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運命の果て 番外編 『罪滅ぼし』

プロローグ

 枯れ枝を踏む音に、シデロフィルは浅い眠りから覚めた。それなりの体重がある生き物が移動しているらしい。カサカサと落ち葉の上を歩く音が近づいてくる。そのやや前方に、もう一つ足音。
 小動物と、それを追う獣か。
 寝そべっていた太い木の枝の上で上半身を起こし周囲を見回す。まだ姿は見えない相手に警戒しつつ、腰に付けたままの短剣を指先で撫でた。大きい方が魔獣であれば、今夜はもう一儲けできそうだ。
「頼むぜ、相棒」
 ほとんど唇の動きだけで呟く。獲物を前にしたときの無意識の癖だ。

 シデロフィルは魔獣狩りを生業としている。動物の姿をしているが背中に翼を生やした獣、魔獣。額に光る輝煌石があり、魔力を持ち魔術を使って人を襲う存在だ。それを狩ったときに得られる輝煌石を売ることができるのは、公国に認められた魔獣狩りだけだ。
 無駄な肉のない均整な体つき。背は平均ほどで決して高い方ではない。肩をやや越えるくらいの長さまで無造作に伸ばした黒髪を麻紐で結んでいる。肩黒い革のパンツに、麻のシャツ、上から革のマントを羽織った姿は、シデロフィルの定番の服装だ。一人旅故に手荷物は極力減らして、鞄一つで十分収まるようにしている。とっさに動きやすい身軽さは、魔獣狩りとしての知恵でもあった。

 地面に小さく光るものが見えた。黒い輝煌石だ。ならば追われているのは小さな魔獣。目をこらせば小型の兎のシルエットがかろうじて見える。シデロフィルは舌打ちしそうになるのをこらえた。微かな音でも自分の居場所を魔獣に教えることになる。小さい魔獣とは言え襲われれば危険なことには変わりない。
 それに、兎を追いかけているものの正体はまだ分からない。シデロフィルは意識を兎の後方に向けた。パキンと、再び枯れ枝を踏む音。うっすら見えてくる姿。
「人間か。魔獣狩りにしちゃあずいぶん素人臭いな」
 疑問を、やはり吐息だけで呟く。魔獣狩りで無ければ旅の商人が夜の森に迷い込んだか、近くの村の子供が度胸試しに来たか。背は高いがまだ少年らしい姿だ。
「待て、ったら、待て」
 大声を上げる元気はないらしく、荒い呼吸をしている。
 ふとシデロフィルは視線を巡らせた。とっさに短剣の柄を掴む。聞き逃しそうな微かな音を鼓膜が捉えたのだ。
「はああああああああっ」
 シデロフィルがいる木の根元まで近づいてきた少年がナイフを振り上げた。気合いを入れるために精一杯声を張り上げ、覚束ない手つきで追い詰めた兎に狙いを定める。足にはろくに力が入っていない。
「どけっ」
 とっさに木から飛び降りたシデロフィルは、そのままその少年の先腹を蹴りつけて吹っ飛ばす。五歩分は転がった少年が無事かどうかを確かめるいとまはない。
「そこかっ」
 叫び声とともに短剣を振るう。闇に慣れた目には、黒い小熊の魔獣が確かに見えている。輝煌石が見えないのは、土をなすりつけて隠す程度の知恵があることを示していた。
 ザクリという確かな手応えの一瞬後、小熊は泥となって崩れ落ちた。
 泥の中から探り出した輝煌石を拾うと、ようやく少年の様子に目を向けた。
「おれの、うさぎ」
 仕留め損なった兎が逃げた先を未練がましく見つめていた。


1 レストラン『fumyu』

「そりゃあ、熊から助かったのは感謝してるけど」
 ルベライトは不満たらたらの表情で言った。スープを平らげ、パンを半分食べ、肉にも食らいつきたかったがそれ以上の食事は止められていた。
「だいたいなあ、お前が輝煌石を持ち込んでも誰も買い取ってくれないぜ」
「なんでだよ」
「おまえ、魔獣狩りに認定されてないだろう」
 シデロフィルに指摘されて、ルベライトは言葉に詰まった。輝煌石を売ることができるのは魔獣狩りだけ。子供でも知っていることだ。
「も、もぐりとか、どっか探せばあるだろ」
「そんな危険な橋渡る職人はいないね。いたところでまともな奴じゃないし、伝手も無きゃ無理だろうよ」
 店主もシデロフィルの言葉に重く頷く。
 探している間に捕まる可能性もあると指摘され、今度こそ反論できないルベライトである。

 魔獣に襲われた孤児院から抜け出して十日以上はたっただろう。ルベライトはすでに日付の感覚が薄れていた。首の辺りで適当に切った黒髪は汗で汚れていたが、沢で洗うような気力は無い。
 お下がりの綿のズボンは、痩せすぎたルベライトにはブカブカだ。おまけに背ばっかり高いために裾が足りない。子供じみた生成り色のチュニックは肩が窮屈だ。
 ルベライトが持ち出せたのは、小さなナイフ一本と孤児院に入ったときに身につけていた赤い耳飾りだけ。装飾品などは職員が外して懐に入れてしまうことが当たり前だが、ルベライトの耳飾りだけは、誰も手を触れようとはしなかった。
 少し大きくなってからは、女物の耳飾りが恥ずかしくてポケットの中に入れたままにしていた。
「食い物、なにか食い物を」
 おとといの夕方、僅かな果物を食べて以降、水しか口にしていない。お金は持っておらず、何か食べ物を見つけなければと迷い込んだ森を、丸一日以上さまよっている。
 街で悪さを働くか。
 頭をもたげたアイデアに、しかしルベライトは首を振った。
「そもそも森の出口はどっちなんだよ」
 ただでさえ方向を見失いがちな森の中である。慣れていない上に夜と言うこともあって、ルベライトはすっかり迷子になっていた。ぐるりと見回すが、それで道が分かる訳でもない。
「あれ」
 光るものを見つけて、ルベライトは首をかしげた。
「何だろう」
 ゆっくりと動いているそれに、息をひそめて近寄る。兎に翼が生えた姿を認めて、ルベライトの瞳に憎悪に輝いた。
「あいつ、魔獣だ」
 ルベライトはズボンのポケットに押し込んでいたナイフを引っ張り出すと、ぐっと握りこんだ。
「お前達のせいで孤児院がなくなったんだ」
 倒してやると唸るようにいうと、一歩踏み出した。枯れ枝が折れる音に気がついた魔獣が走って逃げ出す。
「待て」
 落ち葉を踏んで歩くルベライト。視線は兎だけに向けられ、周囲の様子は目に入っていなかった。
「待て、ったら、待て」
 ようやく木の根元まで追い詰めたときには、走ってもいないルベライトだが息を切らせていた。体力はもう限界が近いらしい。
「はああああああああっ」
 それでも気合いのかけ声を張り上げてナイフを振り上げた。足元がふらつく。
「どけっ」
 男の焦った声を聞いたと思った瞬間、ルベライトは脇腹をしたたかに蹴られ地面に横たわっていた。男の奥に見える黒い小熊。男の短剣が振ると、それは泥になって崩れ落ちた。
 安堵の息をつくと、ルベライトは自分の獲物を思い出した。
「おれのうさぎ」
 兎の走り去った方を見て、ルベライトは呟いた。
 
