ひだまりの微笑み
いつからか、連絡も取らなくなってしまった。
最後に連絡を交わしたのはもう数年も前に遡る。あの頃はケータイがまだ出始めたばかりで、私たち中学出たての高校生はそんな最先端には縁がなかった。アレ、いまでこそ普及してるけど昔は持ってるほうが貴重だったのだ。
彼との関係を一言で言うなら「友人」。中学の時はよく友達の愛理や鈴ちゃんなんかに茶化されていたけれど、地味な眼鏡っ子だった私と、儚い彼が恋愛に至ることは最後までなかった。
好きじゃなかった、と言えば嘘になるけれど。
あの頃の私たちには、恋愛を差し置いてでも優先して夢中になれるものがあった。
私は、音楽を。
彼は、絵の道を志していた。
共に芸術を学ぶ者。まるでジャンルは違ったけれど、やっぱり共有できることは色々あって、中学生の頃はいつも放課後になると夕暮れの音楽室で待ち合わせたものだ。
私はピアノばかり弾いていた。
彼は私の音色に耳を傾けながら、カーテンから差し込む夕陽の中、穏やかな顔で絵筆を動かしていた。
その横顔は、かっこいい――なんて言葉ではいい表せないほどの神秘的なオーラを纏っていて、たぶん、私はごく普通に恋愛することさえ恐れ多かったのだろう。
言葉は少なかったと思う。それよりも私は音色を奏でたし、彼は絵筆を動かして、キリのいい所で私に見せてくれた。
彼の繊細なタッチには、私の素人目にも分かる美しさがあった。線が細い。いまにも崩れ落ちそうな危うさ。私は彼のことが好きだったけど、それ以上に彼の描く絵が好きだった。
「いいね。いまのとこ、前より柔らかく撫でるようにしたんだ」
「あ――うん。やっぱり、ここはそっちの解釈のが合うかなって。構成のセオリーから言えばちょっと違うんだけど、でもね、この作曲家ならきっとこっちだと思うの」
私も真剣だった。掛け値なしに凄かったと思う。彼のオーラに当てられたのか、あの頃の私はとっても調子が良くて、先生もよく褒めてくれた。
私たち芸術志望にはよく言われることだ。
美しいものに触れなさい。
触れ続けなさい。
それは必ず血肉となるでしょう――。
そんな意味で言えば、私にとってあの放課後の音楽室は理想的な環境だったろう。
一年生の終わりに彼と出会い、二年生の始めからその放課後が始まり、三年生の終わりまでずっとそんなことを続けていた。
卒業する頃には私たちはなかなかのモノになっていて、私も彼も志望通りの受験結果を掴むことができた。
ぜんぶ彼のお陰だ。
あの合格発表の日、涙でくしゃくしゃになりながら何度も頭を下げた私に、彼は「お互い様だよ」と言って笑ってくれた。
それから卒業して――
高校生活が始まって、自然に文通するようになって――
けれど、新しい季節の始まりと同時に、私たちの夕暮れ音楽室は終わってしまったのだ。
それぞれ、別の場所でがんばり続けることになった。
お互い一生懸命で周りが見えなくなるようなタイプだったからか、自然に文通は途絶えていった。
私は、必死だったのだ。
あの音楽室を失ってからというものの、私はひどく調子を崩してしまった。やはりすごく意味のある時間だったのだ。だから、彼に置いて行かれないよう必死でしがみつくようになっていった。
音楽に。
私の思い描く、いま失いかけている、恋にも憧れにも似たあの頃の音楽に――。
――――――結論としては、大間違いだった。
私は革新していくべき古い自分に固執してしまったのだ。当然のように古い感覚は失われたし、新しい感覚は得る前に切り捨ててしまった。
何も残らなかった。
信じられないだろうけど、気持ちの持ちようひとつで私は音楽ができなくなってしまった。
眼に見えない、心の中の何かのバランス。それが失われてしまったというだけで、私の音楽は見る影もない悲惨な「からっぽ」になってしまったのだ。
知らなかった。
この両手は簡単に自分を裏切る。
