなものが、自分の下半身を飲み込んで決して離そうとしないのだ。どんなに暴れても素知らぬ顔をして、そのまま自分の全身を引きずり込んでいく――。
気楽な水槽の物陰で、自分だけが飲み込まれて惨殺された。僕はそんな小魚の一部始終を目撃してしまったのだ。
「楽しかったねー。っていうかあっという間」
「うん、だね。アイスでも食べよっか」
久方ぶりに地上に辿り着いて僕たちは、海辺のパラソルの下で珍しいハーゲンダッツ屋台のアイスなんかを食べた。僕は、白玉ぜんざい風なのにアイスをチョコクッキーで注文してしまってちょっと失敗。濃くて甘い味が2種類まざってなかなかに混沌とした。
すぐそこは港。貨物船や、海賊みたいな観光船が停泊していた。
「おいしいね」
「うん、だね。次はどこへ行く?」
時間はまだまだある。貯金も下ろしてきたのだし、どこへだって行けるはずだ。夜には飲み屋さんで晩ご飯食べて、おいしいお酒をいただこう。
――僕たちの与り知らないところ。
あの、汚らしくも美しい海面の下では、毎日のように弱肉強食の真実が繰り広げられているのだろう。
動物を食う。
それがいきものの本来らしい。
――泳ぐこともできず、溺れるカナヅチのようにユラユラ沈んでいった小魚。
生臭いあいつはきっと今頃、ハンマーシャークの胃の中で、ぐちゃぐちゃに潰れて融解されている頃なのだろう。
サメは平和ボケした僕に見せつけるように、あの時、僕の目の前で小魚を噛んだのだ。
/カナヅチ