「無事か」
 自分を蹴り飛ばした男に抱き起こされてたルベライトは無言で頷いた。
「おまえ、あのままじゃ熊の餌食だったな」
 軽い調子の男がルベライトの服を捲って脇腹を確認する。骨は折れていないなと肌に触れて呟いた。他人に触り慣れているらしい手つきにルベライトは困惑する。内蔵の無事でも確かめるためにか、腹を撫でようとした手を乱暴に払う。男が手を引っ込めるとルベライトは服の裾をなおした。
「あんたは」
「おいおい、命の恩人にあんたはないだろう」
 それよりお前はと聞き返される。
「ルベライト。旅人だ」
「にしちゃあ荷物もないな。おおかたどこかの街の家で少年か」
「孤児院が襲われて住むところがなくなった。それで、あんたは何者なんだよ」
 男は一刹那、悲しげに口元を歪ませた。
「本当に口の利き方がなってないな。まあ、仕方が無いか。シデロフィルだ。魔獣狩りをしている」
 呆れたようなため息とともに男が答える。
「魔獣狩り。魔獣を倒す仕事か」
 ルベライトははっと目を見開いた。
「まあ、そうだが」
「俺に、魔獣の倒し方を教えてくれ」
 シデロフィルはルベライトの言葉に、少し思案するように腕を組んだ。ルベライトを頭の先からつま先まで、たっぷり五回は視線を往復させる。
「まあ、いいぜ」
 にっと笑んだシデロフィルに、ルベライトは背筋がゾクッとするのを感じた。

 ともかく何か食べなくてはと、シデロフィルが先に立って歩き始めた。慌てて追いかけるルベライトには分からないが、どうやら獣道のようになっているらしい。朝日が差し込む頃、二人は街道が見える辺りまで来ていた。体力の限界が近いルベライトが荒く息をつく。
「街道を少し行くと、レストランがある。着く前に倒れたら捨てていくからな」
 冷たい台詞だが、そもそもシデロフィルにルベライトを助ける義理はないのだ。それでも歩調を少し弱めてくれることに優しさを感じるルベライトだ。
 転びそうになる足を叱咤しつつ歩いて、ようやく遠くにレストランが見えた。街道沿いの街の側ではあるが、あえて街の外に店を構えているのは、旅人が気軽に立ち寄れるようにと言うことだろう。この辺りでは街に入る審査が厳しいとシデロフィルが言った。
 
 街道まで着けば、後は平坦な道だ。馬や馬車も通る幅広い道を渡り、さらに歩く。ようやくの思いでレストランに着き、ルベライトはほっと息をついた。看板に書かれた『fumyu』という外国風の店名はルベライトには読めない。
 シデロフィルが扉を開けて中に入る。
「悪いが、準備中だ。来るなら昼飯時にしろといつも言ってるだろう、シデロフィル」
「そう言うなって。俺とお前の仲だろう、ジルコン」
「ふん。そういう事を言うならツケくらい払いやがれ、このタダ飯喰らいが」
 店主とは顔なじみらしい「和やかな」挨拶を交わしている。ルベライトはその様をぼんやり見ていた。シデロフィルと同じくらいの、平均的な身長。体つきは店主のジルコンの方が少し細い。
「最近は魔獣狩りも増えただろう。お陰でこの辺りで稼ぎにくくって仕方がねえ」
「へえ、そうかい。そりゃあ街の外で店やってる身にすればありがたいことだ。まあ、来ちまったモンは仕方ねえ、入んな。おい、お前いつの間にガキ拵えたんだ」
 ジルコンがルベライトに一瞥をくれる。
「拾いモンだよ。ルベライト、こっちに入りな」
 店内に一歩入ると、おいしそうなスープの香りがする。気が緩んだルベライトは、テーブルに着く前に意識を手放した。

 口に熱い何かを流し込まれた感触に、ルベライトは目を覚ました。幾つか並べた椅子に寝かされている。貴重な硝子瓶が口元から離れていくのを見て、気付け用の強い酒を飲まされたと自覚する。
「ゲホッ、ゲホッ」
 驚いた途端に少しむせて咳き込む。シデロフィルに体を起こされ水の入った木のマグカップを手渡される。慎重にそれを飲み干すと、呼吸が楽になった。胃の底はまだ熱く感じる。
「あ、ありがと」
 ルベライトがマグカップを返すと、シデロフィルはなぜが苦笑した。
「魔獣を倒す以前に、旅をするならあんまり人を信じるな。これが毒だったらどうするんだ」
「あ」
「これだから孤児院育ち(世間知らず)はほっとけないんだよ」
 盛大にため息をつくシデロフィルに、ルベライトはムッとして顔を背けた。

 ともかく腹ごしらえだと、シデロフィルがテーブルに着く。向かいの席にルベライトが座ったところで、タイミング良くジルコンが皿を持ってキッチンから出てきた。二人の前に食事を並べる。後から着いてきたウェイトレスがそれを手伝う。小柄で長い髪をした美少女で、シデロフィルにだけ蒸留酒の水割りを注いだマグカップを渡した。早速その強い酒を一口含む。
「おい、こんな|娘《こ》どうしたんだよ。ウェイトレスは雇わないんじゃなかったか」
「ん、まあ、ちょっとな。断れない事情というか」
 シデロフィルの疑問にウェイトレスがジルコンを見て首を振ると、ジルコンは曖昧にごまかした。
「いつの間に」
「まあ、昨日の夜というか、前から話はあったんだが」
「ふうん? まあいいが」
 シデロフルが速いペースで酒を呷る。
「おお、坊主、目ぇ覚めたな。良かった良かった」
 話をそらそうとしたジルコンが、ルベライトを見て安心したように言った。
「あ、ああ」
 返事よりも、目の前に置かれたスープに気を取られるルベライトである。だがスプーンは取らず、じっと見つめるばかりだ。
「ほら、食えよ。ああ、いきなりがっつくなよ? さっきは腹を蹴飛ばしちまったし、しばらくぶりのメシだろう。いきなり食うと吐くかも知れないからな」
 蒸留酒を飲み干しマグカップを置くシデロフィルに、ウェイトレスはパンと手を打つ。
「まあ、良い飲みっぷり。お兄さんはお強い」
「美人が入れてくれた酒は違うな。もう一杯頼むよ」
 シデロフィルが差し出したマグカップをジルコンがかっさらう。
「蒸留酒はツケを完済してからだ。お前は安いエールでも浴びていろ」
「ケチ」
 言い返しながらシデロフィルは自身の前に置かれた肉に取りかかる。
「ん、食わないのか」
「警戒しろって、さっき」
 言い返すルベライトに、一瞬ぽかんとしたシデロフィルが笑い声を上げた。
「ははははははは、ひー、ははは。お前ってホント素直なんだな」
「素直で悪かったな」
 これでも孤児院一のひねくれ者だったのだと、自慢にもならないことを独りごちる。笑い続けるシデロフルに気分を害しながらも、毒が入っていたらどうすると言われた直後に出されたものを口にするのはやはり躊躇う。
「ほお、俺のスープが食えないか」
 ニヤニヤとジルコンが笑みを向けてくる。
「別に俺はお前さんが空腹で野垂れ死んでも構わないぜ」
「あ、いや、食べる。食べます。頂きます」
 慌ててスプーンを取りスープを掻き込む。慌てすぎたあまり気管に入って噎せてしまうと、シデロフィルはますます大声で笑った。
「蒸留酒を飲むとすぐこれだ」
 ジルコンがあきれ顔で言う。
「まあ、愉快なお方」
 ウェイトレスがルベライトの口をナフキンで拭きながらシデロフィルに微笑みかける。
「いい、自分でできる」
 子供扱いされた恥ずかしさに、ルベライトはナフキンをひったくるとゴシゴシと唇をこすった。
「ほら、二人とも落ち着いて食え。あなたは、いや、君はちょっと下がっていてください」
 ジルコンはウェイトレスに、妙に丁寧な態度で指示を出した。
 