心の中で「違う! 違う!」と叫ぶ私自身が、私を、正しいかたちの「美しさ」から遠ざけていく。
そのことに自分で気付くことができなくて。
周囲の声にも耳を貸さず、ただ私は新しい自分を拒絶して、美しくないものを必死で奏で続ける泥沼を歩いてしまっていたんだ。
――――必死になればなるほど、遠ざかる。
どれだけ振り絞っても抜け出すことの出来ない悪循環に、抵抗すればするほど壊れていく不安に、私はいつまでも立ち向かい続けた。いつまでもいつまでも立ち向かい続けた。
そして立ち向かい続けた分だけ、私は決定的に折れてしまった……。
ひどく滑稽な終わりだったと思う。努力は私を裏切った。頑張り続ければ夢は叶うなんて嘘、実際には、頑張れば頑張るほど夢が潰えるときの傷が深くなるのだ。
――――正しくない努力なんて、どれだけ積み重ねようが無駄なんだ――。
いまさら間違った自分を矯正することなんて出来ない。思考も、クセも価値観も大きく間違えたところで終わってる。私はたぶん、ヘンなクセがついてしまって、ゼロ状態の初心者よりも質の悪いスクラップになってしまったのだ。
気が付けば高校生活は終わっていた。堕ちてたまるかという一心で大学へ進み、ただ勉強と遊びを繰り返すだけの日々が始まって、そして私は音楽をやめていた。
正直、もう、2度と触れたくもない。
自分の音色を聞くたびにひどくイライラした。どれだけ努力しようとも、ある一定から先へ進めないことを私は知っている。その境界を超えることは、もういまの私にはできないのだということも――。
根性って、大事なんだ。
私はかつては根性だけが取り柄だったけれど、折れてしまったそれで何を越えられるだろう。どんな簡単な問題でも、躓きそうになるたびに折れてることを思い出す。自分が折れてる苦痛を思い出す。
――その先には、絶対に行けないんだという絶望を思い出す。
反して大学生活は楽しかった。一回生の最初の方に話しかけてくれた友達がいて、以降はずっとその子と一緒にいて、趣旨不明瞭なただ遊ぶだけの適当なサークルに入って、つまらない勉強とつまらない遊びの繰り返しだけでぽっかり空いた隙間を埋めていった。
友達の名前は梨絵っていう。
パッと見は髪が長くて理知的な、OLでも通りそうな美人の姉御肌なのだけど、実は大学デビューの元・眼鏡さんなんだと話してくれた。だから私に親近感を覚えて話しかけてくれたんだということも。
私は梨絵に、音楽を失うまでのことを話した。吐き出すように話した。そんな心の根っこの話を聞いてもらうのはもちろん初めてのことだった。
梨絵は私に「がんばったね」って言ってくれた。
「つらかったね、でももう無理しなくていいんだよ」って言ってくれた。
「もう、あんたはピアノやめてもいいんだよ」って、とっくにやめたはずの音楽にそんなことを言ったのだ。
不思議と、その言葉に心が震えて。
声を上げて泣きついてしまった。ああ、知らなかったんだ。私はあれから、ピアノに触れてなくても、ずっとずっと心の中で失った音楽と戦い続けていたんだ。
吐き出して、軽くなった。
ずっと心を覆っていたもやもやが綺麗サッパリ晴れてしまったのだ。梨絵はすごく大人なのだと思う。たぶん知っていたんだろう。
私は、ああ、人間って立ち直れるんだな――ということを初めて知った。
音楽なんてどうでもいいじゃん、彼氏作りなよ――って言われた。
少しムッとしてしまった自分に苦笑いして、失礼だと分かっててそんなことを言ってくれる梨絵はやっぱり親友だなと思った。
――さて。
突然だけど、大学の4回生っていうのは暇なのだ。大学は単位制だから、4年間の決められた単位数さえ先に取ってしまえば、最後の一年は暇になる。
音楽を忘れ、就職が決まり、彼氏は出来なかったけれど。
そこで空白の時間が出来てしまったのだ。あるいは、私の人生に用意された長期休暇だったのかも知れない。
タイミングよく手紙が来た。
誰から?