 物足りない量の食事を済ませてテーブルが片付くと、ルベライトは逃がしてしまった兎の魔獣に対する悔しさにため息をついた。
「せめてあいつを倒して復讐したかったのに」
「あんな小物を倒したところで気が晴れるのか」
 真面目な態度に戻ったシデロフィルが指摘する。ジルコンもテーブルの側に立ち二人のやりとりを聞いている。ウェイトレスは奥で洗い物をしているようだ。
「そりゃあ、あんな奴だけじゃ。でも俺には、孤児院を襲ったようなでかい魔獣は倒せない」
 ぐっと拳を握る。
 耳に残る、まだ幼い子ども達の悲鳴。子ども達を守ろうとした少年達の無残な姿は目に焼き付いている。
 ルベライトが体力を失ったのは、満足な食事ができなかったせいだけではない。孤児院が魔獣に襲われた日の記憶が、彼を眠りから遠ざけるのだ。
「だから、魔獣の狩り方を俺に教えて欲しい」
「分かった」
 頷くシデロフィルに、ジルコンは心配げな視線を投げかけた。
「フィル」
「平気だ。そんなに心配するなよ、ジル」
「分かったよ」
 ジルコンが諦めたように引き下がる。
「だけど、駄目だと思ったときは止めるからな」
「ああ」
 シデロフィルは頷いて、ルベライトに向き直った。
「いくら小物だからと言って、剣も持ったことのないようなガキがいきなり魔獣に向かうのは無茶だ」
「ああ、でも兎くらい平気だ。それに、輝煌石を売って金にしなきゃ、ご飯も寝るところもないし」
「回りに何がいるかも見えていない。小物を相手にしているからって、小物だけを相手にしているとは思うな。さっきも危なかっただろ」
「そりゃあ、熊から助かったのは、感謝してるけど」
「だいたいなあ、お前が輝煌石を持ち込んでも誰も買い取ってくれないぜ」
「なんでだよ」
「おまえ、魔獣狩りに認定されてないだろう」
 輝煌石を売ることができるのは魔獣狩りだけ。子供でも知っていることだ。魔獣狩りに認定されるには、公都で行われる試験に合格しなければならない。
「も、もぐりとか、どっか探せばあるだろ」
「そんな危険な橋渡る職人はいないね。いたところでまともな奴じゃないし、伝手も無きゃ無理だろうよ」
 ジルコンもシデロフィルの言葉に重く頷く。
「買い手を探している間に捕まる可能性もあるな」
 輝煌石は魔力を含んだ貴重品故に、違法な売買に関する罰則は重い。
「だから、お前が魔獣狩りとして独り立ちできるまでは面倒を見てやる」
「本当か」
「ああ。だが、」
 シデロフィルはいったん言葉を切った。
「だが、何だよ」
「ナイフ一本じゃ無理だ。剣と、旅の荷物が必要だな」
「ああ」
「そして俺は今金欠だ」
 ルベライトがシデロフィルに出会ってまだ半日と経たない。だが後に、これ以降の付き合いの中でルベライトがみたシデロフィルの表情の中で、このときの笑顔が一番爽やかなものだったと回想することになる。


2 お金がない

 魔獣狩りの認定試験自体は、一月もあればなんとかなる程度の簡単なものだという。一度捕まえられた獣が公爵邸の裏庭に放たれる。その獣に、決められた時間内に一撃を加えれば合格だ。放たれる獣は子馬か子羊が多い。そして倒されたそれは、公爵家の食卓に上るらしい。
「だが、問題は身元と装備品だ。武器と貴重品である輝煌石を扱う魔獣狩りは、身元のはっきりした人であるべきだと言うのが、公爵家の考えだ。だからどこの街の誰という証しがなければ魔獣狩りにはなれない」
 シデロフィルの説明に、孤児院を出て身元不明の身であるルベライトは俯いた。
「じゃあ俺には」
「まあ身元なんてのは、金さえあればどうとでもなる」
 ジルコンが事もなげに言った。
「それに、まともな剣とある程きちんとした服装がなきゃ、そもそも試験が受けられない」
 それも、ルベライトにはないものだ。
「仮にも公爵様のお家にお邪魔して獲物を狩るんだ。ボロに丸腰じゃあ摘まみ出されるなあ」
 ジルコンが顎をさすりながら言った。
「じゃあ、服を買わなきゃ。ああ、でもお金が」
「今も言ったが、俺は金欠だ」
「ここの飯代の払いも溜まってるからな。いいか、どんな事情があろうと、一日でも顔を出さない日があったら街の役人に訴え出るからな」
 無銭飲食で捕まえてやるとジルコンがすごむ。
「それじゃあいつまでも稼げないって言ってるだろ。最近大きな魔獣が出やすい場所は、ここから往復だけで三日かかるって」
 夜中に魔獣を狩ることを考えれば、二日は店に顔を出せないと訴える。
「あの、熊を倒したときの輝煌石は」
 ルベライトがふと思い出して指摘する。ジルコンがシデロフィルを促したが、シデロフィルは肩をすくめた。
「あの熊、小熊だけどそこそこ大きかった」
「ああ、なんだ。輝煌石があるならさっさと出せ」
「これ一個じゃあせいぜいエール三杯だぜ」
 シデロフィルがポケットから出したのは、親指の先ほどの青い石だ。光が弱いのは、込められた魔力が少ないせいらしい。
「エール三杯だろうが払えるモンは払って貰うぞ」
「分かったよ」
 ジルコンが差し出す手のひらに、シデロフィルはぽいっと輝煌石を投げた。
「ま、仕方ねえから今日の分はこれで勘弁してやる」
 光にかざして輝煌石を確かめたジルコンが、恩着せがましくシデロフィルに言う。
「でも、魔獣狩りじゃないと換金できないんだろ」
 ルベライトが言うと、ジルコンは輝煌石を握ったまま服の襟元から、首にかけていたものを引き出した。金属片にこの国を治める公爵家の紋章が彫られている。
「魔獣狩りの証しだ」
 疑問の表情を浮かべたルベライトに、シデロフィルが自分も同じものを服のしたから取り出しつつ教えた。
「さて、問題はどうやってお前の装備を調えるかだが」
「遠出をせずにな」
 ジルコンが釘を刺す。
「ああ、分かったよ。だが、そうすると小物狙いになるから時間がかかるな」
「あの、ご主人様、お皿洗い終わりました」
 ウェイトレスが奥から顔を覗かせた。ジルコンが慌てたように振り返る。
「あ、はい。それではしばらく奥で休んでいてください。あ、休んでいなさい」
「お話、少し聞いてしまいました。それで、ちょっといいお話があるんですのよ」
 ジルコンの言葉に笑みで答えたウェイトレスは、しかし従わずにシデロフィルの隣に立った。ルベライトよりはやや年上か。きゅっと細くなったウエストの上に、慎ましくはあるが確かな存在感のある胸を乗せている。赤茶けた腰まである長い髪はウェーブがかかり、顔立ちは美人の部類だがどこか冷たい印象をルベライトに与えた。
「お隣、いいかしら」
「もちろん」
 シデロフィルが頷くと、ウェイトレスはふんわりとした黒いドレスの裾を、をさりげない仕草でさばいて座る。
「いい話って?」
「お金のお話ですわ」
「ああ、その前に、君の名前を教えてくれるかな」
 シデロフィルは左腕で頬杖をつくと、ウェイトレスに対して半身に構えた。
「ちょっと、名前なんていいだろ」
 慌てたのはジルコンで、ウェイトレスは人差し指を唇に当てて首をかしげた。
「名乗ってはいけないと、お父様とのお約束なのですが。いいわ、リチアって呼んでくださらないかしら」
「リチアちゃんね。いい名前だ」
「あなたのことは、フィルって呼んでいいかしら」
「ああ、もちろんだ」
 二人のやりとりをジルコンは苦い表情で見ていたが、今日は臨時休業だなと呟いて席を外し、店のドアに内鍵をかけた。ルベライトは駆け引きするような男女のやりとりに、照れの混じった不快感を感じて咳払いをした。
「じゃあリチアちゃん。いいお話って何かな」
 シデロフィルはリチアの顔にかかった髪を指先で耳にかけてやると、見せつけるようにルベライトに視線を送った。
「あくまでも、噂なんですが」
「うん?」
「さるお方が、おいしいお料理を召し上がりたいと公国中をお忍びで歩いていらっしゃるそうですわ」
「ああ、噂ね」
 思い当たることがあるらしいシデロフィルが頷く。ルベライトは首をかしげた。
「牛、馬、羊はもちろん、公都では珍しい魚料理も食べ飽きたって噂だな」
 戻ってきたジルコンが補足する。
「ええ、そういう噂ですわ。そのさるお方が、王国から客人をお招きするに当たって、お忍びでこちらのお店にいらっしゃると、ああ、あくまでも噂ですのよ」
「あくまでも噂ですのよ、ねえ」
 シデロフィルが面白がるように繰り返してジルコンを盗み見る。
「ああ、噂だなあ」
 とぼけるように言うジルコンが視線をそらせた。
「噂?」
 置いてけぼりにされたルベライトが呟いて口を尖らせた。
「ええ、噂ですわ」
 リチアが面白がって繰り返す。
「お招きする方の、婚約が内定することが内定したと、その記念においしいものを食べて頂きたいと、あくまでもそういう噂ですの」
 内定が発表されるのは少し先、さらに婚約の宴は来年、相手が成人するのを待って行われるという。
「お招きするのはたいそうな美食家という噂ですわ。一般的なおいしいものでは満足しないそうですわね」
「それで、いい話にはどう繋がるんだよ」
 痺れを切らしたルベライトが口を挟む。
「ですからね、珍しくっておいしい食材を探してくれば、さる方からご褒美がいただけるという噂ですわ」

 五日後の夜、と言うのがその「噂の」会食の日だという。昼の営業を休んだ『fumyu』の店主ジルコンは、シデロフィルにまとわりつくリチアに迎えが来たのを期に家に帰すと、改めてシデロフィルとルベライトに切り出した。二人の座るテーブルの横に椅子を引っ張ってきて腰掛けている。三人の前にはエールが出されている。
「噂、と言う言い方しか今は出来ねえんだがな」
「だろうな」
「正直断ろうと思ってたんだよ。昨日の夜いきなりの話だし、俺には荷が重いし、そんな食材を探すあても」
「まあ、でも断れない筋か」
 苦り切った表情のジルコンが頷く。シデロフィルは同情のため息をついてジルコンを見た。
「さっきのあの方がお前に話しちまったことで、余計にな」
「あの嬢ちゃんもただ者じゃないってか」
「気づいてたくせによく言うよ」
 ジルコンが恨みがましくシデロフィルを睨む。
「食材のあて、本当にないのか」
「そんなものを簡単に仕入れられるなら、わざわざこんな店を指定しないだろう」
 いくらお忍びでも、街の外で旅人や魔獣狩り相手に商売をする店でなく、公都の立派なレストランを使うだろうとジルコンが言った。
「旅人にしか出回らない情報を当てにされたか」
「まあ、そうだろうな」
「で、当てが全くない訳じゃないんだろう?」

 店の二階を借りて、シデロフィルは一眠りするという。
「お前さんも休んでこい。一晩歩き通しだったんだろう」
「ん」
 促されてルベライトも席を立つ。二階に宿を設ける飲食店は多い。案内されたのは寝台が一つ置かれたきりの部屋だ。だが孤児院では狭い寝床に押し込まれるようにして眠っていたルベライトにとっては贅沢な部屋だ。
 下着姿になって洗いざらしのシーツに横たわると、改めて全身の疲労を感じる。連日の悪夢を遮るかのように毛布を頭からかぶり、ルベライトは浅い眠りについた。
 
 押し殺したような小さな悲鳴に、シデロフィルは目を覚ました。短い眠りだったが慣れた居心地の良い部屋で休めたせいか体は回復している。だが気分は暗く沈んでいた。
「や、やめて、来ないで」
 聞こえてくる悲鳴が、はっきりした言葉に変わる。胃の底が重たくなるような不快感。
「もう忘れたと、思ったんだけどな」
 それでも、安全な場所で眠るときにさえ腰から短剣を放せないのは、まだ忘れていない証拠か。
 使い込まれた短剣を指先で撫でる。
「お前がいてくれなきゃ俺はまだ駄目だな、相棒」
 シデロフィルは独りごちると、立ち上がった。ドアを開けて隣室に向かう。
「不用心だな」
 鍵のかかっていない隣室のドアを開けて中に入る。
 毛布にくるまったルベライトが眠ったまま悲鳴を漏らす。
 シデロフィルは寝台に腰掛けると、そっとルベライトの頭に触れた。
「大丈夫だ。お前のことは俺が守ってやるからな」
 守れなかったあいつらの代わりに、とは胸の内だけで呟いて。
 触れられたことで体をこわばらせたルベライトだが、柔らかく頭や腕を撫で続けると緊張を緩めた。寝返りを打ってすがるようにシデロフィルに腕を伸ばしてくる。シデロフィルは寝台の上に覆い被さるようにしてルベライトを抱きしめてやった。


3 食材探し

 丸一日近く眠り続けていたらしい。ルベライトが目覚めたのは翌日の朝だった。
 孤児院が魔獣に襲われた恐怖からろくに眠れない日々が続いていたが、今朝はずいぶんすっきりとした気分で迎えることが出来た。
「起きたなら早速食材探しに行ってこい」
 店に降りてきたルベライトに、ジルコンが朝食にとパンとスープ、よく煮込まれた羊肉を用意しながら言った。シデロフィルはカウンター席に着き、すでに食事は済ませた風情である。
「森の奥、だっけ」
 昨日の会話を思い返しつつルベライトが言うと、ジルコンが頷いた。ルベライトは目の前に置かれた皿に手を伸ばす。
「そうだ。森の奥に住み着いているという情報がある」
 簡単そうにジルコンが言うが、警戒心が強く音に敏感なため、捕まえるどころか姿を見ることさえ困難な獲物だ。
「魔獣ではないんだな」
 シデロフィルが念押しする。ルベライトは肉を食みながら耳をそばだてる。せっかく見つけても、相手が魔獣では倒した途端に泥になって崩れてしまう。
「翼も輝煌石も見たものはいないようだ」
「分かった。だが捕まえてくるのはいいが」
 シデロフィルとジルコンの視線がルベライトに注がれる。
「先にこいつの装備をなんとかしないとな」
「貸しにしてやってもいいが」
「借りるのはルベル、お前自身な」
 ジルコンの言葉を受けて、シデロフィルが言った。
「返す当てが」
 ルベルの言葉が尻すぼみになる。
「食材を持って帰ってくれば棒引きでいい。ついでにフィル、お前の分もな」
「へえ、やけに気前がいいな」
 シデロフィルがニヤッと笑う。
「それだけの価値はあるってことさ」

 公都からは街道沿いに一つ隣の街、リチドライド。レストラン『fumyu』はその城壁から少し離れたところに建てられている。
 正式な門から入るには、街の住民である証しか、自分が住む街から正式に旅を認められたという証しがなくてはいけない。
「何事にも裏はあるんだよ」
 その日の昼過ぎ、ルベライトには分からない『手続き』でリチドライドに入ると、シデロフィルは古着屋にルベライトを連れて行った。
 ルベライトが黒い革のパンツ、麻のシャツ、革のマントという、シデロフィルと同じような服を選ぶと、シデロフィルはニヤニヤと笑った。
「まあ、旅をするには定番の服装だけどな」
 可愛いところがあるんだなと頭を撫でられる。少年にしては背が高いルベライトだが、シデロフィルと並ぶとやや低い。
「やめろよ」
 子供扱いに腹を立てて手を払うと再び笑われた。