そんなの考えるまでもない。私はいま、母校の中学校の前に立っている。
なんだか学校内は騒がしかった。それも生徒たちだけでなく、いろんな一般の人達がいる。
――大学、中退してたんだって。
学園祭とは少し違う。地元のボランティア団体が催す小さなお祭り。そんなイベントに私は名指しで招待されてしまったのだ。
――アトリエに弟子入りして、頑張ってるんだって。
体育館の方から、大気に溶けすぎてよく分からなくなったバンド演奏の音が聞こえる。
PTAだか教師だかがゴザを広げて家電品バザーなんかやってて、運動場に所狭しと出店が並んでて、制服姿の学生も私服姿の少年少女も一般人も入り乱れ。車椅子の人なんかもいた。
小さなお祭りという割に、かなり賑わってるなぁと感心した。
――けっこう、いい線いってるんだ、って。
ファンシーな着ぐるみのうさぎに赤風船を押し付けられた所で、私は不意に校舎を見上げて動けなくなった。
何も、変わってないように見える校舎の。音楽室の窓の向こうで、吹奏楽部たちが演奏していた。
――音楽室、で。
「やっ、お待たせ」
「うあ」
どん、と背後から梨絵が襲撃してきて、私の物思いは終わってしまったけれど。6秒間の沈黙の間に、私が脳裏で描いていた横顔が誰のものかなんて考えるまでもない。
梨絵を呼んだのはもちろん私だ。食い意地女子大生二人組でしばらく食べ物を漁ったのち、事情を知っていた梨絵はバンド演奏を見に行ってくると言い、私は用事を果たして来ると言って別れた。
また一人、お祭り騒ぎの校庭に取り残されて音楽室を見上げてしまった。まったく我ながらばかだ。中学にいるからって、中学生に戻ったような気分になってるのかも知れない。
自分に苦笑して歩き始めた。迷いなんてない。有り得ない。頭の中で一周することだってできる。あの頃、三年間ずっと通い続けた学校なのだから。
あれから、もう七年だ。
目指す場所は美術室。そこで、誰か、いまイチオシの新人さんの個展が開かれているらしい。
もちろん地域団体開催の小さなお祭りの隅っこの、プロなのかアマなのかも分からない程度のものなのだけど。だけど晴れ舞台にはかわりない。ご本人も、今日はずっとその美術室にいて、一枚500円で似顔絵なんかをやってるんだそうな。
校舎の中はやっぱり学園祭じみていた。
一階、職員室の壁も装飾されていて、目的の美術室はもっと装飾されていた。
飾られた絵。見覚えのある絵も何枚かある。きっと、この閉ざされた扉の中にはもっとすごい絵があるのだろう。
――――7年間。
私の知ることがなかった、彼の歩んだ道のりの展示会場。
ちゃんと話せるんだろうかと自問する。
まったく不思議なことに――ほとんど連絡さえ取ってなかったっていうのに、私はきっと、あの頃と何も変わらない調子で話せるという確信があった。
残念なことに、私は音楽とは決別してしまったけれど。
今日のこの日見るものの記憶で、胸の空洞の最後の隙間を埋めてしまおうと思うのだ。
二人きりの、夕暮れ音楽室の果て。
「情けない」って笑われるかも知れないけれど。
――――梨絵は、「恥じることなんて何もない」って言ってくれた。
がらり、扉を開けると陽だまりだった。白い真昼日がカーテンの隙間から差し込んでいて。
中学生用の小さな席に腰掛けて、学生の似顔絵を描いていた。やっぱり大人になっていて、けれどあの頃と違うのは、繊細な輪郭のどこかに昔はなかった力強さが感じられたことだろう。
彼がこちらに気付いて手を上げ、私もやっ、と手を振り返す。よく分かったなって思ったけど、残念なことに私の方は何も変わってないんだった。
似顔絵に戻る彼の姿が立派に思えて、思わず目を細めてしまう。
壁に掛けられた絵画たち。
驚いた。
とくん、なんて胸が高鳴って苦笑した。
「………もう……」
昔から過剰にきれいな目で周囲を見る人だった気がするけれど、これだけは、まったく美化しすぎだと思う。なんて繊細で、穏やかで、そして熱っぽい思いに満ちた絵なのだろう。
――夕日色。
私の目に映っていたのは、恋するような優しいタッチで描かれた、ピアノを奏でる音楽少女の美しい横顔だった。
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