 古着屋の奥を借りて買った服に着替えると、今までのサイズが合わない服は売った。かなり傷んで汚れているが、買い手は付くらしい。
「貧しい人はどこにでもいるさ」
 シデロフィルがぼそっと呟く。思いがけず真剣な調子に、ルベライトは返事が出来なかった。
「じゃあ次は武器屋だな。短剣と長剣、どっちがいい」
「よく分からないけど、長剣」
 また真似をすれば笑われそうだと、シデロフィルの腰に付けられた短剣を見て言う。
「そうだな。ルベルはまだまだ背が伸びそうだし、長剣でいいか」
 じゃあこっちと、慣れた様子で道を選ぶ。
「俺も、ついでに買っておくかな」
「短剣使いじゃないのか」
「元々は普通の長剣を使っていたけどな。金がなくて売っちまった」
「普通は短剣の方を売るんじゃないのか」
 長剣と短剣ならば、サブウエポンとして扱われがちな短剣より、メインウエポンになりがちな長剣を手元に残すだろう。
「こいつを、手放せなかっただけだよ」
 触れられたくない話題なのか、ルベライトの視線から隠すように短剣の柄を握った。
「ほらここだ。好きなのを選んでみろ」
「ああ」
 そう言われても、ルベライトには剣のことなど分からない。薄暗い店の奥に並んだ剣をざっと見回して、一番安そうなものを指さす。
「じゃあ、あれ」
「おお、坊ちゃんはお目が高い」
 冷やかしなら帰れと言わんばかりの視線を向けていた店の主人がぱっと椅子から立ち上がって出てきた。
「これは」
 シデロフィルも驚いた顔をしている。
「何だよ、普通の剣だろ」
「まあ、普通と言えば普通だな」
「ええ、形として変わったところのある剣ではございませんが」
 シデロフィルと主人ばかりが納得しているが、ルベライトにはさっぱり分からない。紋様が彫られている訳でも、宝石や輝煌石が埋め込まれている訳でもない。強いて言えば、兵士や傭兵が使いそうな実用本位の剣である。
「これは質の良い鉄から作られたものです。きちんと手入れをして使えば、高価なだけで大して役に立たない立派な剣よりも切れ味も良い。ある人は価値の分からない商人にはした金で売り飛ばしたようですが」
 主人がシデロフィルに意味ありげな視線を投げかける。
「へー、そんなもったいない事する奴がいるんだな」
 対するシデロフィルは棒読みである。
「すでにこちらの手に渡ったもの。お連れの坊ちゃんに売っても文句はございますまい」
「ああ、好きにしてくれ。俺はその二つ右の、そう、それを貰おうか」
 一度手放したらしい武器に未練は無いようで、シデロフィルは手頃な値段の剣を購入した。ちなみに代金はルベライトがジルコンから借りたものから支払っている。
「それは本当に良い剣だ。大事にしろよ」
 シデロフィルのしみじみとした言葉に、主人は苦笑したようだ。

 初めて手にした剣は、ずっしりと重かった。
「まあ、言ってみれば鉄の塊だからな」
 シデロフィルは、長剣と短剣の二本を腰に下げて平然と森の中を歩いている。
 服装を整え、剣も手に入れ、そのほか雑多な買い物を済ませたその足で、ルベライトとシデロフィルは獲物がいるという森に踏み込んだ。
 ルベライトがシデロフィルに助けられた木を通り過ぎ、さらに奥へ入っていく。
 ガサリと音がするたびにルベライトは驚いて剣の柄を握った。
「大丈夫だ。今のはリスかなんかだろう」
 振り返ったシデロフィルに、軽く握った手でトンと胸を叩かれる。子供をあやすような手つきを繰り返されると、次第にルベライトは落ち着きを取り戻した。
「そうだ。ゆっくり呼吸をしていろ。焦って怖がれば魔獣にやられる」
 ルベライトを構いながらもシデロフィルは周囲への警戒を怠らない。すでに二体の小さな魔獣を倒している。どちらもルベライトには、側にいることさえ気がつかなかった魔獣だ。
「剣を構えろ」
 また何者かの接近を捉えたシデロフィルがルベライトに指示を出す。
「うん」
 ルベライトは言われるままに剣を抜いて、見よう見まねで構えた。
「この辺りを握って」
 持ち方をなおされる。肩を押されて右に向かされた。視界の隅に何かが動く。
「まだだ、もう少し。……よし、振り下ろせ」
「ええい」
 気合いとともに剣を振り下ろす。硬いものに当たった手応えはすぐに消えた。飛び出してきた魔獣に命中したらしく、足元に泥が落ちる。
「輝煌石を」
 泥の中を少しまさぐって、輝煌石を探し出す。小指の先ほどの白い石が見つかった。
「後で換金してやる。それとも初めて倒した記念に取っておくか」
「換金、する」
 今更のように襲ってきた緊張感に声が震えた。背中を強く撫でられると、足の力が抜ける。
「おっと、しっかり立て。魔獣狩りになるんだろう」
 言葉とは裏腹な柔らかい声。ルベライトは膝に力を込めて、倒れないように踏ん張った。
「もたもたしている時間は無い。急ごう」
 ルベライトがショックから立ち直ったと見たシデロフィルが再び歩き出す。ルベライトは剣を鞘に収めると、その後を追いかけた。
 
 獲物がいるらしいという辺りを散々歩き回ったが、今日の成果は足跡を一つ見つけたきりだった。
「テントを張っておくから火の番をしていろ」
 歩き回って疲れたルベライトは、シデロフィルの言葉に甘えて焚き火の側に腰を下ろした。干し肉を串に刺して炙る良い匂いが鼻をくすぐる。日が落ちる前に汲んでおいた沢の水をしっかり沸かした。安全のために、ポスカというワインをから出来た酢を薄めたものを混ぜる。鞄からパンを取り出して、ナイフで切れ目を入れた。干し肉を挟んで食べやすいようにだ。
 シデロフィルがテントを二張り立て終わって戻ってくる。ルベライトは干し肉を挟んだパンをシデロフィルに差し出した。
 
 不慣れな野宿にあまり眠れなかったルベライトは、あくびをかみ殺しながら集めた枯れ枝に手をかざした。意識を手のひらに集中させる。
「炎よ燃えろ」
 ややあって、枯れ枝がボッと音を立てて燃え始めた。ルベライトの魔術によるものである。
 魔力を持つ人間は多くはない。
「それ便利だな」
 起き出してきたシデロフィルが感心したように言う。
「別に、焚き火にくらいしか使えないし」
「旅には役に立つさ。メシの支度とかな」
 ぽんと頭に乗せられた手を、ルベライトは邪険に払った。

 ルベライトは、木の実や草が囓られた跡がないか注意しながら森の中を歩いた。狙う獲物が食べた可能性があるとシデロフィルに言われたからである。
 シデロフィルは、数歩ごとにナイフで木に傷を付けながら歩いている。自分が通った痕跡を残すことで、迷わないようにしているのだ。
「いつも入る辺りまでなら道が分かってるから平気だけどな。ここまで奥に入るならやっておかないと」
 その木に対してどちらから来て、どちらに進むのかを簡単な記号にして刻んでいるのだ。歩いているのは獣道だが、ルベライトには道を外れても分からない。シデロフィルからはぐれてしまえば、二度と森から出られなくなりそうだ。
「これ」
 まだ青い苹果を囓った跡を見つけて、ルベライトが声を上げた。
「ん、ああ、これは多分そうだろうな」
 シデロフィルが確かめて頷いた。シデロフィルは地面に視線を移す。
「これも、囓られてる」
 数歩離れてところに落ちていた木の実を指摘すると、シデロフィルが確認した。固い皮を残して、中身だけ食べられている。ここでもやはり地面を観察するシデロフィルが、「おっ」と声を上げた。
「見てみろ、足跡だ」
 土がむき出しになった箇所に、点々と足跡が見える。
「じゃあこれを辿れば」
「ああ」
 見つけた足跡を踏み消さないようにしながら、シデロフィルが歩く。ルベライトがそれに続いた。
 しばらく進むと、シデロフィルが足を止めた。
「どうしたんだ」
「しっ」
 声を掛けたルベライトを制する。少し視線をさまよわせたあと一点を指さした。
「あっちから音がする」
 ルベライトは言われた方にちゅうい向けたが、何も聞こえないと首をかしげた。
「剣、いつでも抜けるようにしておけ」
「ああ」
 シデロフィルが自身の短剣に指を滑らせながら、音を立てないまま唇を動かす。
 そこからは音を立てないように気を配りながら慎重に歩を進めた。やがてルベライトの緊張した耳にも枯れ草を踏む音が聞こえてくる。ルベライトは音のした方へ目をこらした。
「あれか」
 ほとんど吐息だけでシデロフィルに訊ねる。シデロフィルが頷いた。木々にの隙間から獲物の姿が見え隠れする。
「でかいな」
 思わず漏らした感想に、獲物が動いた。こちらに視線をくれることなく逃げ出す獲物。
「待て」
 逃がすものかとルベライトが走り出す。だが森になれないルベライトはあまりスピードが出せない。
「こら、勝手に行くな」
 シデロフィルの慌てた声がさらに追う。

「で、当てが全くない訳じゃないんだろう?」
 レストラン『fumyu』を臨時休業にした店主、ジルコンに向かって、魔獣狩りで生計を立てるシデロフィルがニッと笑った。ルベライトは話には入れず先ほどから黙ったままだ。
「まあ、な」
「話せ」
「噂、というより、それこそ伝説的な話だ」
 ジルコンは記憶を整理するかのように視線を上に向けた。
「そこの、街道の向こうの森」
 ルベライトがシデロフィルに助けられた森である。
「あの森の、街道から半日は行かないくらいのところか」
 とはいえ、森の中に点々とある小さな村の住民くらいしか足を踏み入れない辺りだという。
 ジルコンは視線をシデロフィルに戻した。
「輝煌石を食った兎がいるらしい」


4 悲しき記憶
 
 確かに大きいとは聞いていた。
「だけど兎だろ、こんなに大きいなんて聞いちゃいねえぞ」
 木々の間を縫って逃げる兎に舌打ちするシデロフィル。ルベライトはすでにバテてしまい肩で息をしている。
「おまけにすばしっこい」
 魔獣を倒し慣れているシデロフィルも手こずる逃げ足だ。もっとも、ほとんどの魔獣はシデロフィルを襲ってくるので、こちらから追いかける事はあまりないのだが。
 木の密集しているところに追い込むように、シデロフィルはルベライトを走らせた。そのたびに迂回されたり狭い隙間をくぐられたりして逃したが、距離は確実に詰まってきている。何度か繰り返すうちにルベライトも要領を得たのか、シデロフィルの指示を待たずに動けるようになってきている。
「お前、筋は良いな、ルベル」
「そうか、フィル」
「じゃあ、今度こそ捕まえるぞ」
 体長がシデロフィルの身長の倍ほどある兎から視線を外さずに言った。
 
 もともと兎としては大きい種である「フレミッシュジャイアント」だが、それでも人間の子供くらいである。それが輝煌石を食べて魔力を得たことで巨大化したという。
「まだ公国が王国の一部だった頃、公爵家が王国の貴族だった頃の話だ」
 だから二百年は昔の話だ。
 当時、今の公都とその周辺の幾つかの街にあたる部分は、公爵家の領地だった。のどかな田舎町と広大な森を持つ土地にはたくさんの動物も暮らしていたと聞く。
 この世が出来て少し後に生まれた神話で語られる魔獣も、当然いただろう。魔獣同士の争いか、他の動物に襲われたか、魔獣が倒された時に落とした輝煌石を誤って食べてしまった兎がいたという。
「巨大な兎を見たという噂は公爵の耳にも入った。ちょうど公爵の娘が王家に嫁入りすることが内定することが内定したと、そのお祝いに内々での宴を控えていた公爵は、珍しいものを出したかったんだろう。その兎をメインディッシュにしたそうだ」
「その伝説なら、なんとなくは聞いたことがあるな。お陰で公爵家は王家の庇護をますます受けるようになってさらに栄えた、とかなんとか」
 ジルコンの話す内容に、シデロフィルが腕を組んで二、三度頷いた。大きな街の上流階級の間では知られているが、庶民には忘れられてる話なのだろう。
「つまり、その兎を捕ってこいと言うわけか」
「でも、伝説なんだろう。今いる訳じゃない」
 ルベライトが疑問を口にした。
「それが、最近見た人がいる」
 旅の魔獣狩りがそんな話を店でしていたとジルコンが言う。
「見かけない奴だし、最初は誰も信じなかった」
「だろうな。しょっちゅうあの森に入る俺だって見たことないぜ」
 シデロフィルが同意する。
「だがな、何日かして、また別の魔獣狩りが見たとな。だいぶ奥の方まで行ったようだ」
「まあ、俺は街道近くを狩り場にしているが」
 シデロフィルは納得しかねる様子で首をひねった。
「その話が『さる方』の耳に入ってな」
「捕まえてこい、か」

「捕まえてこい、で済むサイズじゃねえだろうが」
 木が密集し、地面には根が絡まり合う場所に追い詰めた巨大兎を前に、シデロフィルが唸った。目の前の木の隙間は狭すぎて通れない。右後ろにシデロフィル、左横にルベライトが立つ。どちらに逃げるべきか迷った巨大兎が一瞬足を止めた。お座りのような姿勢でもなお、ルベライトの身長ほどある。
「ええええええええええええええええい」
 雄叫びとともに、がむしゃらに剣を振り下ろすルベライト。右に逃げようと跳ねた巨大兎の後ろ足にかろうじて当たる。
「はぁっ」
 シデロフィルが、足を気にして振り返った巨大兎の頭部めがけてさらに一撃。巨大兎が身を屈める。シデロフィルの狙いははずれたが、ふわりと舞った耳を切っ先が貫く。そのままぐっと木に切っ先を食い込ませて兎の動きを封じた。
「これで動けないだろう。仕留めろ」
 もがく兎を剣一本で押さえつけながらルベライトに叫ぶ。
「はああああああああああああああっ」
 構えなおしたルベライトが大きく剣を振り上げた。

 頭部に強い攻撃を受けて、巨大兎は絶命した。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
 荒い息をして地面に手と膝を付くルベライトを、しかしシデロフィルは構っている余裕は無かった。巨大兎を捕らえていた長剣を鞘に収めると、巨大兎を担ぐ。
「血抜きをさっさとしちまわないと」
 肉に血が回る前に下処理をしなければ食用には適さない。さらに普通の兎なら三日ほど涼しい場所で熟成させたいところだ。もっともこの巨大兎に当てはまるかどうかは分からないのだが。
「沢を探すぞ」
「ああ」
 疲労と、巨大とは言え兎を倒したショックから立ち直りきらないルベライトに声を掛けて立ち上がらせる。
 幸い兎を追ってきた痕跡はたっぷり残っているし、数歩ごとに木に印も付けてきた。森に慣れたシデロフィルが帰り道に迷う心配は無い。
 兎を追いかけながら、街道に近い方へ移動していたと分かったのは、見つけた沢が昨夕に水を汲んだ場所だと分かったからだ。きた道筋を辿るよりも、幾分か近道が出来たことになる。
「ここからなら今日中に森を出られる」
 安心したようにシデロフィルが息をついた。
「じゃあ、捌くぞ」
 シデロフィルが短剣を抜いた。

 沢の水にさらして血抜きを済ませると、二人は簡単な食事に取りかかった。保存用の堅焼きパンを、沸かした沢の水にポスカを入れたものに浸して食べる。炙った干し肉がルベライトにはごちそうに思えた。
「ちょっと」
 火の始末を済ませ、再び歩き出そうと言うとき、ルベライトはシデロフィルに断って少し離れた木の後ろに隠れた。
「気を付けろよ」
 あまり離れすぎない場所で用を済ませる。入れ替わりにシデロフィルが離れる間、ルベライトが荷物の番をする。
「ああ、おかえり」
 枯れ草を踏む足音に、ルベライトは振り返った。
「ぐるるるるるるるる」
 人間のものとは思えない唸り声。目の前に熊が両手を挙げている。背中には不釣り合いな翼。額には赤く大きな輝煌石。魔獣だ。
 あと一歩近づかれ、両手を振り下ろされたら死ぬ。
 恐怖を感じ身がすくむ。逃げなければと思うが、足がもつれる。尻もち。せめて剣を。こわばる指を柄にかける。

「ああ、おかえり」
 少し離れた場所でルベライトが言った。シデロフィルはようやく服装を整えたばかり。おかえりなどと挨拶される状況でも距離でもない。
 とっさに駆けだしたシデロフィルは、今まさに熊の魔獣に襲われつつあるルベライトを見た。

『助けて』
 振り返ってはならないと、本能が警鐘を鳴らす。せっかく最初の一撃から逃れられたのだ。立ち止まって振り返ればやられてしまう。
『いやあああああ』
 だが聞こえた悲鳴に反射的に後ろを見た。
 どこかの農村に貰われることが決まった幼い女の子の足が、醜い魔獣の口の中。
『お兄ちゃん怖いよお』
『痛いよぉ』
 幼い子ども達の声。すくんで動けない自分。
「たす、けて」
 覚えず漏れた声が、声変わりを済ませた大人のものであることには気がつかず。
 目の前には二体の魔獣。大人達は我先にと逃げてしまった。ちょっと大きな子ども達は、小さな子供達をかばって怪我をして、何人かは死んだ。自分と同じくらいの少年達は魔獣をなんとか倒そうとして、やられた。赤ん坊は逃げ去った別の魔獣に攫われた。
 自分は、とっさに逃げて、かすり傷ひとつ無い。
『フィル兄ちゃん』
 仲の良かった弟分が倒れたまま手を伸ばす。こちらに気がついた魔獣と目が合う。一歩下がって避けようとしたのは、どちらの視線か。
 『にい……ちゃ……』
 愕然とした弟分の顔。
 その頭を、無遠慮に魔獣が踏みつける。

「たす、けて」
 シデロフィルの口から、微かに漏れたつぶやき。熊が耳ざとく聞きつけてシデロフィルを見る。熊と目が合い、無意識に一歩後ずさる。
「フィル」
 声に、ハッと気がつく。襲ってきた記憶を振り払うように、シデロフィルは短剣を抜いた。
「頼むよ、相棒」
 小声で呟く。足手まといだった自分を、相棒と呼んでくれた青年を思い出す。

 シデロフィルの名を口にしたことがきっかけで、ルベライトの硬直がとけた。まずは近い相手をと熊が手を振り下ろす。転がってかわすルベライト。回転する視界の中で、シデロフィルが短剣を抜くのが見えた。

「今度は助ける」
 かつて暮らしていた孤児院の子ども達の幻影がルベライトに重なる。
 熊が、再び手を上げる。駆け寄るシデロフィル。
「ひっ」
 ルベライトの、引きつった悲鳴。
 不利な姿勢のまま、剣を抜こうとするルベライト。刃の中程から先が、鞘に引っかかる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 喉が裂けるほどの叫び声とともに、シデロフィルが短剣をかかげて、降ろした。

 ボトボトと、顔に、体に泥がかかる。鼻先に、硬いものが落ちてきた。
 ルベライトは一瞬何が起きたのかを理解できずに呆然となった。
 ルベライトの腹の上に覆い被さるシデロフィル。脇腹ぎりぎりの地面に短剣が突き刺さっている。それを握っているシデロフィルの手は、異様なほど白く、震えている。
「たすかった」
 シデロフィルが熊を背後から刺したのだと理解が追いついた。
「                」
 シデロフィルが小声で何か呟いている。肩をふるわせ、やがてつぶやきが嗚咽に変わった。
 
 温かい手のひらに背中を撫でられる。
「助かったから、もう大丈夫だ」
 柔らかい声。
 気がつけば、知らない青年について歩いていた。自分が助かったという安堵よりも、逃げだそうとした後悔に足が止まる。そのたびに励ましてくれた青年の手のひら。
 二体の魔獣をこの青年が倒したのだとシデロフィルが理解出来たのは、しばらく旅をしたあとだった。
 
「    さん」
 ルベライトがシデロフィルの背中を撫でていると、焦点の合わない目をしたシデロフィルが誰かの名前を呼んだ。
 ずるずるとシデロフィルの下から這い出たルベライトは、シデロフィルの指を短剣から剥がすと、自分にもたれかからせるようにして座らせた。手のひらで何度も背中を撫でてやる。
「助かったから、もう大丈夫だ」
 シデロフィルがショックから立ち直るまで、ルベライトはそう繰り返した。

 巨大兎を担いだ二人がレストラン『fumyu』に戻ったのは、その日の日暮れだった。
 青い顔をして無言のシデロフィルは、店主のジルコンに兎を渡すとふらつきながら二階へ上がっていった。
「何があったんだ」
 疲労困憊しているものの、それ以外は無事なルベライトにジルコンは視線を向けた。
「俺も、よく分からないんだけど」

 温かいシチューで空腹を満たしながら、ルベライトは熊の魔獣に襲われた顛末を話した。ジルコンが服の下から魔獣狩りの証しを引っ張り出して苦い顔。話し終えると、さすがに限界とルベライトも二階に上がった。汗と土に汚れたシャツとパンツを脱ぎ捨ててベッドに潜る。
「フィルも」
 目は閉じていても、今聞いた話が頭を駆け巡って眠れそうにない。寝返りを打つと、ベッドが軋んだ。

「フィルと俺は、同じ孤児院で育った」
 自分はフィルより二つ年上なのだとジルコンが言う。
 十歳になるかならないかでさる屋敷の下働きとして引き取られた自分は、懐かしくもない孤児院が魔獣に襲われたという噂を聞いてその屋敷を飛び出した。屋敷の主人の近くに使える者以外は、孤児院出身の使用人がやけに多かった。追いかけられもしなかったのは、使い捨てるつもりだったからかと当時は思っていた。
 修繕も取り壊しもされないまま村はずれに残った、半壊した建物。村で聞いた話では、助かった子供はいない。
『そういやあ、見かけない男が孤児院の細いのを連れてたぜ』
 村に出入りする旅の商人が口を挟む。
 よく聞いてみれば、連れ出された子はシデロフィルに似ているよう。
 旅をするのに便利だからと言うだけの理由で取った魔獣狩りの証しは、思いのほか役に立った。
「魔獣狩りしか知れない情報もあるからな」
 そのお陰で、探し始めて一年足らずでシデロフィルを見つけることが出来た。
 ただし、ジルコンを認識できるような状態ではなかった。促されるままに旅をするだけの、人形同然の姿。食事も排泄も人の手を借りてようやく済ませる有様だ。
「感情がどっかに行っちまったんだと、連れの男は言ってたよ」
 僅か三日のあいだ同行しただけで、ジルコンの精神は限界だった。
「あの人にとっても、孤児を世話することは償いらしい」
 二人と別れたあとは、やり場のない感情を魔獣にぶつけた。シデロフィルをあのような惨めな姿にしてしまった魔獣に対する怒り。見捨てた大人への憎悪。側で見守ることさえ出来ない弱い自分への苛立ち。
 倒しても倒しても全滅させることの出来ない魔獣に、やがてジルコンの心が折れた。自分のしていることが無意味に思え、魔獣を倒すことをやめたら金が尽きた。そんなときに立ち寄ったのが前の店主が切り盛りしていた『fumyu』で。
「食い終わってから金がねえって開き直った俺に、毎日顔を出すなら支払いは待ってやると親父さんは言ったんだよ」
「それって」
「俺がフィルにしているのは親父さんがしてくれたこのと一部だよ。ボロボロで危なっかしかった俺を、親父さんは気長に面倒見てくれて、最後はこの店をくれた」
 引き取られた屋敷で調理場の雑用をやっていたお陰で、肉の下処理や野菜の皮むきは出来た。支払う当ての無かったジルコンは、勝手に店の下働きに収まった。
「まあ、だから俺はフィルが孤児院育ちと関わるのは正直反対なんだが」
 それであいつの気が済むなら仕方がねえか、と二階を見上げた。


エピローグ

 庶民の服装をまねた上流階級の人々がレストラン『fumyu』の大して多くはない座席を埋める。一見普段通りの営業に見えて、仲には特別に選ばれた客しかいない。
 上座らしい上座もない店だが、ことさら綺麗に磨き上げた席に着くのは噂の『さるお方』とその連れの少年。親子ほども年の離れた相手に、『さるお方』はどことなくへつらうような態度だ。二人が付くテーブルには、もう一席用意されている。一人遅がれて来るらしい。
「こんな日にリチアはどこに行ったんだよ」
 ウェイトレスのが見えないと、臨時のウェイターになったルベライトが文句を言う。昨日磨くのを手伝わされた銀のスプーンをトレイに並べて配る準備。王国では近年、テーブルナイフとフォークと言うものを使う習慣が出来つつあると聞くが、公国では見たことがない。
「もうすぐ来るぜ」
 切り分けた巨大兎で数種類の料理を作りながら、ジルコンが言う。
「へえ、あれが噂の方ねえ」
 シデロフィルははしゃいだ声を出しているが、どこか無理している風である。敷物になりそうな巨大兎の皮を弄ぶ。
「お待たせいたしましたわ、お父様、王子」
 店の入り口で少女の声。最後の客人が到着したら会食の始まりだ。ジルコンが客の少女を席まで案内したところで、ルベライトとシデロフィルがスプーンを配るために客席へ出た。
「あれ、リチア」
 町娘風の装いに、軽く化粧を施した少女は、この店のウェイトレスだった。ルベライトが取り落としそうになったスプーンを掴みなおす。
「こちらは、この国を治める公爵様と、ご息女のリチドライト様、隣の王国の第一王子であらせられるスポジュメン様です」
 粗相の無いようにと、ジルコンのかしこまった声。
「ご婚約のお約束がなったとのこと、お喜び申し上げます」
 ジルコンは挨拶の言葉を述べると、ぽかんと口を開けたルベライトの腕を引いて厨房に戻す。
「聞いてねえよ」
 小声で言って、一度厨房に戻ったシデロフィルに視線を向ける。
「まあ、大体こんなことだとは思っていたぜ」
 平然と前菜を運ぶシデロフィル。
「ほら、お前さんも運んでこい」
 料理の仕上げに取りかからねばならないジルコンに促されて、納得いかない表情のルベライトが皿を持った。

「つまり、会ったこともない隣国の王子に嫁ぐことが決まったリチドライト姫が最後のわがままを言ったんだよ」
 会食が済み、後片付けの最中。種明かしと言ってジルコンがルベライトに説明を始めた。
「せめて婚約内定の前に相手の人となりを知りたいって」
「公国と王国の関係を考えれば、人質みたいなものだ。嫌がっても断れ無いことはあの姫にも分かっていたことだろうな」
 シデロフィルが言った。剣の腕は良いが、皿洗いは苦手らしい。五枚の皿を割ったところでジルコンから邪魔をするなと叱られ、厨房を覗くカウンター席でエールを呷っている。
 公爵家の突然の反乱、王国からの独立。王国は土地を取り返そうと戦争を仕掛けた。貴族の領地ひとつ分の土地しか持たない公爵家は、はじめこそ勢いがあったが疲弊は早かった。
「当時の公爵は自分の娘を差し出すことで戦争を終わらせた。王国側も公爵家に爵位を与えることで、自分が優位な立場だと周辺国に知らしめることを条件に手を引いた訳だな」
 ルベライトは、歴史の講義に現代のリチドライト姫、リチアの姿を重ねた。
 会食の最後には、スポジュメン王子と笑顔で会話を交わしていた。だがそれはシデロフィルに対していたときの明るさとは違って、高貴な血を引く者の役割としての笑顔だったのだろうと思う。
「でも何でこんなシケた店なんだ」
「シケた店で悪かったな」
 しんみりしかけた空気を、シデロフィルの一言が吹き飛ばす。
「俺が孤児院から引き取られた先、どこだと思う」
「さるお屋敷、ってまさか」
 何かに思い当たって驚愕の表情を浮かべるシデロフィル。
「あ」
 一瞬遅れてルベライトも気がついた。
「そんなところを飛び出した奴の店に、よくもまあ公爵様はいらっしゃったモンだ」
「それも案外」
 公爵様の、孤児達に対する罪滅ぼしなのかもなとは、驚きから回復しない二人の耳には届かずに。

 終わり
 

by 櫻居惠

 作品の冒頭を思いついたのは締め切り一週間前。今回は不参加のつもりでしたが急遽書くことに。実質五日の執筆期間でどうにか完成できました。

 今回のお気に入りキャラは「シデロフィル」
 なかなか衝撃的な過去を背負っています。見知らぬ相手に身の回りの全てを委ねなければいけないほどの傷を心に負いながらも、今はルベライトに構うくらいには回復しています。
 愛用の短剣は、世話になった男がくれたもの。
 
 『fumyu』の店主「ジルコン」
 かつては見守ることさえ出来なかったけれど、現在はシデロフィルを支える男。シデロフィルがルベライトの世話を焼こうとすることを心配に思っています。
 
 主役のはずの「ルベライト」
 ルベライトの辛い過去は、いつか書かねばと思っていました。今回はその一部、シデロフィルとの出会い編です。
 孤児院を魔獣に襲われ旅に出たは良いけれど、空腹でふらふら。兎の魔獣を発見して倒そうとしたところをシデロフィルに助けられます。
 本編でもシデロフィルの格好を真似しすぎ(笑)

 巨大兎「フレミッシュジャイアント」
 実在しますが、ここまで大きくありません。

 本編である「運命《さだめ》の果て」は、ルベライトを主人公に、世界の大きな運命と魔獣に立ち向かう話です。シリアスあり、お色気()ありの長編(予定)。併せてお楽しみいただけたら幸いです。


「運命の果て」
魔獣を狩って稼いでいるルベライトは、魔獣に襲われた町で、同じ孤児院で育ったモリオンと再会する。
魔獣狩りをしながらの旅は、やがてこの世界の運命(さだめ)に関わるものへとなっていく。
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個人サイト「さくらの森 別館」
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